13年目のファーストキス僕たちの家の玄関には、小さな小さな干支の置物が置かれてている。備え付けの木製の靴箱の上、時計の文字盤で例えると十二の位置に木彫りのねずみがいて、そこからぐるっと時計回りに十二支が並んでいる。
はじまりは確かそう、お母さん。
『つい可愛くて選び損ねちゃって、ひとつもらってちょうだい』とつまみ細工の夫婦うさぎを玄関に置いていった。
一年が過ぎてうさぎ年も終わりを迎える頃、帰って来る度にそのうさぎを仕舞おうかどうしようか僕は悩んでいた。
「十一年仕舞われっぱなしはさびしいよね」
けど出しっぱなしもどうなのかな。片付けないと縁起が悪いとかあるのだろうか。
答えが出ないまま数日たったある日、うさぎのとなりにずいぶんと可愛らしい"たつ"の置物が置いてあってびっくりした。とぼけたまあるい顔をして、二匹でひとつの破魔矢を仲良く咥えている。おそるおそる両手で持ち上げるとチリンと控えめな音が鳴った。
その鈴の音に呼び寄せられてやってきた先生は、僕の手の中のたつを見るなり後ろ頭をぼりぼりと掻いた。そうして聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でぼそっと、
「十一年間仕舞っとくのもなと思って」
とだけ言ってリビングのほうへ戻っていってしまった。それを聞いて僕は何だかとても嬉しくなって、靴を脱ぐなり先生を追いかけてその猫背に飛びついたことをよく覚えている。
それから毎年年末が近付いてくるとどちらかが翌年の置物を買ってくるようになった。なんとなく二匹で一体となっている置物を選ぶ、という縛りを作ったおかげか干支の置物がふたつになってしまうということはなかった。見つけるのに苦労してわざわざいっしょにでかけたこともあったっけ。
あれから十三年。
ひとつずつ増えていった置物は去年で十二支すべてが揃っていた。
木彫りのねずみ、張り子のうし、陶器製のとらに、つまみ細工のうさぎ、土鈴のたつ、そのとなり、五時の方向がひとつ空いている。
ちりめんでできたしろへびは今年の主役なので円の中心に鎮座していた。捕縛布みたいにくるくると巻かれたしっぽの中心から小さな緑色のへびが顔をちょこんと覗かせている置物で、先生が見つけて買ってきたものだ。見るたび何だかちょっと僕を面映ゆい気持ちにさせる。
毎年そうやって今年の干支を中心に据えてあげると、円のどこかがぽっかりと空いてしまった。それがいつもちょっと気になっていた。
そう、それだけで、深い意味はなくて。
言い訳めいたことを考えながら僕は握っていた拳をのろのろと開いていった。
汗ばんだ手のひらに乗っていたのは小さな招き猫の置物だった。黒猫と白猫が仲良く寄り添っている焼き物だ。片目を瞑った黒猫の瞳には金色の宝石が嵌められていて、白猫の目はエメラルドでできていた。……それなりにお値段は張ったけど、見つけてしまったんだからしょうがない。
十二年続けてきた干支探しを今年でやめてしまうのがもったいなかったし、先生猫好きだし、同棲して十三年目っていうのもなんだか不吉な数字だから招き猫とかいいかなって思っただけで……と必死に言い訳を並べ立てて自分の中に真っ当な理由を落とし込もうとする。そんな理由付けなんて意味の無いことだとは思いつつも十二支の輪に猫を加えるあと一歩の勇気が出ないまま、僕は靴も履いたままで玄関に立ち尽くしていた。
先生はきっと、からかったりせず喜んでくれると思う。けどそれがまた恥ずかしいというか、いや無反応だったら悲しいんだけど、話題に出されたら出されたで照れるし……。
もう十二年、僕たちは一緒に暮らしてきた。
ひとつずつ干支の置物を増やしていって、当たり前のように年を重ねて。
けど十二支はもう揃ってしまって、なぜだか急に不安になった。
僕たちは結婚しているわけではない。
将来を誓い合ったわけでもない。
干支を集めているうちは新しい年が来るのが楽しみだと感じていたのに、全部揃ってしまったらもう続きはないんじゃないのかって……。
思わず縋るように招き猫を両手で握り締めたとき、突然ガチャリと玄関のドアが開いた。僕は弾かれたようにそちらを見上げる。
「あっ」
「おっ」
声を上げた僕に先生も小さく肩を揺らした。冷たい空気が玄関に吹き込んでくる。先生のコートには少し雪がついていた。
ドアノブを握ったまま動きを止めていた先生だったけれど、その視線がゆっくりと降りていき握り締めた招き猫のあたりに行き着いて止まる。僅かに瞠られた先生の目に、慌てて僕は招き猫を手の中に隠した。
(気付かれた……!)
心臓がバクバク鳴っている。いたずらがバレた子どものような気持ちで、よく分からないけど泣きそうだった。鼻の奥がツンとして痛む。
「あー……。そうか。おまえも、買ってきたのか」
後ろ手にドアを閉めながら先生が言いにくそうにぼそぼそと呟く。おまえも、の部分が引っかかって顔を上げると、先生は見慣れない紙袋をひとつ抱えていた。思わずドキリと胸が高鳴る。
「あ、相澤先生も、……わぷっ」
思い切って口を開いた途端、頭の上に何かが降ってきた。反射的に閉じた瞼を開くと視界の半分を白い何かが塞いでいる。真綿のように軽い『それ』越しに見上げた先生は妙に真剣な眼差しで僕の頭に乗せた『なにか』の位置を調節していた。
「レース婚って言うらしい」
「れーす、こん、」
また唐突に何を言い出すのだろう。音だけでは漢字変換できなかったが、自分の頭に乗せられたものの正体がレースであるということだけは判明した。判明したけれど、なんだかこれって、その、まるで、
(花嫁さんのベールみたい、)
神妙な面持ちの先生を見つめていられなくなって、僕はレースの内側で密かに睫毛を伏せた。視線の先には握り締めたままの招き猫。そんな僕の頭の上に先生の静かな声が降ってくる。
「金婚式とか、聞いたことあるだろ。結婚十三年目はレース婚って言うそうだ。十二支は揃ったが今年で打ち切りにするのもなと思ったから。これは十二支たちの下に敷くのにちょうど良いかと思って買ってきた」
「け、けけ、ケッコンって……っ!ぼ、僕たち、そういうのじゃ……!」
ないですよね、という言葉が僕の口から出てくることはなかった。レース越しに見上げた先生がひどく驚いたような顔をしていたから。
それから先生は、あー、とか、んん、とか唸りながら頭を掻いた。そうしておもむろに僕の両手を包み込み、玄関に片膝を着いたんだ。
まるで新郎が新婦に愛を誓うときのように。
「俺はそのつもりでいたけど、違った?」
「あ、う、あ、の。え……っと、」
僕を見上げる優しい眼差しに喉がつかえて上手く言葉が出てこない。左手薬指の付け根をさする先生の硬い指先が余計に僕の喉を詰まらせた。手汗がすごくて恥ずかしい。
「来年も再来年もその先もずっと、傍にいることを誓います」
何もつけていない薬指に先生の唇が触れる。本当に新郎新婦の誓いのようで胸が熱くなる。
僕は招き猫をぎゅっと握り締め、口から飛び出してきそうな心臓をゴクリと飲み込んでから震える唇を何とか抉じ開けた。
「ぁの、……あの。ゆび、じゃなくて、ち、ち、誓いの、…………は、その………………、」
「ん?……ああ、」
僕の言わんとしていることに気付いた先生が口元を押さえて俯いた。さらりと落ちかかった髪から覗く耳が心無しか赤くなっているような気がして、僕の耳まで熱くなる。
「ええと、ベールは外すんだったか、」
「た、たぶん、そう、でし、た」
立ち上がった先生の顔を見ることができない。視線を落とした先にあった玄関タイルが浮かんだ涙のせいでゆらゆらと揺れているように見えた。
揺れる視界の中に先生の指先が現れる。壊れものを扱うかのようにそっとレースの端を摘まんでゆっくりと持ち上げられていくその間、一体どんな顔をして待っていればいいのか分からなかった。へたれた困り顔を晒すことになって恥ずかしいけれど、僕の両肩に先生の手が乗せられたときなんてもう心臓がドクドク高鳴り過ぎて自分の個性がハートビートになったんじゃないかと勘違いするくらいで。
「少しだけ、顔上げてくれる?」
「!」
(下、向きすぎた……!)
慌てて顔を上げたら目の前に先生のどアップがあって呼吸が止まる。キスくらいで今更ときめくような間柄じゃないのに、はじめて触れるかのように優しく唇を重ねられてドキドキが止まらない。冷たくてかさついていて無精髭がチクチク当たるけど。漫画だったら『ふに』という擬音がつきそうなくらい柔らかくて、なんだったらファーストキスより甘かったかもしれない。
たぶん僕はこのときのキスの味をずっとずっと覚えていると思う。