サイン(二人きりの言葉) 二人きりのサインがある。二人きりしか分からないサインがある。俺たちはそれを使ってやりとりをする。暗号のようなものだ。といっても、その内容は簡単なもので、今日の夜は外で食べようとか、今日部屋を訪ねていいかとか、そんな他愛のないものだった。でも俺はそのやりとりが好きだった。狡噛と俺だけに分かる言葉のようで、二人だけの言語のようで。今日もサインをもらって俺の部屋に狡噛が訪ねてくることになっていた。とびっきりの酒を持って、そのあとは俺の部屋に泊まることに。けれど、それに少し陰りが入ったのは、仕事を終えそうになった夕方のころのことだった。
「ねぇ、狡噛。仕事が終わりそうで悪いんだけどちょっと一緒に来てくれないかしら。この状況を説明するのにはやっぱり海外を放浪してたあなたがいる方が相手方を説得しやすいと思うのよ」
そう、花城が狡噛を引き止めたのだった。しかも内容からして時間がかかりそうな話だ。でも、狡噛はそれに「あぁ」と答えながらも、指でとんとんと机を叩いて、俺にサインを送った。それは遅れてでも行くということを意味していた。俺はそれに嬉しくなり、彼の代わりに酒やつまみを用意しようかと腰をあげる。もう仕事も終わりだ。こんな日があってもいい。
「じゃあ俺はこれで失礼させてもらう」
「分かったわ、宜野座。須郷もありがとう。また明日お礼をさせてね」
そのお礼が何かは意味が分からなかったが、多分俺たちが示し合わせているのは課長にはバレていて、そのせいであんな言葉が出たのだろう。俺は自分たちの関係を隠していないから、まぁ、こういうのも仕方がない。ただ彼女はからかいはしないので感謝はしている。
「それじゃあギノ、行ってくる」
まるで朝仕事に送り出す時みたいだと思いながら、俺は狡噛に背を向けた。
狡噛が帰ってきたのは、いや、この表現は正しくないな、狡噛が俺の部屋にやって来たのは、日が変わろうとする頃だった。彼によれば外務省の上官に気に入られて飲まされていたのだという。彼はテーブルの上のウィスキーを見てすまないと言い、俺はそれに笑って「いいさ」と言った。別に飲むだけが酒じゃない。酒を摂取する方法は他にもある。
「狡噛……」
俺は狡噛の肩に手をかけて、そして唇を重ねた。すっとするが深い酒の味がして、なるほど、これは高い酒だと俺はしみじみと思った。
「いい酒じゃないか。俺が用意したのには負けるがな」
「分かってるよ、許してくれ、ギノ……」
二人してキスをして、バスルームにもつれ込む。今夜はシャワーだけで充分だろう。明日の朝にたっぷり時間をかけて風呂に入ればいい。俺はそうサインを送って、狡噛の唇に噛み付いたのだった。