光を灯す 桜が散ろうとする頃、フラスコや、シリンダーが並ぶ部屋にその少女はいた。手錠をかけられて机に繋がれた腕は鬱血していて、だが彼女は明るくこう言った。
「お兄さん、あの方は?」
あの方はどこに行ったのです? 約束したのに。
俺はその問いにすぐに答えられなかった。答えたのは傑だった。あなたの言うあの方は私たちに捕らえられました(私たちが殺しました)。さぁ、怪我を治してもらいましょう。傑の言葉を聞いていた硝子が足を踏み出す。俺はそれを見ていられず、することも出来ることもなく、連続殺人犯のアジトから出たのだった。
呪術師の娘が連続殺人犯、正しくは呪詛師にさらわれたのは、今から一週間前のことだった。俺たちがそれを助け出したのは昨日の話。彼女の残穢をたどって探し出したから任務はそう難しくなく、むしろこんな簡単な仕事を他の呪術師が早急にしなかったことが不思議だった。ただ呪詛師は呪いをかけていたから、最強の俺たち以外の他の呪術師は、そのトラップにひっかかったのかもしれない。それより不思議なのは、少女が今も男を待っているということだ。伝え聞いたところによると、彼女は例の男をいまだに慕って待っているらしい。高専に戻って食事をとって傑の部屋に帰る途中、まるでロミオとジュリエットみたいだなって言う彼に、俺はロマンチストすぎると友人の部屋の扉を開きながら言った。
「ロミオとジュリエットね……」
呪術師と呪詛師。確かに対立しているといえばかの名作になぞらえることも出来るかもしれない。呪詛師は他の女をさらっては数日中に殺していたのに、少女をそうしなかったことからも、二人の間には何かが起こったのかもしれない。でもそれらは全部仮定だ。そして現時点で真であると判明していないのだから、これは偽であると仮定できるかもしれない。閉世界仮説、または予測。クローズド・ワールド・アセンプション。倫理学の遊び。
「呪術師と呪詛師が愛し合うってこと、あると思う?」
俺は机の上にあるポッキーを口に五本ほどくわえ、その甘みを楽しんでからベッド脇にある時計を見て尋ねた。時刻は十時過ぎ。そろそろ自室に戻らねばならないが、帰ったところですることもない。今日は二時間ほどここで時間を潰そう。
「対立する組織が、自分たちの部下の夫婦の殺し合いをさせた映画があったじゃない。ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーのさ。もしかしたらあの女の子は、本当は自分の親に殺されようとしていたのかもしれないね。義理の親によって。そして呪術師が憎い、呪詛師に転向したばかりの青年によって」
「義理の親? そんなの俺は聞いてないけど。呪詛師に転向したばかりの男?」
「悟がいなくなった後私たちに聞かされたんだよ。彼女は術式を見込まれて本家に呼ばれた分家の娘だったんだけど、新しく息子が誕生して無駄になったんだってさ。術式もその息子の方が上と来てる。まぁ、苦々しい話だけどよくあることさ。それに絶望して呪詛師になる人間も多い」
傑はそう言って、こともなげに湯気の立つコーヒーを飲んだ。俺はポッキーを噛んだ。ばり、ぼり、骨をかじるみたいに。大きく音を立てて。
「でもそんな孤独な二人が出会ったら、愛くらい生まれるかもね。私はそう思うけど」
「そうかぁ……」
俺はごろん、と机の下に寝転がった。傑はあぐらをかいて、一向に帰ろうとしない俺に文句すら言わなかった。呪術師と呪詛師は相容れない。でもそこに愛があったら? もっと言ったら愛の残骸があったら? 二人は愛し合うだろうか? いつか呪術師は呪詛師を殺さねばならない。呪詛師は自分の身を守るために呪術師を殺さねばならない。そんな中で愛し合うのは、一体どんな気分なんなんだろう。自身に例えれば傑が呪術師になったら? いや、そんなことはないって分かっている。でもジュール・ヴェルヌも言っていたじゃないか。人間が想像できることは、人間が必ず実現できるって。でもこれは閉世界仮説と矛盾しないか? あぁ、面倒くさい。人間はなんでも考えすぎる。こういう時はすぐに手に取る快楽に頼るべきだ。
「なぁ、傑。キスしない?」
「どうして?」
「かわいい恋人が頼んでるのに? 嫌なの?」
俺がそう尋ねると、傑はため息をついて俺の腕を引っ張った。そして俺を抱きしめてほっぺたにキスをしてくれた。可愛らしいキス。少しも性の香りがしないキス。
「今日はもう寝るんだね。何も考えないで」
傑が俺を抱きしめてくれる。俺はそんな中、フラスコの列の中で手錠をかけられた少女を思い出す。あの手錠は開いていた。彼女はいつだって逃げられた。呪詛師は彼女を解放していた。でも、二人は共にいた。
「ここで寝ていい?」
俺は傑に尋ねる。傑は「狭いのがいいなら」と笑って、今度こそ俺の唇にキスをしてくれた。
呪術師と呪詛師は相容れない。けれどそれを超えるものがあるのなら、俺がそれを想像するなら、きっと実現もするんだろう。俺はレイモンド・レイザーよりもジュール・ヴェルヌを支持する。何があっても俺たちは一緒だって、何が起こっても俺たちは一緒だって。
傑は俺を抱きしめる。強く、強く。
少女のことは話さない。それはもう俺たちの手から離れたことだから。でも、少女はたった一つの明かりを失ってしまった。人生を照らす光。それを彼女は失ってしまった。たとえそれを持ってきてくれたのが呪詛師であったとしても、その光は変わらないのだ。これじゃあまるでキリストの信仰だな。悪魔が存在するから神も存在するってロジック。そんな愛を彼女は愛した。俺が傑を愛してしまうみたいに。
「傑、愛してるよ」
「はいはい……」
俺たちはベッドで絡まる。セックスをしないで、ただ寝転ぶ。花冷えなのか今日は少し寒い。冷えた足を絡ませながら、俺は傑を最後まで愛そうと、そんな当たり前のことを考えていた。