星祭りの日の涙 今日は七夕だというのに、明朝から雨が降っていた。今年は珍しく梅雨が早く開けた分戻り梅雨があり、織姫と彦星は不幸にもそれに見舞われてしまったのだ。
正直なところ、別にもう歳だから昔話の二人が会えなくたって残念にも思わない。それに一年間会えないからといって、心が変わらないことを俺は知っているからというのもある。狡噛と離れていたのは何年間だっただろうか? 彼が執行官になってからも心は離れていたから、海外を放浪していた最中に感じた孤独を長いこと俺は痛みも感じずに抱えていた気がする。けれど当時感じなかっただけで痛みはあり、再会した今でも、長い間会っていなかった気がするのだった。
「どうしたんだ、浮かない顔をして」
気圧のせいで頭痛でも抱えてるのか? そう狡噛はキッチンテーブルに置いてある、コーヒーをすすりながら言った。
俺たちは今日はオフで、彼は俺が手ずから焙煎した豆を使ってコーヒーを淹れ、休日をのんびりと楽しんでいたのだ。俺はソファに座ってぼんやりと窓の外を見ていた。そんな午後だった。まだまどろみの中にあるような、そんな日だった。
俺が見つめている窓には雨粒どころか、長い長い線が伸びている。それは幾度も交わり、別れ、サッシの向こう側に消えてゆく。窓に叩きつけられた水は跳ね、ベランダの緑色の紫陽花に飛び散った。あれも中に入れた方がいいだろうか? 根腐れしないだろうか? それとももう少し様子見した方がいいだろうか? そんなことを考えて、俺はぼんやりと口を開いた。
「いや、織姫と彦星が会えないな、なんてことを考えてな。柄にもないだろ。子どもみたいだ」
狡噛が目を丸くする。俺はふと言ってしまった台詞が幼かった気がして、眠気覚ましに狡噛から差し出されたコーヒーに口をつけた。それは文句のつけようのない出来だった。狡噛は何でも覚えがいいから、俺が得意なことを上を行って全てさらっていってしまう。学生時代や監視官時代はそれを不幸なことだと思っていたが、今は便利でいいじゃないかと思うようになった。彼が出来ることが増えたら、俺が楽になるという横着をしているのだ。図太くなったものだ。
「日本じゃそう言うが、朝鮮じゃあ違うんだぜ、ギノ」
狡噛はそう言ってコーヒーをすすった。また出島のマーケットで移民と関わり、余計な知識を仕入れて来たのかもしれない。出島には東南アジア系の人間が多いが、もちろん朝鮮や中国、台湾の人間も多い。彼らは普段から好む赤い糸の飾りだけでなく、七色の糸を使って七夕を喜び祝う。そこまでは知っている。日本のように捧げ物をして手仕事が上手くなるように織姫に祈ることも、星座を描いて勉学が上達するように彦星に祈ることも、近しい国々だから風習が重なっていることも。
「朝鮮だと、それどころか七夕には絶対雨が降るって信じられてるんだ。織姫が一年ぶりに彦星に会えて、嬉し涙を流すからって。雨が二日間続いたら、別れがたくて泣いてるんだってさ。いじらしいだろう?」
「へぇ……いじらしい、ね」
ずいぶん泣き虫な女なんだな、朝鮮人の女はステレオタイプだと気が強くて、そして涙もろいというから、そこから来た伝承かもしれない。今の彼女らがどんな人間なのかは、悲しいかな俺は知らないが。
「ギノも俺と再会した時泣いたじゃないか。もう忘れたか?」
絶対言われる、と思った台詞が彼の口から出て、俺は思わず左手で殴りそうになった。狡噛は悪い男ではないが、時折デリカシーがない時がある。やわらかくて触れたらすぐ傷ついてしまうようなデリケートな部分を、彼は遠慮なく触れて今のようにささやくのだ。ギノも寂しかったんだろうと。
「忘れたね。だってお前がいない間もずっと仕事で忙しかったんだ。お前のことを考えてる暇もなかったよ、狡噛」
「じゃああの時の涙は?」
「しつこいぞ狡噛!」
俺はソファに置いてあったクッションを、意地の悪い恋人に投げつける。狡噛はそれを華麗にかわすと、次のように言った。
「だって嬉しかったんだよ、ギノ。お前は髪型もファッションも変わって、俺が知ってるお前じゃない気がした。お前が俺のいない間に変わってしまった気がした。でもお前が昔みたいに泣くから、あぁ、日本に帰って来たんだ、お前は芯は変わってなかったんだって思ったんだ」
湯気の立つコーヒーをテーブルの上に置いて狡噛が言う。俺はその言葉に何も言えなくなって、そういえば俺はずいぶん外見が変わってしまったのだと思い返した。思えばがむしゃらな日々だった。父のようにならねばと思った。でも彼が帰って来て、これまでの自分を許せた気がした。今も父を喪ったのは、自分のせいだと思っているけれど、狡噛がそれを包んでくれている気がしていた。
「……俺もお前が帰ってきて嫌じゃなかったよ、狡噛。お前が帰って来てくれて嬉しかった。こんなの、初めて言うけど」
恥ずかしい。こんな台詞を口にするなんて、頭がおかしくなりそうだ。でも、言わなきゃいけない気がした。彼に伝えなきゃいけない気がした。
一年ぶりに一日だけ愛しい人と会う織姫と彦星は、どんなふうにお互いを思って残りの日々を過ごしているのだろう。心変わりは心配しないのだろうか? それとも、俺が想像する以上に、彼らの愛は誰にも邪魔出来ない、固いものなのだろうか? 俺はそんなことを想像して、自分は織姫たちより恵まれていると思った。彼らより長い間恋人と離れていたが、今はもう離れることはないから。
「そんなこと言われるなんて思わなかったな」
狡噛がまたコーヒーをすすって、ばつが悪そうに頭をかく。そんなこと言われるなんて思わなかった? 俺はずっと思ってたさ、言わなかっただけで。自分が重い男と思われたくなかったから、ただ言わなかっただけで。俺はお前が想像するよりもずっと、お前を愛しているのだから。
「それじゃあせっかくだし、朝鮮人街にでも行こうか。美味しいミルクッスっていううどんを出す店を知ってるんだ。せんべいも美味いぜ。臭くない鯉の刺身に焼き魚、きゅうりのキムチなんかもある。甘い飲み物ももちろんあるから安心しろ」
狡噛が早口で言う。それからも、彼が照れていることが分かる。少し赤くなった耳たぶからも。俺はそれについて可愛らしい男だと思って、じっくりと考えるふりをして彼を焦らしてから、うんと頷いた。
雨はまだ降っている。俺は明日も雨であることを祈って、別れを惜しむ織姫が流す涙を拭う彦星を思って、重い腰を上げ、彼が探し出した美味い店とやらに行くことにしたのだった。