15時、チャイの下で「こんな時間だし、そろそろ休憩にしましょうか」
そう花城が言ったのは、行動課のオフィスにかかった時計の針が十五時をさした時のことだった。
ここにおいて、こういった休憩は珍しくない。というのも、俺たちはあくまでも実働部隊だったので、事件が起こらない日はくだらないデスクワークにかかりきりになるだけで、はっきり言って暇だったからだ。他の課と折衝をする課長の花城だけがその例外だったが、彼女が休憩したいというのだからここは従っておくのが賢明だろう。
須郷が立ち、無言でコーヒーサーバーに向かう。しかし花城は彼がカップを手に取ったところで止めて、「今日は紅茶にしない?」と言った。
「紅茶、ですか?」
須郷が言う。誰が決めたわけでもないが、このオフィスには泥水のようなどす黒くまずいコーヒーを飲むという習慣があった。そう、誰が決めたわけでもないのに、俺がここに来た時には既にそうなっていたのだ。もしかしたら外務省全ての課がそうなのかもしれない。とはいっても、食堂のコーヒーはもう少しましな味だったのだけれど。
「前、インドからの入国者の事件を受け持ったことがあったでしょう。その時に関わった人から、美味しいアッサムティーをもらったの。クオリティーシーズンのミルクティーに合うものよ。今じゃあ手に入れるのも難しいんだから」
花城が言っているのは、出島で先日起こった、長い間インドを混乱に陥れてきたアッサム統一解放戦線独立派の分離組織による、インド系先住民族の移民に対する銃撃事件だろう。被害者が二十名ほど出た、悲惨な事件だった。犯人たちは俺たちが取り押さえた後全員公安局に逮捕され、これも俺たちが関わった取り調べののち執行されたと聞く。俺たちは公安局と協力して(幸いにも有能な監視官がいて助かった)、犯人の捜索と確保にあたっていたのだ。わざわざ日本にやって来てまで対立する少数民族を殺したのはなぜかと尋ねた狡噛に、彼らはそれが自分たちの信念だと答えたのをよく覚えている。インドは百年前と同じくヒンズー教徒とイスラム教徒、そして少数民族が対立しており、現在はいくつもの州がパキスタンに編入されたり、独立を願って紛争が起こっていた。そんな場所から逃げて来た人々を狙ったのが、今回の卑劣な事件だったのである。
「だから今日はミルクティーにしましょ。クローブ、シナモン、カルダモンもあるのよ。チャイもたまにはいいでしょう? これも甘いけど、丸く揚げたドーナツもあるの。カーラージャムーンって言うんですって」
花城はそう言って、デスクの引き出しからペイズリーに似たインド文様の布の包みを取り出した。そんなところに隠しているのかと呆れるとともに、甘い香りに勝手に唾液が出て来てしまうのだから少し情けない。
「似たようなものだけど、シロップ漬けのクッキーみたいなジャレビや、ココナッツを固めたミルク菓子のバルフィー、ひよこ豆で作ったザクザクのラドゥなんかももらったの。豪華でしょう。全部シェフの手作りっていうからすごいわよね。手がかかってるわ……」
デスクの上で布を紐解き、目をきらきらさせて花城が言った。そして今日は私が紅茶を淹れるわ、とも。
というわけで、俺たちは花城のおこぼれにあずかるわけとなった。とはいえ、俺だって先日の事件でそれなりに仕事をしたのだから、当然といえば当然なのだけれども。犯人を取り押さえ、尋問にもあたった。その後の処遇で彼らが執行されたと聞いた時は複雑な思いだったが、それもこの国では仕方のないことだ。国外追放ではなく、日本にとどまりテロリズムを続けると、自死のような結果を選んだのだから。
花城が給湯室に向かって茶葉を持って出てゆく。そんな時、どこからともなく狡噛が俺の背後に立った。彼は花城が紅茶を淹れに席を離れたのをいいことに、煙草を咥えて腰をかがめて俺の使うコンピュータのディスプレイを覗いている。仕事をしているのか気になったのだろうか? いや、それよりお前は仕事をしていたのか?
「なんだ、狡噛。何の用だ」
「抜け出さないか? こんな狭いところに詰めてちゃ息が詰まる。花城が給湯室でティーポットを温めてるうちに。ほら、ドーナツもかっぱらって来た」
狡噛のその物言いに、俺は思わず笑ってしまった。かっぱらって来たって、野良猫じゃああるまいし、そんなに甘いドーナツが食いたければ食堂で売っているというのに、わざわざ紙の報告書に包んで持ち出すなんて、子どものいたずらじゃあないか。油断するとすぐこれだ。狡噛は好奇心が旺盛で、自由で、俺が想像もしなかったことをする。それが彼を愛する所以でもあったが、悩みの種でもあったのも事実だ。
「俺は花城のチャイも飲みたいがな。その後じゃ駄目なのか?」
わざと焦らすようにそう言うと、狡噛は俺の耳に唇を寄せて「二人きりになりたいんだ」と言った。俺はその言葉に思わず赤面しそうになる。こんな歳だというのに、これじゃあまるで学生時代の恋の駆け引きを再現しているようで笑ってしまう。いや、別にそれが嫌なわけじゃないんだ、ただ気まぐれに交わされるこんな言葉や、行動がとてもくすぐったいだけで。
「なぁ、ギノ。駄目か?」
狡噛が言う。彼の手が俺の肩を触る。須郷は花城を手伝いに給湯室に行ってしまった。だから今のオフィスには俺たちしかいない。さすがにその辺りは彼もわきまえているのだろう。でも、まだ昼間だ。そして花城が与えるのは短い休憩時間だろうに、その間に抜け出して何をしようというのだろう。俺はそれをいぶかしく思って、そして彼女がいそいそと淹れているだろう俺たちの分の紅茶について考えた。少し勿体無いのではないか? 狡噛二人との逢瀬もいいが、帰ったらすぐにでもお互いの部屋に行けるじゃないか。時間を惜しんで愛し合う年頃でもないだろうに。そんなに学生時代が懐かしいのか?
「駄目じゃない。でも今はお預けだ」
俺はそう言って、狡噛の口から煙草を取り上げる。そしてそっと自分の唇を彼のそれに触れさせた。唇を合わせただけだというのに、深い煙草の味がする。スピネルの味。ある時は苦く、ある時は甘く香る香り。きつい匂いだが、今はもう愛する男の香りで、俺はそれを苦々しく思うことはなかった。
「仕事が終わってから二人きりになろう。それまで待てるだろう? お前はいい子だから」
唇の中に吹き込むようにして言う。すると珍しく狡噛は耳たぶだけを赤くして、「お前がそう言うなら」と少し不満げにそう答えた。
それから少しして、銀のトレーの上にティーカップを乗せた花城が戻って来た。須郷はその側について、彼女が紅茶をこぼさないよう気を遣っているのか、彼女が赤いセットバックヒールをつまずかせないようドアを開けていた。
「みんな、ティータイムよ」
花城が言う。俺たちは広いオフィスの、空き机の上に彼女がもらったお菓子——カーラージャムーン、ジャレビ、バルフィ、ラドゥなどの甘ったるいものを広げて、そこに紅茶と椅子を持ち寄って座った。狡噛はもう煙草を吸っていなかった。俺が取り上げた吸いかけのスピネルは、今は彼の携帯灰皿の中に入っている。
こういう日があってもいいだろう、と思う。熱烈に愛するのではなく、時間を惜しんで愛するのではなく、ただ日常を過ごす日があってもいいのではないかと、そう思うのだ。俺たちを隔てるものはもうない。一般人とか、潜在犯だとか、そんな線引きでお互いを縛ることはもうない。今あるのは、ただ側にいるという、そんな簡単な事実だけだった。
「あぁ、美味しい……」
花城がカーラージャムーンをかじる。俺は彼女が淹れたチャイを飲みつつ狡噛を伺い、そして机の下で隣に座る彼の手に触れた。それに狡噛は咳き込み、花城に注意される。俺はそれでも彼に触れるのをやめないで、指を絡めて紅茶を飲み続けた。俺は彼に甘いと思う。今飲んでいる紅茶よりもずっと、デスクの上に並ぶお菓子よりもずっと。じゃなきゃ関係は上手くいかなかっただろう。そう思うけれど、彼も充分甘いところがあるのだった。それはそう、ここでは秘密にしておくけれども。
俺は紅茶を飲む。狡噛も改めてカップに口をつける。
時刻は十五時過ぎ、行動課は平和だった。俺はその平和があと数日は続いてくれたら平穏に恋人を愛せるのにと馬鹿なことを思って、でもそれは事実で、密かに穏やかな日々を願ったのだった。そう、まるで誰か神にでも祈るように。