あなたとともにいる時 その便りが狡噛に届いたのは、夕暮れ時も終わり、一日も終わりかけた頃、彼の部屋で食事をしている時のことだった。狡噛はチベットで覚えたというラブシャという名の大根と羊肉などを煮込んだスープを振る舞ってくれていて、俺はその料理の辛味に舌をやられながら、空になったグラスに入った氷をかじっていた。狡噛のプライベート用のデバイスにコールがあるのは珍しいことだったから、俺は少しばかり驚いて、また出島のマーケットの友人からだろうかと思った。
狡噛は長崎で多くの友人を作っており、それは多くが東京を目指すのを諦めた移民だった。彼らの生活の面倒を見てやっているうちに自然と情報が集まるようになったから、潜在犯と判断される人々との交流は花城も黙認している。狡噛と友人は、いわゆる雇い主と情報屋の関係でもあったのだ。狡噛はそうは思ってはいないだろうけれども。
「また違法薬物の取引情報?」
俺は具沢山のスープが口の中でほろほろと崩れてゆくのを感じながら、狡噛に向かってそう尋ねた。最近は仕事で移民の間の薬物中毒者の面倒をみることが多かったから、またか、と思ったのもある。しかし狡噛からの返答は違った。それは思ってもみなかったものだった。
「いや、同窓会の誘いだよ。俺が外務省に移ったって知った奴らが寄越したらしい。執行官堕ちしてからは来てなかったのにな」
狡噛が苦々しく笑う。彼のいう通り、またエリートに戻ったと知った同級生たちが連絡して来たのだろう、俺はそう思って、少し苦しくなった。狡噛が監視官だった頃は、一年に一度必ず連絡が来ていた。しかし彼が執行官になったと知れると、彼らは手のひらを返して狡噛から距離を取ったのだ。潜在犯と関わると、色相が濁ってしまうからと大義名分を使って。だがその代わり、当時監視官だった俺に連絡が来るようになった。狡噛が潜在犯になったって本当か? 何をやったんだ? お前も災難だったな、メディカルトリップでも飲もうぜ。そんなふうに狡噛の現状を聞き出そうとするコールを、俺は無言で切ったのを覚えている。俺はそんな彼らから狡噛を守りたかった。結局は失敗してしまったのだけれど。
「あいつらは本当にお前が好きだな。高等課程時代の取り巻きだろ?」
俺はラブシャをスプーンで掬う。すると狡噛は肩をすくめて笑った。
「取り巻きなんかじゃないさ。高等課程の時はずっとお前といただろう?」
そりゃあそうだが、俺と二人きりの時、学生たちが俺じゃなく狡噛ばかりを見ていたのを思い出す。潜在犯の息子といて濁らないかみんな興味本位だったし、学年一位と二位がつるんでいるのを羨んでいるようもあった。あの頃はみんな狡噛に夢中だった。男も、女も、みんな狡噛を愛していた。狡噛がいるとその場の空気が変わった。誰にでも優しく、明るく、広く交流をして差別をしない優秀な男。将来が約束された男。そんな男をみんな愛していて、俺はその愛を独占する嫌な男だと思われていた。しかも潜在犯だ。何をして取り入ったのかと、下品な台詞を吐かれたこともある。
「そりゃあそうだが……同窓会、行くのか?」
狡噛に尋ねると、彼は首を振って否定した。俺はそれに安心してしまい、そんな自分がいくらか嫌になった。狡噛が外務省のエリートに戻ったと知れると、執行官堕ちした時に蜘蛛の子のように散った取り巻きはすぐに戻ってきた。外務省が公安局ビル占拠事件を解決に導く手伝いをしたというのは、報道規制をかけてもどこからか漏れていたのだろう。そしてその中で行動課が主に動き、刑事課の人々を助けたというのも、官僚たちの間では有名なことだったのだろう。だから彼らの元で働いているのだろう、日東学院時代のエリートたちが知れても不思議ではなかった。
「あいつらは手軽に情報が欲しいだけさ。そして手軽に輝かしかった時代を語り合いたいだけだ」
狡噛はそう言ってラブシャを食べ終える。そうしてキッチンに行き、スライスしたレモンとハーブが入った炭酸水のボトルを取り出した。それから俺の空になったグラスに炭酸水を注ぎ、またテーブルの席につく。
「お前がまだ潜在犯ってことをあいつらは知らないのかな?」
「それより公安局の事件の詳細が知りたいんだろう。あれは報道規制が強く敷かれたからな。大きな事件なのに一瞬ニュースになって終わり。しまいにはネットで移民がやったとか、自作自演なんじゃないかって陰謀論が囁かれる始末さ」
そうじゃないだろう、みんなお前のことを愛しているんだ。だからお前に会いたいんだ。俺はそう思ったけれど、答えはしなかった。答えたら、彼がまた遠くに行ってしまう気がしたから。少しずるいな、と思う。
「お前には来なかったのか?」
「潜在犯の息子の潜在犯には来ないものなんだよ。おおよそお前は一般人に復帰したと思われてるんだろう。そしたら俺は必要ない」
そうかな、と狡噛は言う。けれど彼は個人用のデバイスに同窓会には行かないと連絡をして、炭酸水を美味そうに飲んだ。
「同窓会をするなら、刑事課の連中としたいな」
珍しいその言葉に、俺は気道に水を飲み込みかけた。唐之杜と六合塚は一般人に戻ったから、出島に来るのは容易だろう。でもあの人はどうなんだろう。法定執行官となった今は、常守は自由なのだろうか?
「……そうだな、でもまた事件で会えるさ。その時にお前が気に入っている店に連れて行ってやればいい」
俺はそう言って炭酸水を飲み干した。レモンとハーブの味が強く酒のようで、もしかしたら狡噛がいつの間にかアルコールを入れたかと思ったくらいだ。
「俺はお前の料理の方が好きだけどな。大味だけど美味い」
「褒めてるのか? それ」
狡噛が笑う。でも、それは嘘じゃなかった。どうしても外に出ると緊迫感が増すから、こうやって官舎の中で守られて食事をするというのは俺にとって安らぎだった。任務がないというのは幸福なことだった。反対に長く執行官をやっていた狡噛は、今も閉じ込められているようで窮屈なのだろうけれども。
「褒めてるさ。今時こんな料理上手なパートナーがいる奴は恵まれてるって思ってる」
「へぇ……」
狡噛が意味深に笑う。そして俺たちはいつの間にか手を絡めている。時刻はまだ十時過ぎ、ベッドに行く時間帯じゃない。だったらソファでもいい。狡噛のスピネルの香りがするソファ。そこで寝転んでお互いを探るのもいい。同窓会で腹の探り合いをするのじゃなく、自分たちを全て晒して愛し合うのもいい。
俺はそんなことを思って、狡噛が握る手をふりほどかなかった。それが俺の答えだったからだ。多分、狡噛が同窓会の誘いを断ったのとは反対の感情で、俺は彼の手のひらを握った。
「シャワーは?」
「たまにはなくったっていいんじゃないか?」
俺たちはそんなふうにくすぐりあって、お互いを探り合う。それは甘い時間だった。ぴりぴりと辛い料理、甘く爽やかな炭酸水、そうして狡噛という甘い存在に、俺は溺れていったのだった。しゅわしゅわとグラスの中で泡が弾けて消えてゆくように。