海に沈む彗星 狡噛は出島のマーケットでなんでも買ってくる。それは彼の趣味である古書から始まり、珍しい皿であったり(大概が貧しさ所以に金持ちが手放した品だった)、持ち主が死んでしまった小さな祈りの像であったりしたが、今回は古びたボードゲームだった。見慣れないそれに俺が一体何だと興味を惹かれていると、狡噛は「バックギャモンだよ」とどこかニヒリスティックに休日の昼間から笑った。
赤と黒の駒がある、サイコロとダブリングキューブ、ダイスキャップがついた四角いボード。それが世界最古にして、今も最も難しいと言われるゲームらしい。彼は将棋や囲碁、チェスなどにも親しんでいたから、嬉々として披露されても大した驚きはなかった。ただ、それに自分がつき合わされるのだとしたら、どうか御免願いたかったが。
けれど狡噛はそれを広げただけでゲームを始めようとはせず、じっと盤面を見つめた。どうやら、誰かとゲームをするのが目的ではないらしい。祈りの像を買った時のような仕草に、俺は少しばかり安心して、どうしてこれを買ったのかと問い詰めたくなった。問い詰めなくても、彼は語り始めたのだが。
「……昔見た映画に出て来てな。共産党時代のブルガリアからドイツへと移住した家族が交通事故に遭い、両親は死亡、一人息子が記憶喪失で生き残るんだ。それを心配したおせっかいな祖父がやって来て、タンデム自転車でヨーロッパ縦断の旅に出る。その道中でバックギャモンを習うんだ。日本じゃそう流通しているゲームじゃないから、見つけた時には驚いたよ」
狡噛のその台詞に、俺はまた映画か、と思った。彼は本を好んで読む男だったが、映画も同じくらいよく見ていた。カラーから白黒、無声映画まで、選り好みをせず見る男だった。ジャンルも様々で、恋愛映画からカーチェイス、アクションものから文芸映画まで幅広かったのを覚えている。
「日本は安定してるが、やっぱり自分が属する国が体制を転換すると、ルーツに対する思いが揺らぐだろう? どこの国でもそうさ。とっつぁんがそうだったように。今も開国政策をとっているから、みんな揺らいでるように見えるし」
突然出てきた父親の愛称に、俺はどきりとした。日本がシビュラシステムに大きく方向転換した時に青春時代を過ごした父は、そんなことを思っていたのだろうか? だったら母は? 彼女を産み育てた祖母は? 俺は物心ついた時からシビュラシステムに生かされて来た。それを恨んだ時もあったが、盲信していた時期もあったのは事実だ。俺は父とそんな話をしなかった。今思えば、もう少し話せばよかった。あんなに近くにいたのだから、あんなに近くにいて、俺の幸福を願ってくれていた人だったのだから。
「親父も、迷ったんだろうか……」
俺は少しセンチメンタルになってぽつりと言った。すると狡噛は笑って、「じゃあゲームでもするか?」と言った。けれどどうせ勝てやしないと遠慮すると、「これはサイコロの目に左右されるゲームだから、最後の最後まで逆転があり得るんだぜ」と付け加える。そう言われてはやらないわけにはいかないだろう。
まぁそういうわけで、人生のようなそれに、俺たちはのめり込むことになったわけなのだが。
ゲームは珍しく引き分けに終わった。最初は狡噛が勝ち、次は俺が勝った。彼の言った通りサイコロの目が重要なポイントとなるゲームだったから、負けっぱなしの俺でも勝てたのだろう。狡噛は冷蔵庫からハイネケンのロングネックを取り出すと、蓋をキッチンの端で開け、俺に緑色の瓶を差し出した。
「バックギャモンに乾杯」
「まさか、引き分けになったゲームに?」
俺がそう言うと、狡噛は「人生みたいに分からないゲームだったろう?」と楽しそうに笑った。確かにそうだったが、こんなに機嫌のいい彼は久しぶりだった。ボードゲームを手に入れた時、何か気分が浮かぶことがあったのだろうか? それとも青春時代に見た映画の画面が蘇って嬉しかった? その映画を、彼は誰と見たのだろう。それは俺じゃあないことは確かだ。だって彼と薄暗い部屋で見た映画は、全て覚えているから。手が触れそうになるくらい心臓がどきどきして、呼吸が苦しくなって、そんな中で見た映画はどれも印象的だったから。
「こんな日は海に行きたくなるな……」
エアコンの効いた部屋で狡噛は言った。今はうだるような夏で、夕暮れ時で、海に映る太陽はさぞ美しいだろうと思えた。けれど高濃度汚染水に満たされた海は、側を通るだけで危ないと一般的にはされている。まさかおっこちたりはしないだろうが、それでもあえて危険を犯すことはないだろう。
「そこはプールで我慢しておけよ」
俺は笑って瓶ビールに口をつける。ホップの味が効いていて美味い。個人的には缶よりも瓶の方が香り高いような気がする。
「花城に頼んでまたナイトプールに行くか?」
狡噛がいたずらっぽく笑う。俺が醜態を晒した先日の事件を、どうやら彼は気に入っているようだった。俺としては忘れたいことだったし、忘れて欲しいことだったのだけれど。
「外務省のプールで我慢しておけ。なんなら水風呂でも浴びて来いよ」
俺がそう言うと、そうだな、と彼は言って空になった瓶をテーブルの上に置き、俺の腕を引いた。俺は慌ててビールを飲み干すが、狡噛は冷蔵庫を開けてまた同じビールを日本取り出し、そうしてキャップを開けただけだった。
かくして、俺たちは酒を片手にバスルームで水に浸かる羽目になったのだが、またそれは別の話だ。そこで起こったなんやかや、例えばセックスなんかは先日のナイトプールのそれよりずっと素面だから恥ずかしかったのだけれど、やっぱりそれは別の話だ。ここで話すことじゃない。
狡噛の部屋にはバックギャモンの盤面と、俺たちが飲み干したハイネケンのビール瓶が残されていた。それは彼がリビングの明かりを消したことで、沈む太陽の灯りに光って、流れる色がまるで彗星のようだったのを覚えている。バスルームは明かりが煌々と照って、そんな印象はまるでなかったのだけれど。
俺はまた彼に振り回されてしまった。休日はこうやって終わるのがいつものことで、それはそれでよかったのだけれど、やっぱり彼の思惑通りに進む時間は少し癪だった。でもそれでも、口づけや身体の触れ合い、そんなものに俺は翻弄されつつも彼を愛した。冷たい水の中でキスをして、ビールを飲んで、最後に映画をまた見ようと約束して。そうして今度海外に行くことになったら、海に沈む夕陽を見ながら歩こうと約束をして。