夏のあやまち 狡噛の部屋に入ると、そこは蒸し風呂といってもいいような場所だった。窓は大きく開け放たれているのだが、そこから夕暮れ時の太陽の光が入って来ていて、余計に夏の暑さを感じさせるのだ。窓際に吊るされた風鈴だけが涼しげというか、和の雰囲気を持つ風流なもので、俺はそれだけでこの暑さを乗り切ろうとしている恋人に少々呆れてしまった。
「狡噛、どうしたんだこれは……」
俺は外よりも蒸すここで吹き出す汗を拭いながら、ソファに座る彼に向かって言った。すると狡噛は疲れた顔をして、「ギノ、来たのか」と答えた。あぁ、来たさ、約束していたからな。今日は俺が夕食の当番だったから、出島に新しく出来た日本料理屋のデリで、この暑さでも食べられそうな夏野菜と豚肉の大根サラダや、なすの揚げ浸し、とうもろこしご飯や冷汁なんかを買い求めてこの部屋にやって来た。しかしそれにしてもここは暑すぎる。西日が差しているのを差っ引いても、暖房でも入ってるんじゃないかってレベルだ。
「エアコンが壊れてな。管理会社には連絡したんだが、来るのはいつになるか分からないとさ。ギノ、氷を取ってくれないか。足だけでも冷やしたいんだ……」
そう言う狡噛の声に、ぽちゃんと音が鳴る。彼はどうやらバケツに水を溜めてそこに足を突っ込んでいたらしく、それだけがエアコンの代わりになっているようだった。
俺は言われた通りに冷蔵庫からガラガラと氷を取り出す。涼しい風が出ているというのに、額から汗が落ちる。それを拭いながら氷をボウルに入れて、それをソファに座った狡噛の足元にあるバケツに入れる。ぽちゃんと音が鳴る。「あぁ、涼しい」と狡噛が言う。本当にそうなのかと俺は疑う。足を冷やしているだけの彼は、暑さで参っているみたいで頭が回っていないようだった。エアコンが壊れたというが、寝室のエアコンまで壊れたのか? なぜあえてこの部屋にいた? 別に俺を待っていなくたって良かったのに、お前がどこにいるのか探すくらい、大した手間でもないのに。
「ギノも浸かるか? ほら、冷たいぞ」
狡噛が突然俺の手をとって、バケツの中に突っ込む。ひんやりとした温度に俺は驚いたが、それでも暑いのが事実だった。こんなのは焼け石に水だ。せっかく冷たい料理を買ってきたのに、こんな部屋に置いていたら傷んでしまう。さっさと俺の部屋に行くべきだ。それか寝室に行くべきだ。
「なぁ、狡噛、ベッドに行こう。あっちのエアコンは壊れてないんだろう?」
「夕方からお誘いか? ギノは積極的だな……」
話が全く通じない。俺は恋人に幻滅しそうになり、だがその時初めてアルコールの強い匂いを感じた。見れば狡噛の足元にはビール瓶がいくつも空になって並べられており、それは彼を前後不覚にするのには充分な量だった。
「お前、酔っ払って……」
俺は珍しく、うっすらと笑みを浮かべてのしかかってくる狡噛を押し返しながら言う。けれどそんなのは無理な抵抗だった。彼の方が体重があるし、そもそも腕力が強い。酔っ払っていても、体力だけはあるのだ。
「暑いからって、ビールを飲めば涼しくなるとでも思ったか。脱水症状になるぞ」
俺は呆れきって狡噛の足をバケツから引き抜く。そしてバスルームからタオルを持ってきて、丁寧に足を拭いてやる。なんとなくユダの足を洗ってやったキリストの気分になったが、俺もここら辺になると頭が回らなくなってきていたから、きっとそのせいだろう。これで狡噛の心も清められたらいいのだが。
「暑い時に飲む酒ほど美味いものはないさ」
狡噛が笑い、ふらふらと立ち上がる。俺はそんな彼を肩に担いで、一縷の望みをかけて寝室に行く。するとそこは予想通り寒いくらいきんきんに冷房がかけられており、ますますリビングであんな暑さの中にいた理由が分からなかった。一体何を考えていたんだ。酒はあそこまで人から判断力を奪うのか。
「空きっ腹に飲むな。料理を買ってきてやったからせめてそれを食え」
俺は汗だくになった狡噛をベッドに残し、キッチンカウンターに置いた和食を取りに行こうとする。しかし狡噛はどういうわけか俺の手を掴んで離さなかった。まるで親から離れたがらない子どもみたいなそれに、俺は思わず息を呑んでしまう。こんなふうにされたら、一緒にベッドに倒れ込んでしまいたくなる。
「狡噛……」
「ギノもここにいろよ。あっちは暑いぜ」
分かっているなら素直に最初からここにいれば良かったのに。酒を飲んで頭がおかしくなっている男に言う台詞じゃないだろうが、酒はほどほどにしておけ。
「料理が傷む。腹を壊してもいいのか」
「なぁ、あと少しだからさ……」
狡噛からアルコールのそれに混じって、汗の匂いがする。今日は煙草の匂いは消えていて、彼の体臭に俺は感じてしまう。そんなことを言われたら、そんなふうにねだられたら、少しだけならいいと思ってしまうじゃないか。
「……腹を壊したらお前が責任を取れよ」
俺はそう言って狡噛の隣に寝転ぶ。確かに、こんなに冷えた部屋からあの蒸し風呂の部屋に行くのはためらわれた。料理も、熱を加えているからきっとしばらくは大丈夫だろう。狡噛から酒が抜けたら、そうしたら一緒に食べたらいい。
俺たちはベッドの上で寝転び、何もしないで側にいる。ただ目をつむって、夏の日の夕方に側にいる。これで睦言の一つでもあればムードがあるのだろうけれど、そんなことは全くなくて、それがまるで学生時代に遊び回った頃のようで、俺は少しだけ懐かしくなった。少しだけ、だが。
「看病は任せろ……」
狡噛はそうつぶやくと、すうすうと息を吐いて眠ってしまった。暑くて疲れていたのだろう。けれどびっしょりとかいた汗をそのままに寝てしまったら、風邪を引いてしまわないか心配なのだが——。俺はそんなことを思って、愛しい恋人の寝顔を見つめた。そして彼の幸せそうな顔に、まぁこんな日があってもいいかと思ったのだった。
それから、蛇足になるかもしれないが、狡噛はまんまと風邪を引いた。軽い熱中症にもなり、その看病をしたのは他でもない俺だったことをここに記しておこう。