「月を見ていると、狂うよ」
男に声を掛けられたのは、十五夜の日だった。
一年で最も美しい、中秋の名月。私は満月に誘われるように、家を出て光の示す先を辿った。とある、ススキがたなびく草原に辿り着く。残暑の空気を感じながら足を進めると、草木の中心に位置するぽっかりと穴が開いたような空間に、石台が一つ鎮座していた。
その正体が月時計だと教えてくれたのは、いつの間にか隣に立っていた男だった。
日中は日時計として時を刻むこの盤面は、夜にはたちまち月時計となる。
中央に、指針が鎮座する。その陰が示す方向で、時刻が示される。
いつの間にか私はその月時計に通うのが習慣となっていて。決まって、男も側に立っていた。
「あなたは月が似合うわね」
ある日、私は男にそう溢した。顔の見えない男。男の色素の薄い髪がふわふわと夜風に吹かれている様子だけが、かろうじて視認できた。
*
「志保、聞いてる?」
真っ青な空に、陽光が降り注ぐカフェテラス。名前を呼ばれ意識を戻すと、目の前に座る恋人は、「聞いてなかったな」と苦笑して話の続きをした。
共通の知人の近況に昨日見たテレビ番組、最近開店した新しいスイーツの店、等々。あまりにも平穏な話題。恋人の、目尻が下がった甘い眼差しに緩んだ頬。
彼と清く正しい交際を始めてから、数年の歳月が経っていた。
*
月には、兎が住んでいる。
古からの俗伝だ。月面の曖昧な陰に兎を見いだした古人は、月に狂わされていたのかもしれない。
夜空を見上げる私の隣には、相変わらず男が座っている。
「……私は、きちんと狂わないと」
私は、眼を見開いて月を見つめると、そう呟いた。
「そうしないと、幸福に慣れそうで、恐ろしくて」
私を見つめる恋人の、慈愛に満ちた表情。彼から真直ぐと愛情を向けられると、私の心が騒めく。いや、騒めかせないといけないのだ。月の引力に導かれる波のように。
「君は、もうここに来ない方がいい」
男はそれだけ言うと、私の隣から立ち去っていった。
*
「結婚しよう」
とうとう、恐れていた日がやってきた。
秋のまろやかな風に吹かれた、快晴の青空のもと。彼は私にダイヤモンドの指輪を掲げた。目に飛び込む、輝きすぎるダイヤの光。その鋭利な光に突き刺され、私は喉がつぶされたように何も言えなくなってしまった。
*
気が付くと、私は走って、走って、月時計に辿り着いていた。夜闇の中、その場に待っていた金髪の男が、私を見咎める。
「どうして、ここに戻ってきたんだ」
「どうしても、月が見たくって」
「だから、狂うって言っただろ?!」
太陽がないと輝けない月。その儚い光が、私は恋しかったのだ。この男なら、そんな私を受け入れてくれると思ったのに。彼は、取り乱し、怒っていた。
「もう、時間だよ」
月時計が夜の終わりを告げる。月の光が弱まり、針が指し示す影は段々と薄く消えていった。
朝が来る。私は、地平線から覗く朝日に照らされた男の顔を見て驚愕する。深い蒼の瞳。それは、私の良く知っている――
「志保、志保!」
彼の声が聞こえる。目を覚ました私は、暫く茫然自失となっていた。ここは、私の部屋のベッド。段々と意識を戻し、魘されていたと気づく。彼は、私の様子を確認すると安堵のため息を漏らした。
「よかった……」
彼の腕に包まれる。私の、最愛の恋人。
「君がどこかに消えてしまいそうで、恐くて……」
差し出されたダイヤモンド。暴力的に輝く指輪を、私は受け取らなかった。受け取れなかったのに。彼はなお、私のことを愛し続けてくれている。
「降谷さん……」
彼の濡れた瞳が、先ほど見た男の悲し気な表情と重なって、私は彼の存在を確かめるように名前を呼んだ。
私はどうして太陽のもとでの彼しか見ていなかったのだろう。彼を安心させるように、彼の、気持ちに応えるように、そっと背中に腕を回して力を込め抱きしめた。