メイテイ!!×× 10(司side)
ぴっ、と背筋を伸ばして、固く握りこんだ拳を膝に揃える。ベッドが柔らかくて、今にもバランスを崩してしまいそうになるのを必死に耐えた。目の前で向かい合う神代さんは、いつもと違って少しだけ変な顔をしている。
正座したまま数分この状態なので致し方ないだろう。震える手をシーツにつけて、ぎこちなく頭を下げた。
「ぉ、……おぉお、お手柔らかにお願いいたしますっ…!」
こういう時は、こんな感じの挨拶で良いのだろうか。そわそわとしてしまうのは、緊張や不安もあるからだろう。視線が泳いで、なんだか目が回りそうだ。あー、とか うー、とか声が自然と口をつき、もぞもぞと手を動かしてしまう。
向かい合ったまま固まるオレの正面で、神代さんが手を動かす。たったそれだけで、ビクッ、と過剰に身体が跳ね上がった。
(待て待て待て待てっ、このままでは心臓が爆発してしまうっ!)
カチコチに固まった体は、指先すら動かない。というより、動かし方を忘れてしまったかのようだ。本当に自分の体なのだろうか。神代さんに聞こえているのではないかと思う程煩い鼓動に、きゅ、と唇を引き結ぶ。恥ずかしさで、顔が沸騰しそうだ。今すぐ何かの下に隠れてしまいたい。
ぎゅぅ、と目を瞑ると、布摺れの音がして体がまた跳ね上がる。握り締めた拳に、温かい手が触れた。一層体が固まり、無意識に息を止める。
「…司くん、とても緊張しているね」
「ひぅっ…」
慣れない神代さんからの呼び方に、じわぁ、と顔が熱くなって、変な声が出てしまった。余計、恥ずかしさで飛び出したい衝動に駆られる。そんなオレの手を優しく撫でて、神代さんが小さく笑った。いつもより穏やかな声が、もう一度「司くん」とオレの名を呼ぶ。
今度は、「…はぃ」となんとか返事を返すことが出来た。
「まずは、目を開けて僕の方を見れるかい?」
「……ぁ…」
そう問いかけられ、恐る恐る目を開ける。ぼんやりとした視界に真っ先に映ったのは、綺麗な正座をする神代さんの足元。オレの手を覆うように触れるその指先の綺麗さに、息を飲んだ。ゆっくりと視線を上げると、眉尻を下げてふわりと笑う神代さんと目が合った。
いつもの優しい神代さんの表情に、不思議と肩の力が抜けて、緊張がほんの少し解ける。そんなオレに、神代さんがへにゃりと笑った。
「君にそこまで緊張されてしまうと、僕も緊張してしまうんだ」
「…す、すみません……!」
「無理強いをする気はないから、安心してほしいな。もう少し、傍に寄ってもいいかい?」
「………は、ぃ…」
優しい声音と、安心する表情に、そっと頷く。膝がぶつかる程近くまで来た神代さんに、胸が更にドキドキした。オレより少し大きな手がオレの手から離れて、頬に触れる。ふわりと包まれるように両手を頬に添えられ、次に何をされるのか予想してしまう。
とん、と額が触れ合って、前髪が少し擽ったい。すり、と親指の腹で頬を優しく撫でられて、慌てて目を瞑った。
「……ん…」
軽く触れるだけのキス。直ぐに離れていく熱に、ほんの少し寂しさを覚えてしまう。顔が熱くて、もぞもぞと膝を擦り合わせると、もう一度唇が重なった。柔らかい唇が、ふに、と戯れに触れて離れていく。胸の奥がぎゅぅ、と苦しくなって、詰めていた息を吐き出した。
ほんの少し、顔を上へ向かされる。慌てて唇を引き結ぶと、神代さんがもう一度キスをしてくれた。触れては離れて、もう一度触れて、離れていく。そんな優しいキスに、思考が段々とふわふわして、握り込んだ手から力が抜けていった。
「…ん、……んぅ……」
下唇に口付けられ、口の隅にも神代さんの唇が触れる。同じ触れるだけのキスでも、なんだか違うキスをされているかのようだ。擽ったさに顔を少し横へ向けようとするも、頬を押さえられては逃げられない。はむ、と下唇を優しく食まれ、ビクッ、と肩が跳ねた。
むに、むに、と柔らかい唇で咀嚼され、じわりと熱が身体中に広がっていく。
「…ん、…はぁ……、…」
「まだ、怖いかい…?」
「……ぁ、…いえ…、…その、……ふ、わふわ、します…」
「そう。それなら、もう一度、いいかい?」
こくこく、と頷けば、神代さんが安堵したようにそっと肩を落とす。 布の擦れる音がして、神代さんの体が更に近くに来る。ちぅ、と唇が触れて、肩に力が入った。触れるだけのキスで、心臓が爆発してしまいそうだ。くらくらする気がして詰めていた息を吐き出すと、神代さんの手がオレの手に重なる。そのまま唇が強く押し付けられ、ずいっ、と近付く神代さんに驚いて体が後ろへ傾いた。
ぽすん、とシーツの上に後ろから倒れ込むオレを、神代さんが見下ろしてくる。
「ぁ……」
そんな神代さんの顔に、一瞬、ドキッとした。あの時と同じ、知らない人の顔をしている気がして、ほんの少し不安になる。重なる手に力を入れると、目の前で神代さんがふわりと笑った。いつもの優しいその表情に、不思議と不安が消えて安堵する。ちぅ、と頬に唇が触れて、「司くん」と名を呼ばれた。ゾクッ、と背が震え、重なるようにオレの上へ神代さんが覆い被さってくる。
「…触れるね」
「………ん、…んぅ……」
「手はこっち。そのまま、じっとしていて」
「っ…か、かみしろさっ……んむ…」
片手が神代さんの首に誘導され、そのまま腕を回す。より近くなった距離感に、心臓が一層煩くなる。息遣いが鮮明に聞こえてくる程近い位置にある神代さんの口元がゆっくりと弧を描き、オレの唇に重なった。
唇の触れる時間が、長い。すぐ離れて何度もされるキスではない。ゆっくりと触れられるから、熱がじんわりと馴染んでいく。感触が曖昧になるほど押し付けられた唇に、胸の奥が きゅぅ、と音を鳴らす。心臓のドキドキが、先程のものとは違う気がする。苦しいのか、ふわふわするのか、もう分からん。
「…ん、ふぁ……、…」
「……苦しいかい?」
「ぃ、ぃぇ……へいき、です…」
「そう。苦しかったら、爪を立てても、髪を引っ張ってくれてもいいからね」
ちぅ、と唇がもう一度塞がれる。今の所、苦しい感じはしないが、そうなるのだろうか。例え苦しくても、神代さんにそんな事はしたくないが…。
そっと唇を食まれ、擽ったさに身をよじる。指の背で頬を撫でられ、髪を軽く払われた。指先が耳の付け根に触れて、ゆっくりとなぞられる。ゾクゾクッ、と背が震え、思わず眉間に皺が寄った。擽るような、撫でるような指先の触れ方に、体がほんの少し逃げようとしてしまう。神代さんの首に回した腕に力を入れると、ぬるりとしたものが唇に触れた。
「っ…んぅっ……、…」
引き結んだ唇に、神代さんの舌がゆっくりと這わされる。痛くはないが、触れられた所が じん、と甘く痺れるような感覚がして、落ち着かない。親指の腹で擦るように耳の付け根を撫でられるのも、なんだか変な感じがする。擽ったいのが熱を持って、広がっていくかのようだ。
長いキスに頭がぼーっとしてきて、なんとなく瞼を上げた。ぱち、と月色の瞳と目が合い、唇が離れていく。はぁ、と詰めていた息を吐けば、神代さんが指先でオレの前髪を軽く払い、額に口付けた。
「次は、もう少し先に進むけど、平気かい…?」
「…………は、ぃ…」
「それなら、ゆっくり僕の名前を呼んでおくれ」
神代さんの綺麗な指が、唇に触れる。優しくなぞるように下唇を撫でられて、声が震えた。神代さんの首に腕を回しているせいで、顔が近い。心臓はずっと壊れてしまいそうな程煩くて、逃げ出してしまいたい程恥ずかしい。それでも、目の前で優しく笑ってくれる神代さんに、応えたいと思ってしまう。
じっ、とオレを待つ月色の瞳に、視線が彷徨う。ぎゅ、と腕にもう少し力を入れて、視線を神代さんへ向けた。
「……か、…かみ、しろさん…」
「今は、下の名前で呼んでほしいな、“司くん”」
「ぁ、……る、るい、さ…んぅ……」
よく出来ました、とばかりに、神代さんの唇がオレのを塞ぐ。
ぬるりとした舌が唇から差し込まれ、ゆっくりと歯列を撫でられる。ゾクッ、と背が震え、咄嗟に膝を立てた。シーツの上を、足先が滑る。ギュ、と目を強く瞑れば耳をそっと神代さんの手で覆われる。間違えて舌を噛まないように口を開けば、更に奥へ舌が入ってきた。上顎を舌先で擽られ、思わず腰をよじる。耳が、手の熱を感じて熱い。くちゅ、と水音が頭の中に反響するように聞こえて、更にゾクゾクと背が震えた。
(……舌、に…触れる、のは、…いつ、なんだ…)
口内をゆっくりとなぞる神代さんの舌の感触が、口の中に残る。擽ったい様なその感覚が じわりと熱を持ち、痺れるような感覚に変わっていく。
舌を絡める、と本で見たが、こんなにも時間がかかるものなのだろうか。いや、すぐに触れて欲しいというわけではないが、こう、気持ちが落ち着かなくて困る。気持ちいいのに、触れられない舌先がそわそわとしている気がした。ほんの少し舌をのばすと、神代さんの舌に触れる。けれど それだけで、く、と喉を反らすように顔を上へ向かされて、深く唇が重なった。息継ぎが上手く出来なくて、少し苦しい。唾液が口の中に溜まって、それがまた苦しい気さえする。
ぎゅ、と神代さんの首に回した腕に力を入れると、ゆっくりと唇が離される。
「…ん、…ふぁ……、んっ…」
息をする間もなくもう一度唇が塞がれ、口内に神代さんの舌が入ってきた。ぬるりとしたそれが、頬を内側から擽ってくる。耳の付け根を指の腹で擦られて、そわわ、と腰が揺れた。口の中が、甘い様な気がする。溜まった唾液を ごくん、と飲み込むと、神代さんの手が、首に触れた。つぃ、と首筋を指先で辿るように撫でられ、ゾクッ、と背を何かが駆け上がる。首から襟の内側に指先が滑り込み、鎖骨をゆっくりと撫でられた。ビクッ、と肩を跳ねさせると、耳を塞ぐ神代さんの手がオレの頬に触れる。
「ん、…ぅ、……んんっ、…」
ぬるりとした熱いものが、オレの舌先に触れた。ゆっくりと舌が絡め取られ、思わず瞼を開ける。目の前で じっ、とオレを見つめる月色の瞳に、心臓が大きく跳ね上がった。顔が熱くて、手が震える。舌先が引かれ、もっと奥まで熱が触れ合う。くちゅ、くちゅ、と脳の中で反響するかのように響く水音が、今神代さんにされている行為を突き付けてくる。ぎゅぅ、としがみつくように腕の力を込めると、首元がほんの少し楽になった気がした。胸元で動く神代さんの手が、何となく くすぐったい。
(………ぃ、つもより、…きもちいぃ…)
頭の中がふわふわしてきて、膝を神代さんの方へ寄せる。息が出来なくて苦しいはずなのに、甘い様な味と熱が心地いい。柔らかい唇の感触も、舌が触れ合うのも、気持ちいい。恥ずかしさが薄れて、段々と思考がふわふわと揺れる。そっと目を瞑ると、もっと神代さんを近くに感じて嬉しい。胸元が少し涼しくなった様な気がして、それすら心地いい。ちぅ、と舌先が吸われ、ゾクゾクッ、と背が甘く痺れた。
ゆっくりと唇が離されて、舌先から銀色の糸が伸びていく。ぷつりとそれが途切れると、神代さんの指がオレの下唇に触れた。
「司くん、気持ちいいかい…?」
「…ん、…ふぁ、ぃ……」
「ふふ、それは良かった」
優しくそう笑った神代さんは、ちぅ、とオレの頬に口付けた。
―――
「………ん…」
ふわふわとした感覚が、ゆっくりとはっきりしてくる。心地よい温もりとほんの少しの重さに瞼を上げると、視界いっぱいに肌色が映って目を瞬いた。身じろぐ事も出来ない程ぎゅ、と抱き締められていると気付いて、ぶわわっ、と一気に顔が熱くなる。ふわりと神代さんの匂いがして、思わず息を飲んだ。変な声が出そうになるのを何とか抑え込んで、ゆっくりと息を吐く。
(……なんというか、…違和感がすごい…)
圧迫感は無いものの、こう、じんじんとするような、まだ神代さんがナカにいるような、そんな感じがする。
落ち着かなくて、無意味に腰を揺らすと、頭上で神代さんが小さく声を零した。ビクッ、と体を跳ねさせて固まるオレを、ぎゅぅ、と強く抱き締めてくる。顔が神代さんの胸元に押し付けられ、叫び出したくなる衝動を必死に抑え込んだ。神代さんの心音がすぐ近くから聞こえてくる。すり、と脚に神代さんの脚が触れて、思わず「ひぇっ…」と上擦った声が出てしまった。
(…い、一旦離れねば、心臓が爆発してしまうっ……!)
昨日の今日でこの距離感は耐えられない。もぞもぞと体をよじって脱出を試みるも、中々神代さんの腕の中から抜けられない。ならば、と神代さんの腕を掴んで、そっと退かそうとしてみる。が、神代さんの腕が重くて持ち上がらない。そればかりか、更に強く抱き締められてしまって、余計に身動きが取れなくなってしまった。
何故だ? と目を瞬くオレの頭上で、くすくすと小さく笑う声がして、項を指先でするりと撫でられる。瞬間、悲鳴に似た高い声が口をつき、体が跳ね上がった。
「か、神代さんっ、…起きていたなら離してくださいっ…!!」
「ふふ、おはよう、司くん」
「………お、おはよう、ございます…」
にこにこと笑顔の神代さんに挨拶をされ、反射的に返した。それがまた面白かったのか、目の前でくすくすと笑われてしまい、なんだかいたたまれない気持ちになる。ほんの少し視線を下へ逸らすと、神代さんの腕の力が抜けていく。そのまま流れるように神代さんの手が頬を包み、くい、と顔を上へ向かされる。ちぅ、と唇が塞がれて、かぁあ、と自分の顔が熱くなるのがわかった。
「……ん、…っ、ふぁ………、か、みしろさ…」
「…、……痛い所はないかい? 体調が優れないとか」
「そ、そういうのは、無いですっ…!」
「………そう」
安堵したように肩の力を抜いた神代さんに、へらりと笑って返す。違和感はあれど、痛みも気持ち悪い等の嫌悪感もない。前のような不安も、殆ど無かった。それもこれも、神代さんが終始優しく声を掛けてくれていたからかもしれん。
そんな風に考えていれば、昨夜の神代さんの顔が脳裏に浮かんで、じわりと顔が熱くなる。熱のこもった瞳でオレを見下ろす昨夜の神代さんの顔を思い出してしまって、目の前の神代さんから視線を逸らした。
「司くん…?」
「…………………ぃ、ゃ、…その、……な、んでもない、です…」
ぷしゅぅ、と湯気でも出そうな程顔が熱い。何度もキスをされた事や、身体に触れる手の感触とか、優しく最後までされた事も全て思い出してしまって、なんというか、気恥ずかしくなった。腰がまたそわそわとしてしまって、居た堪れない。昨日からずっと『司くん』と下の名前で呼ばれているのも、恥ずかしい様な嬉しい様ななんとも言えない気持ちになる。
もぞもぞと身動ぎするオレに、神代さんが数回目を瞬いた後、ふわりと笑った。大きな手がオレの頬を包み、ちぅ、と優しく唇が塞がれる。驚いて目を丸くさせると、そのまま ごろん、と体が転がされた。天井を見上げるように仰向けにされ、オレの上へ神代さんが覆い被さってくる。
ぼふっ、と顔が更に熱くなって、慌てて両手で顔を隠した。
「ぁ、あああのっ、…」
「今日は、ゆっくり話をしようか、このまま」
「へぁ…?! こ、このままっ…?!」
「その後、一緒に買い物に行こう? 君に贈りたいものがあるんだ」
「…ぇ、…ぁ、………ぇ…?」
左手が神代さんの手に取られて、指先に口付けられる。ちゅ、ちゅ、と何度もオレの指へキスをする神代さんに、思考が追い付けない。
このまま、という事は、神代さんとこんなに近い距離で話しをするということなのだろうか。それは、耐えられる気がしない。ただでさえ、もう既に胸が破裂してしまいそうなほど苦しいんだ。顔から火が出てしまいそうな程熱くて、指先だって震えている。それなのに、この状態で神代さんとゆっくり話が出来るわけが無い。
指先に口付けていた神代さんの唇がオレの手首に触れ、裏返った声が口を飛び出した。慌てて「神代さんっ…!」と名前を呼ぶと、くすくすと笑う神代さんがオレの手をそっと離してくれる。
「ふふ、くすぐったかったかい?」
「……そ、そういうことではなくっ…!」
「君の身体を休める為にも、今はこのままゆっくりしていておくれ。買い物はその後にでも」
「ですが…、神代さんも仕事で疲れていますし、買い物は明日以降でも……」
ちぅ、とオレの額に一つ口付けて、神代さんがゆっくりと起き上がった。頭を優しく撫でてくれる神代さんに、胸の奥が きゅぅ、と音を鳴らす。オレをからかう時の少し子どもっぽい表情が、可愛いと思えてしまう。その後の大人っぽい優しい顔も、かっこよくて好きだ。結局、神代さんの表情はどれも好きなのだ、という結論に至り、頬が更に熱くなる。
そっと神代さんの手に指先を触れさせると、神代さんがふわりと笑う。優しく髪を梳くように頭を撫でられ、優しい声音で名前が呼ばれた。
「出来れば、明日から暫くは外に出ないで、この家に居てほしいんだ」
「……ぇ…?」
「だから、僕と夜のお散歩デート、なんてどうかな?」
「………は、ぃ…」
にこりと綺麗に笑う神代さんに、こくこくと頷く。
明日からは、というのは、どういう事なのだろうか。大学もあれば、バイト先の練習もある。家を出ない、なんてできるはずも無い。だが、神代さんがそんな風に言うのは初めて、断りたくはなかった。現実問題難しいが、出来る範囲は叶えたい。
それに、神代さんと『デート』なんてそうそう出来るものでもない。そのお誘いが嬉しくて、前半のお願いが薄れてしまった。にこにことベッドに腰かけてオレを見下ろす神代さんは、優しく頭を撫で続けてくれている。それが気恥ずかしくも嬉しくて、へらりと笑って返した。
―――
「……あの、神代さん…」
「これも良いね。天馬くんに似合いそうだ」
「…指輪なら、もう貰いましたよ……?」
目の前に並べられた銀色の輪を見て、神代さんの方へ顔を向ける。オレの指に一つひとつ嵌めながら確かめる神代さんは、とても上機嫌だ。なんというか、気恥ずかしい。店員の女性は、先程から驚いた顔でこちらを見ている。それもそうだ。人気俳優の神代類が、歳下の男相手に指輪を選んでいるのだから。上手い言い訳が全く思い付かなくて、この場から逃げ出したい気持ちが増していく。
きらきらと輝く指輪をオレの指に嵌めた神代さんは、満足そうにふわりと笑った。
「これがいいかな。ついでに、お互いの名前を掘ってもらおうか」
「か、神代さん…?」
「サイズはもう一回り小さい方がいいかもしれないね」
「…いや、あの、…ま、……」
あれよあれよと話が進んでいってしまう。指のサイズに合わせられた指輪を二つ持っていく店員さんの後ろ姿を目で見送って、神代さんがオレの手を引いた。店の中に設置されたソファーに座らされ、ぴったりとすぐ隣に神代さんが座る。どういう状況なのだろうか。
家を出てからずっと手を繋がれている。立ち止まった時なんかは、こうしてぴったりくっついてくる。そればかりか、神代さんがオレに話しかける時の顔の距離が近い。態々顔を耳元に寄せて話しかけてくる。もう全く訳が分からん。
(……神代さんとのデートは、いつももう少し控え目なものではなかったか…?!)
手は繋いでも、友人との距離にも見えるよう、気持ち少し離れていた気がする。こんな風にぴったりとくっつく事はなかったはずだ。それに、神代さんの声が、少し甘い気がして落ち着かない。今朝とは違い、『天馬くん』と上の名前で呼ばれているはずなのに、声音が、恋人のそれにしか聞こえない。
「…どうかしたかい? 天馬くん」
「ひょわっ…?! いや、なんでもないですっ…!」
「もしかして、昨夜無理をさせてしまったから、腰が痛むのかい…?」
「っ…、な、ななななにっ…?!」
ぐっ、と繋ぐ腕が引かれ、反対の手でオレの手を取られる。神代さんの方へ体が寄りかかるように倒れ、手早く回された手で腰を引かれた。体が更に神代さんの方へ寄せられ、思わず声が裏返る。優しく腰を撫でるその手に、ピッ、と身体が固まった。違和感だけで、痛みなんて殆ど無い。それなのに、まるで労わるようにオレの腰を撫でる神代さんの手に、ぶわわっ、と顔が熱くなっていく。
「もう少し頑張っておくれ。この後、もう一つ寄る所があるんだ」
「わ、分かりましたからっ…! てて、手を離してくださいっ…!!」
「おや、照れているのかい? 可愛いね」
「ひぅっ……!」
ちゅ、と額にキスをされ、高い声が口からこぼれた。
上機嫌にオレの髪や耳元に口付ける神代さんに、思考がくるくると回ってまとまらない。何故、こんなことになっているんだ。神代さんに触れている場所が熱くて、余計に混乱してくる。恥ずかしいから、離れてほしい。だが、こんな風に触れられるのは、嫌ではない。嫌ではないが、そろそろどうにかなってしまいそうなので、一度心の準備をさせてほしい。
固まったままどうしていいのかと頭を悩ませていれば、「あの…」と控え目に声が掛けられた。反射的に顔を上げると、困った様に顔を赤らめた店員さんが、カウンターの方を手で示す。
「…御確認をお願いできますか?」
「っ………」
「あぁ、ありがとうございます」
「では、こちらへ」
にこ、と笑う神代さんが、オレの手を引いて立ち上がる。腰を支えられているせいで、逃げ道もなく。引かれるまま隣に並んでカウンターに向かいながら、顔を下へ俯けた。
(見られたっ…! 絶対に見られていたっ……!!)
それはそうだ。ここをどこだと思っているのか。店員さんも数人いる宝飾店だぞ。ただでさえ神代さんは目立つというのに、見られないなんて事があるわけが無い。というより、神代さんは何故こんなにも堂々としているのだろうか。
顔から煙が出そうな程恥ずかしくて、穴があれば入ってしまいたいほどだ。ぎゅぅ、と神代さんの手を強く握り締めて、そっと体を寄せた。
「ありがとうございました」
店員さんの挨拶を聞きながら、神代さんがオレの手を引く。お店の外へ連れ出されて、夜風が熱い頬を撫でた。ご機嫌な神代さんが、「この先に落ち着ける公園があるんだ」と話している。どちらかと言えば、もう早く家に帰りたい。
ちら、と神代さんを盗み見ると、硝子の厚い眼鏡と帽子だけの軽装備だ。こんな状態で、オレと散歩なんてしていていいのだろうか。いや、散歩は良いとして、先程のような事をしていていいのか…。
「天馬くん」
「は、はいっ…?!」
「考え事かい?」
「…ぁ、いえ……」
不意に声をかけられて、咄嗟に顔を上げた。心配そうにオレに顔を覗き込む神代さんに、ゆっくりと首を横へ振る。
つい二日程前まで、神代さんと別れるかもしれないと悩んでいたのに、それが嘘のように愛されているのが、嬉しい反面 気恥しい。腰に添えられた神代さんの手が、全然離れてくれない。嫌でも意識させられて、居た堪れなさに唇をもごもごとさせてしまう。
じ、とオレを見る神代さんは、ふわりと微笑んだ後、オレの髪に口付けた。
「それなら、そこのベンチで少し休もうか」
「…ぇ、……ぁ、はい…」
いつの間にか、開けた所に来ていたらしい。人が殆ど居ないその場所にちょこんと設置されたベンチへ、神代さんがオレの手を引いていく。言われるままに並んで座れば、神代さんが先程受け取った紙袋を自身の膝に乗せた。
中から出てきた白い箱が、ゆっくりと開けられる。きらきらと輝くそれに、息を飲んだ。左手がそっと下から掬う様にとられ、薬指に指輪が嵌められる。
「遅くなってしまってすまないね。天馬くん、結婚しよう」
「……え…」
「恋人ではなく、お嫁さんになってくれないかい?」
さらりと言われた言葉に、瞬きすら忘れて神代さんを見返す。優しく微笑むその顔に、はく、はく、と口が音もなく開閉した。以前貰った指輪とは違う、オレの指に合わせて用意された指輪に、じわりと胸の奥が熱くなる。
「…いや、あの…、さすがに、…同性では……」
「その辺は問題ないよ。君が受けてくれるなら、どうにかするから」
「…………」
迷うこと無く返されて、それ以上言葉が出なかった。神代さんが言うと、本当になんて事ないことな気がしてしまう。眼鏡を外す神代さんの少し大きな手が、オレの頬を撫でる。ほんの少し顔が上へ向かされて、咄嗟に目を瞑った。予想通り唇に柔らかいものが触れて、そっと離れていく。じんわりと熱を持つ唇に手で触れると、神代さんがオレの耳元へ顔を寄せる。
ちぅ、と態と音を立てて耳の縁に口付けられ、ぴく、と肩が跳ねた。
「この先もずっと、隣にいてくれるんだよね?」
「………そ、の、つもり、です…」
「それなら、もう誰にも邪魔されない様に、同じ姓を名乗ろう? 君の人生も、君自身も、全部俺に頂戴」
「っ………」
甘やかす時のような声音が、鼓膜を震わせる。胸がぎゅぅ、と苦しくなって、息を詰めた。顔は熱くて、足元から溶けてしまいそうだ。
じっ、とオレを見つめる神代さんの瞳に、赤い顔の自分が映る。指先で頬を撫でられ、もごもごと閉じた口を動かす。迷う必要は、無いのだと思う。一時の遊びでないことも分かっている。歳の差というのも、気にはならない。
ただ、真正面からこんな風に求められるのが、嬉しくて、気恥しいだけなのだろう。
「……オレで、良ければ…」
「君がいい。君以外はいらない」
「…オレも、神代さんが良いです。貰ってください」
「ふふ、喜んで」
ふわりと笑った神代さんが、触れるだけのキスをしてくれる。胸の奥が温かくて、ふわふわとした何かが ぎゅぅぎゅぅに詰まっているかの様な気分だ。
ギュッ、と嬉しそうにオレを抱き締める神代さんに、息を飲む。髪を梳くように頭を撫でられて、肩口にうりうりと額が擦り付けられた。そんな神代さんの少し子どもっぽい仕草に、へにゃりと頬が緩む。オレも、とその背に腕を回して抱き締め返せば、神代さんが「司くん」とオレの名を呼んだ。普段と違う呼び方に ドキッ、として、思わず手が固まった。
「帰ったら、昨日のおさらいをしようか」
「…お、さらい……?」
「そう。司くんが昨夜僕にされて気持ち良かった事、全部教えてもらうから」
「へぁ……?!」
こそこそと内緒話の様にオレの耳元で、神代さんがそう言った。瞬間、ぼふ、と顔が一気に熱くなって、体が石のように固くなる。オレの手を握る神代さんが、からかうように にまりと笑うのが見えて、はわ、はわ、と口が震えてしまう。これはあれだ、神代さんがたまにする意地悪だ。オレの反応を楽しんでる時のやつだ。
きゅ、と唇を引き結んで、顔を下へ向ける。こういう時に、さらりと躱すことが出来ないのが悔しい。だが、神代さんが相手では、どうしたって意識してしまうのだから仕方ないでは無いか。考えないようにすればするほど昨夜の事が脳裏に浮かんで、余計に顔が熱くなっていく。
神代さんとのデートで上手く忘れられていたのに、意地悪だ。
「そうと決まれば、そろそろ帰ろうか」
「…………は、ぃ…」
「僕の名前を呼ぶ練習もしようね。すぐに苗字も同じになるから」
「んぇ…?! そ、それは、気が早いですよっ…!」
オレの手を引いて楽しそうに笑う神代さんにからかわれながら、二人で家に帰った。
―――
のが、三日程前の事である。
あのデートの後からオレは、全く家から出られずにいた。咲希から送られてくるメッセージに返信をしながら、クッションを抱えてソファーの上で座る事一時間。未だに現状が理解出来ていない。
『あの俳優、神代類さんが恋人と一緒に宝飾店で指輪を購入するのを見たと言う目撃者が複数おり、―――』
どこもかしこも同じ話題ばかりがニュースで流れてしまう。そこに映る自分と神代さんの姿に、唸るような声が口からもれ出た。
あのデートが、雑誌社の人に見られていたらしい。翌朝には新聞や雑誌で大騒ぎになっており、マンションの下で待機する報道陣を避ける為にオレは家から出られなくなってしまった。
神代さんは、何故か御機嫌で寧々さんと仕事に行ってしまったのだが、これからどうする気なのだろうか。
(………迷惑は、かけたくなかったのだが…)
彰人との事があったから、気を付けようと思っていたのに。結局、神代さんに迷惑をかけてしまった。
事務所の判断としては、こういう時は上手く誤魔化すのだろう。幸いオレは神代さんと同性なのだ。友人ということにすればなんとでもなる。いくら神代さんに婚約者がいるという話が以前からあったとしても、歳下の同性が相手だなんて誰も信じないだろうしな。上手く誤魔化して、また以前の様に俳優を続けることになるのだろう。
「……なんて、上手くいくはずがないよな…」
テレビ画面に映されるその後の公園での写真に、手で額を押さえる。報道されているのは宝飾店の中だけではなく、その後に行った公園での事も多くメディアに晒されていた。手を繋いでいる写真なら構わないのだが、抱き締められている時の写真や、キスしている時の写真は勘弁してほしい。視界にそれが入る度に羞恥で叫びたくなる。
クッションに顔を押し付けて、「…ぅぁああああぁあぁああ……」と低い唸り声を出せば、スマホが軽快な音を鳴らした。画面に表示された通知には、『神代さん』の文字。慌ててスマホを手に取って画面をタップすれば、機械越しに神代さんの声が聞こえてきた。
「神代さん、大丈夫なんですか…?!」
『ふふ、相変わらず元気だね。夕方の放送が終われば帰れると思うから、天馬くんが作ってくれる夕飯を楽しみにしているよ』
「…そ、れは、頑張りますが……、って、そうではなくっ…!」
『夕方に記者会見があるから、それを天馬くんにも見てほしくてね』
くすくすといつもの調子で笑う神代さんに、なんだか気が抜けてしまう。全く困っているような感じが伝わってこないが、本当に大丈夫なのだろうか。スマホを反対の手で持ち直し、居住まいを正す。オレだけが慌てているのが、なんだか気恥ずかしくなってきた。いまだにくすくすと笑う神代さんの名前を呼べば、神代さんが『なぁに?』と優しく問い返してくれる。それにほんの少し気持ちが落ち着いて、ゆっくりと息を吐き出した。
「大丈夫、なんですよね…?」
『うん。君は心配しなくていいよ。最後まで見守っていてくれればいいから』
「……それなら、夕飯の準備をして、お待ちしてます」
『ありがとう。楽しみにしているね』
ぷつん、と通話が切れた後、ツー、ツー、と音がしてスマホを閉じた。
神代さんが大丈夫というなら、大丈夫なのだろう。それなら、信じて待つだけだ。夕飯を楽しみにしていると言ってくれた神代さんの為に、美味しいものを作ればいい。今夜はグラタンにしよう。時間はあるから、ゆっくり作れる。
よし、と一つ気合を入れて、冷蔵庫の中を覗く為、キッチンへ足を向けた。
―――
『神代さん、この記事は事実なんですか?』
カメラのフラッシュがチカチカとする画面を見ながら、ぎゅ、とクッションを抱き締める。寧々さんと、知らない男の人が神代さんの横に並んで座っている。何度か見た事のある光景の中心に神代さんが居るのは、なんだか不思議な気分だった。
いつもの笑顔で記者の人たちを見た神代さんが、ゆっくりと頷く。
『彼と交際しているのは事実です。先日プロポーズもしました』
ざわ、と会場が騒がしくなり、寧々さんが額を手で押さえる姿がテレビに映った。まさかあっさりと認めると思わず、オレも無意識に身を乗り出してしてしまう。
神代さんの隣にいる男性も、変な顔をしていた。諦めた様な、困っているような、そんな顔だ。もしかしたら、神代さんの事務所の偉い人なのだろうか。神代さんの仕事関係の人は寧々さんくらいしか知らないのだが、咲希なら知っているかもしれん。今度聞いてみよう。
カシャカシャとカメラの音が止まない会場に、別の記者の声が響いた。
『以前から 神代さんが出演する番組で話していたのも彼ですか?』
『そうです。プライベートでも交流はありましたが、少し天然な所があるので、俳優としての僕からも彼へメッセージを伝えていたんです』
『プライベートでよくお会いになっていたんですか?』
『今年の四月から同棲しています。それまでは、週に一、二度位の頻度で彼と会っていました』
正直に答えていく神代さんに、なんだかハラハラとしてしまう。
こういう時は、素直に答えて良いものなのだろうか。寧々さんと神代さんの隣の男性の反応を見ると、とてもそうは見えないのだが…。
確かに、番組のコメントでオレの事を話す神代さんを何度か見た。上機嫌に“料理が得意で”とか“演技の練習に真剣に取り組んでいて”と褒めてくれる時もあれば、“最近仕事が忙しくて会えていない”と言っていたのを見た事もある。オレが知らないメッセージを、後から咲希が教えてくれる事もあった。
同棲している事も、言って良いのだろうか。事実ではあるが、神代さんのファンはショックを受けるのでは…。
『御相手は神代さんが通うお弁当屋のバイトをしていた、という情報がありますが、本当なんですか?』
『そうですよ。彼はあのお弁当屋のバイトで、いつも元気な声で出迎えてくれて、オススメをしてくれていました』
『貴方が俳優の神代類と知っていて、彼からの熱烈なアプローチをされた結果、今回交際を受け入れた、という事ですか?』
『逆です。僕が俳優だと気付かない彼に 僕から自己紹介をして、彼のいる時間に合わせてお店に通い、僕の方から彼にアプローチをかけたんです』
ざわざわと騒がしさが増していく会場に、顔が熱くなっていく。そこまで正直に話す必要は無いのではないだろうか。
初めの頃、毎週水曜日に来るお客さん、という認識でしか無かったのは確かだ。顔を隠していて変な人だと思っていた。けれど、不思議と印象残って、毎週来るのを楽しみにしていたのも事実だ。傘を貸したのも、神代さんが悪い人に見えなかったからだ。まさかそれがきっかけで、神代さんと連絡先を交換するまで仲良くなるとは思わなかったが…。
今でもはっきりと思い出せる。神代さんに名前を教えてもらって、その日の夜とても驚いた事も、ダメ元でお願いした文化祭での練習に付き合ってもらうという約束も、遊園地に神代さんと行った事も。贈り物を貰ったり、手を繋いだり、抱き締められたり、ドキドキする事も沢山した。
今思うと、確かに神代さんからかなりあからさまなアプローチを受けていた気もする。当時は全く気付かなかったが…。
『御相手は当時学生だったとお聞きしましたが、未成年の子に手を出すというのは問題では?』
その問いに、どくん、と心臓が嫌な音をたてた。
今更かもしれないが、確かにオレは当時“学生”だった。神代さんと知り合ったのは高校二年生の時だ。世間からしたら、“未成年者に手を出す”というのは良くない事だ。世間からのイメージが大切な神代さんなら、尚のことオレと関わってはいけなかった。まして、“交際相手”となれば、いくらオレが十八歳になった後から神代さんと交際を始めたとしても、周りからは嫌なレッテルを貼られるだろう。
神代さんからデートに誘われたり、手を繋ぐことは確かにあったが、神代さんはオレが嫌がる事はしなかった。そういう神代さんの優しい所を、周りは知らないだけなのに。
画面の中で、記者の言葉に神代さんがへらりと眉尻を下げて笑うのが見えた。
『耳の痛い話ですね。言い訳かもしれませんが、これでも、彼が卒業するまでは出来る限り清い関係を守ってきたつもりです。交際を始めた際も、きちんと彼の御家族に挨拶に行きましたし、同棲も、彼の卒業を機に始めました』
神代さんの返しに、記者の人たちが一瞬言葉を飲み込んだ。
こそこそと話す人達の声は、画面越しでは分からない。ただ、神代さんは苦笑しつつも迷いなく答えていて、それがなんだかかっこよく見えた。
女性記者の人が、『相手の御家族とは面識があるんですね』と神代さんに問いかけると、神代さんはふわりと綺麗に笑って頷いた。
『はい。何度か彼の家に呼んでいただいて、食事を一緒にしました』
『相手の御両親から反対される事はなかったんですか?』
『僕も反対される覚悟だったのですが、初めて挨拶に行った際、快く交際を許して頂けました。彼の妹さんが僕のファンだったというのもありますが、以前彼が困っていた時に僕が手を貸した事がありまして、それを皆さん知っていて、彼を僕に託してくれたんです』
ざわ、とまた、会場が騒がしくなる。
神代さんが挨拶に来た日、父さんも母さんも神代さんを歓迎してくれた。あっさりと交際も認めて貰えて、神代さんになら安心して任せられると言っていた。神代さんが優しい人だと、オレの家族は知っている。反対されるわけがない。
助けてほしいと連絡をしたオレを、神代さんは仕事を放り出してまで助けに来てくれた。あの夜、神代さんがいなければ今頃どうなっていたか。あの時、神代さんが来てくれて、安心出来た。オレの我儘で泊まっていってくれて、オレが安心出来るようにと優しく声もかけてくれた。
そんな神代さんだから、父さんも母さんも認めてくれたんだ。
『御相手は役者志望と聞きましたが、今後神代さんが指導するんですか?』
『そのつもりです。僕は彼の“師匠”ですから』
「…ぅ、……」
神代さんの言葉に、じわり、と顔が熱くなる。
文化祭の日に言った言葉を、神代さんはまだ覚えているのか。冬弥と彰人に神代さんの事をどう紹介すればいいか迷って咄嗟に出ただけなのだが、いつまで引っ張る気なんだ。確かに指導してくれているが、こうはっきりと宣言されるのはさすがに恥ずかしい。
まふ、とクッションに顔を埋めると、カメラのシャッター音が更に増していく。
『では、今後も俳優を続けながら、彼が役者になるのを待つんですか?』
記者の人達が、体を前に乗り出すのがわかる。オレも、画面をじっ、と見つめた。
“待っているよ”と、神代さんなら言ってくれる気がする。オレが自力で隣に立つのを、待ってくれると思う。神代さんならそう言ってくれると、素直に信じられる。期待されているのだと、知っている。だから、大丈夫だ。神代さんが“オレに見てほしい”と言っていたのは、そういう事なのだろう。
にこ、と画面の中で優しく笑う神代さんが、『いえ、』と小さく言葉にした。
『僕は彼と一から始めたいと思っているので、待つつもりはありません』
『それは、どういう事ですか?』
『初めて会った時、彼なら素晴らしい役者になれると感じたんです。僕は、そんな彼を誰よりも輝く役者にしたいと思っています』
カメラのシャッター音が、ぴたりと止まる。ぽかん、とする記者の人たちが、神代さんを見ている。額を手で押さえる寧々さんが映るのが見えて、オレは首を傾げた。
カメラへ顔を向けた神代さんは、綺麗な手を胸元に当てて綺麗に微笑んだ。
『ですので、今日この場を持って私 神代類は、俳優を引退いたします』
かしゃん、と何かが床に落ちる音が画面の向こうから聞こえてきた。
開いた口が塞がらなくて、オレも思わず抱えていたクッションを床に落としてしまった。たっぷり三秒程沈黙した後、慌てたようにカメラのシャッターが切られる。『は?』という男性の声が聞こえたのをきっかけに、記者の人たちが一斉に口を開いた。
『引退宣言って、それは本当なんですか?!』
『社長はこの話を了承しているんですか?!』
『来年公開の映画の撮影が途中だったと思うのですが、具体的な引退の日は……!』
『神代さんのファンに一言お願いいたします!』
ガタガタッ、と椅子を立ち上がる音が煩く響いて、声が聞き取りづらい。次々に飛び交う質問に、神代さんは変わらずにこにこしていて、寧々さんは諦めた様な顔をしていた。どうやら神代さんの隣にいたのは事務所の社長さんらしい。こちらも困ったように顔を顰めて記者の質問を手で制している。
あまりに衝撃的過ぎて、理解が追いつかないオレはただテレビの画面を見つめるしかできない。そんな画面の中で、神代さんがひらひらと手を振るのが見えた。
『天馬くん、帰ったら今後の事を話すから、待っていておくれ。君の手料理を楽しみにしているよ』
「…ぅ……、神代さん…、放送を使って話しかけるなんて、何やっているんだ…」
“放送を見てほしい”という言葉の意味が、漸く分かった気がする。こんな風に私用で話しかけるのはどうなのか。だが、会場内は混乱していて、それどころでは無さそうだ。
にこにこと笑顔の神代さんに、はぁ、と息を吐く。最後まで、本当に神代さんらしいな。なんて思っていれば、画面の先で神代さんが自分の指に口付けるのが見えた。左手の薬指の付け根に口付けて、月色の瞳が画面越しにこちらを見てくる。
『愛しているよ、司くん』
「んぇ……?!」
『僕が帰ったら、この前の続きをしようね』
「…つ、続き……?!」
そのすぐ後、騒がしいまま無理やり終わった記者会見にSNSが大騒ぎとなった。俳優神代類が引退するという噂は瞬く間に広がり、女性ファンの悲しいという気持ちを報道するニュース番組が連日放送される事になる。当の本人は御機嫌で帰ってきて、その日はゆっくり今後の話を二人でする事となった。
翌日からマンションの下に暫く記者の人達が集まり、それ幸いと外に出れないのを口実に神代さんが数日間オレを甘やかすのも別の話である。
こうして、俳優さんとお弁当屋のバイトさんのお話は、幕を閉じたのでした。
―――
「………………………引退すると言ったのに、映画の公開まで継続なんて聞いてないよ」
「当たり前でしょ。仕事が沢山あるのにいきなり『はい辞めます』なんて出来るわけないじゃない」
「はぁ。あと半年もこのままなんて寂しいなぁ…」
「それだけ一緒に居て、何が寂しいのよ」
隣に座る神代さんが、オレの方に寄りかかってくる。向かい側のソファーに座る寧々さんが大きく溜息を吐くのが見えて、オレは苦笑する事しか出来なかった。
あの記者会見から一ヶ月。世間はまだ少し騒がしいけれど、かなり落ち着いてきた。神代さんは、映画の公開まで引退出来ないと社長さんから言われてしまったらしく、あと半年は俳優を続けるそうだ。引き受けていた仕事もキャンセルする訳にはいかず、今は毎日忙しくしている。
こっそりオレに会いに来た社長さんに、神代さんが俳優を続けるよう説得してほしいと菓子折を片手に頼まれた事は、神代さんには内緒にしている。その話をすれば、すぐに神代さんが辞めてしまいそうだからな…。オレとしても、俳優をしている神代さんはかっこいいので、説得したい所なのだが……。
「僕は司くんとショーがしたいんだよ。司くんのいない撮影はつまらないじゃないか」
「…っ……」
「それなら、司を推薦して一緒にドラマの撮影とかに出ればいいじゃん。司だって役者志望なんだから」
「司くんに変な虫が付くから絶対に嫌だよ」
むす、と寧々さんへそう返す神代さんに、言葉を飲み込んだ。
説得したい気持ちはあるが、こういう事をさらっと言われると、何も言えなくなってしまう。神代さんに好きだと言ってもらえるのは、とても嬉しい。オレと一緒にショーがしたいと言ってくれるのも。オレの目標は、変わらず神代さんの隣に立つことだからな。
それは神代さんが俳優でなくても叶えられることなので、強く説得するまでに至らないのが現状である。
「とにかく、映画公開までは仕事が詰まってるんだから、急いで支度して」
「…司くんと離れたくない」
「仕事なんだから我儘言わずに行くの」
「神代さん、今日も頑張ってください」
寧々さんに背を押される神代さんの肩を、オレもそっと押す。泣きそうな子犬のような顔をされたが、さっ、と顔を逸らした。これ以上引き止めては、本当に仕事に遅れてしまうかもしれん。
ソファーを急いで立ち上がり、キッチンに置いておいた包みを取る。そのままリビングに戻って、それを神代さんに差し出した。
「お弁当作ったので、お昼休憩の時に食べてください」
「……司くん…」
「行ってらっしゃい。今夜の夕飯も頑張りますね!」
両手でお弁当の包みを受け取った神代さんに、笑顔で返す。ひらひらと手を振れば、神代さんも漸くへなりと笑ってくれた。そのままずるずると寧々さんに引っ張られていく神代さんを見送る。ぱたん、と玄関の扉が閉まったのを見てから、ゆっくりと肩の力を抜いた。
「…行ってらっしゃい。類さん」
まだ呼び慣れない名前を小さく呟いて、オレも大学に行く為に靴を履いた。
end
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました(՞ . ̫ .՞)"
大変時間がかかってしまってすみません。
元々、「記者会見で司くんとの事が話題になりあっさりと俳優を引退しますって言っちゃう類くんの話が見たい」という発想からそこを書くために設定考えて作った話だったので、ここまで長くするつもりがなく、気付いたら長くてびっくりしてます。中々記者会見にならなかったです。文化祭、ストーカーの件、婚約者の話、モブ女子との揉め事以外はほぼ全て書きながら追加したものになります。
終わり方これでいいのかな…? ってくらいあっさりしてしまっているのですが、当初の目的果たせたので満足しております。
本当に、ありがとうございました(՞ . ̫ .՞)"