番 9「あぁ、司くん。お仕事お疲れ様」
「…類も、お疲れ様……」
「このお店なんだ。予約したから、早速入ろうか」
「……ん…」
東雲くんに相談した日から一週間。毎日メッセージのやり取りをして、漸く司くんが食事の誘いに頷いてくれた。
目の前で立ち止まった司くんに手を差し出せば、当たり前のように掴んでくれる。それが嬉しくて、つい口元が緩んだ。手を引けば、司くんは抵抗なく僕の後をついてくる。そんな彼と共に、予約したお店に足を踏み入れた。
お座敷が並ぶ雰囲気のいいお店は人で賑わっている。店内の奥の方には扉で仕切られた席がいくつかあり、そこへ通された。
「…個室…?」
「うん。その方が落ち着くかと思ってね」
「………そう、か…」
個室だとは思っていなかったようで、司くんが目を瞬く。一瞬繋いだ彼の手に力が入った気がしたのは、気の所為ではないだろう。きっと、身構えられたのかもしれない。見るからに緊張した様子の司くんを安心させるために、出来るだけ優しい表情を向けると、一層彼の肩に力が入るのが見えた。
「どうぞ」
「あ、あぁ……」
靴を脱いで個室の中に入っていく司くんを見てから、僕も後に続く。軽く説明を受けてから、個室の扉が閉められた。白い障子の貼られた襖が、とん、と小さく音を鳴らす。
机を挟んで向かい側に座る司くんは、そわそわと落ち着きなく室内を見渡し始めた。上着を脱いでそれを抱き締める姿に、くす、とつい笑ってしまう。ほんのりと頬が赤いところを見ると、嫌な意味での緊張ではなさそうだ。
(…東雲くんがあんな話をするから、つい期待してしまうね……)
自分に都合の良すぎる期待を振り払うように軽く頭を左右へ振り、メニューを彼の方へ向ける。居酒屋と言うよりは、食事処の為、メニューはしっかりしたものが多い。一緒に住んでいたけれど、思い返せば司くんがお酒を飲んでいる姿を見たことがなかった。もしかしたら、お酒は苦手なのかもしれない。そう思って、居酒屋はやめておいた。
「お腹が空いているなら、定食とかもあるよ。司くんはやっぱりお肉とかの方がいいかい?」
「……何でも構わんが…、定食にするか…」
「僕はこっちの親子丼にしようかな」
「…お前、また野菜が入っていないものを選んでいるだろ…」
事前調査で、ここの親子丼は卵と鶏肉だけで見た目と味に拘った親子丼を出すと聞いたからね。汁物もシンプルなもので豆腐とワカメだと聞いている。メニューを聞いた司くんが、じと、とした目を向けて来るけれども、それは気付かないふりでやり過ごす。はぁ、と溜息を吐く司くんは、先程までの緊張が少し抜けたようだ。
それに安堵して、頬杖をついたまま彼が選ぶのを待った。
(……甘い匂いがする…、いつもの消臭剤は使わなくなったのかな…)
昔から邪魔をするあの匂いがない事に、つい口元が緩む。出来ることなら隣に座って、抱き締めてしまいたい。彼の首元に顔を寄せて、司くんの甘い匂いで肺を満たしたい。さすがに今は逃げられてしまいそうだから、出来ないけれど。
メニューを真剣に見つめる司くんを見ながら、そんな風に考えていれば、決まったのか彼が顔を上げた。
「…どうかしたのか?」
「真剣に選ぶ君が愛おしいな、と思ってね」
「………揶揄うなら帰るが」
「本心だよ。それより、決まったのなら注文してしまおうか」
顔を顰める司くんにへらりと笑って見せて、話題を変える。
東雲くんの言うように素直に伝えてみたけれど、司くんの反応は良くないようだ。やっぱり、信じてもらえていないのかもしれない。他の女性と一緒にいる所を見られてしまったからか、それとも、今まで彼との時間を避けてきたからか。そのどちらも なのだろうね。
ぱらぱらとメニューの後ろのページを開いて、ドリンクの欄を指させば、彼が ちら、とそちらへ目を向けてくれる。
「ソフトドリンクでいいかい?」
「……類は、何を飲むんだ?」
「僕はなんでもいいけれど…そうだね、今日はジュースにでもしようかな」
「…………」
烏龍茶かカルピスか…、とメニューを一つひとつ見ていれば、司くんが不思議そうな顔をする。ほんの少し眉を寄せてメニューを覗き込んで、細い指が ぴ、とメニューの一つを指さした。生ビールの欄を指さした彼に、思わず固まってしまう。予想もしていないチョイスに顔をそっと上げれば、そわそわとした司くんが僕から顔を逸らした。
「これにする」
「…司くん、お酒は飲めるのかい?」
「飲んでも問題ないだろう。……飲んだ事はあまりないが、大丈夫なはずだ…」
「確かに、年齢の問題はないけれど…」
もう一度メニューを見て、そっと息を吐いた。
司くんがお酒を飲む姿を見たことがない。この前の食事会でも、ソフトドリンクだった。飲めないわけではないのだろうけれど、慣れていないはずだ。それに、ビールは好みが分かれるから、呑み慣れない司くんにはおすすめ出来ない。僕も正直、あの味はあまり得意では無いからね。勧めるなら、甘いサワーの方が良いだろう。
ただ、何故いきなり彼がお酒を飲もうと言い始めたのかが分からなくて、止めづらい。
「……珍しいね。君がお酒を飲むなんて」
「…たまには、飲んでみたいと思ったんだ。……類は、飲まなくていいのか…?」
「………君が飲むなら、僕もそうしようかな。僕は甘い方が好きだから、こっちの方にするけれど、良ければ司くんも一緒にどうだい…?」
「……それなら、…よく分からんから、類と同じ物にしてくれ…」
あっさりと僕の提案に頷いてくれた司くんに安堵して、呼び鈴を押す。彼の意図は分からないけれど、ジュースに近い方にしよう。本当にお酒が飲みたいなら、今度は別のお店に誘って二人で飲めばいい。
店員に注文を伝えると、それを一度確認してから扉の向こうへ下がっていく。それを見計らい、彼の方へ顔を向けた。
「お酒が飲みたいなら、今度はお酒の取り扱いが多いお店にしようか」
「…………そこまでして、飲みたいわけではないが…」
「そうなのかい? それなら、なにか理由があったとか…?」
「………呑めるように、なりたかっただけだ…」
ふい、と顔を逸らす司くんに、首を傾ぐ。
“呑めるようになりたい”なんて、どういう心境の変化だろうか。普段から体を大切にする彼は、あまり夜更かしもしない。煙草の様な体に害のあるものも吸わないし、お酒も殆ど飲まない。健康第一で、食事のバランスだってよく考えていたはずだ。そんな彼が、呑めるようになりたい、なんて言い出すと思わなかった。
(…なにか、理由があるのだろうか……)
周りに馬鹿にされた、なんてことは無いのだろう。司くんの性格は、良くも悪くも真面目だから彼の周りだってそれをよく理解しているはずだ。少なくとも、彼の友人たちに、司くんがお酒を飲まないことに対して追及するような人はいないだろう。
それなら、彼が自分から望んでそうしようとしている事になるけれど…。そもそも彼の周りで、お酒を日頃から飲みそうな人も思いつかない。
んー、と一人首を捻れば、どこか不服そうに顔を顰める司くんが僕を睨むように見た。
「……オレが酒を飲むのは悪いのか…?」
「ぇ、あ、…そういうわけではないんだ。ただ、君にしては珍しいから、つい、気になってしまってね」
へらりと笑って誤魔化せば、司くんが顰めたままの顔を横へ逸らした。膨らんだ頬が柔らかそうで、つい触りたくなってしまう。よく見れば、不機嫌だからなのか彼の頬や耳が赤くなっているように見える。それがなんだか不思議で もう一度首を傾ぐと、司くんがぼそぼそと呟いた。
「…類と一緒に、飲みたかっただけだ……」
「ぇ…」
司くんらしくない、小さな声だった。それでも、はっきりと聞こえたその言葉に、思わず目を丸くさせる。ほんのりと赤い横顔と、どこか拗ねたような小さな声。夢でも見ているのかと思う程僕に都合のいいその言葉に、息を飲み込んだ。
まるで、彼が僕を意識してくれているかのような発言だった。胸の奥が きゅぅ、と音を鳴らして、じわりと顔が熱くなってくる。“僕とお酒を飲みたい”から、“お酒が飲めるようになりたい”と、司くんがそう言ったように聞こえてしまう。
「なんでもない」と誤魔化す司くんは、水の入ったグラスを一気に煽っていた。そのタイミングで、店員さんが飲み物を持ってきた。それを受け取って、司くんに片方手渡す。
「……ジュースか…?」
「カルピスにお酒を混ぜたものだよ。甘いから、飲みなれていない司くんでも飲みやすいと思うのだけど」
受け取ったグラスをじっと見つめる司くんが、そっと口をつけた。傾いたグラスから、液体が彼の口に流れていく。ごくん、と嚥下した彼は、グラスから口を離すと顔を顰めた。変な顔になる司くんに、思わず小さく吹き出すと、更に不服そうな顔が向けられる。
「………笑うな…」
「すまないね。可愛らしい反応で、つい…」
「……………慣れていないだけだ。…すぐに飲めるようになる…」
むすぅ、とする司くんが可愛らしくて更に緩みそうになる口元に力を入れた。そっと手で隠せば、宝石のような瞳が僕へ向けられる。睨むように細められたその瞳から顔を逸らして、僕もグラスへ口をつけた。
「飲めなくても良いと思うよ。無理に飲む必要はないからね」
「……だが、類は好きなのだろう…?」
「…そういうわけではないけれど…」
「………」
僕の返答を聞いて司くんが ふい、と顔を背ける。
お酒が好きだなんて彼に言ったことはないはずだけれど、なぜそんな話になったのだろうか。苦い味は得意ではないし、お酒を飲むのは気を紛らわせる為なのだけれど…。
ちみちみとグラスを傾ける司くんは、また口を噤んでしまった。そんな彼を見ながら、ふと気になった言葉が口をつく。
「もしかして、僕が夜呑んで帰ってきたのを根に持っているのかい?」
「…………」
ぴた、とグラスを傾ける手が一瞬反応したのが見えて、心臓が大きく跳ねた。じわりと司くんの頬がほんのり赤くなったように感じて、思わず手を伸ばす。指先で触れると、彼はグラスを机に置いて慌てて後ろへ下がってしまった。先程より赤く染まった顔を片手で覆うように隠して、僕を睨むように見る。照れ隠しの様なその反応に、喉が音を鳴らした。
畳みの上を擦るように彼の方へテーブルを回って移動すれば、後退るように司くんも僕から距離をとる。
「逃げないでよ」
「っ、…そ、れは、お前が近付いてくるからだろっ…!」
「だって、そんな可愛い反応をされたら、触れたくなるよ」
「ふ、触れるってなんだっ?! 怖いから近付くなっ…!」
部屋の隅で縮こまる司くんをそっと追い込んで、手を伸ばす。床につく彼の手に僕の手を重ねるようにして触れ、反対の手で綺麗な前髪を軽く払った。すでに赤い司くんの顔がさらに赤くなっていく様が可愛らしい。身構えるように固くなる彼の頬を指先で撫で、できるだけ柔らかく微笑んで見せた。
「もしかしたら、僕に都合良く解釈してしまっているのかもしれないけれど、…僕の帰宅時間が遅いのを、寂しいと思ってくれていたのかい?」
「……っ…」
「君が僕とお酒を飲む為に、慣れようとしてくれている、なんて、僕の考え過ぎかな?」
「………そ、んなの…」
ぎゅ、と司くんの手を握るように自分の手に力を入れれば、彼の瞳が揺れる。
東雲くんの言葉が、脳裏を何度も掠める。もし本当に、司くんが少しでも僕との先を考えてくれていたのなら、彼を一人にしてしまったことを謝りたい。遅くまで起きて待ってくれたのなら、寂しさを隠すために怒ってくれていたのなら、今更かもしれないけれど受け止めたい。そう想ってくれた彼の想いに、返したい。
覗き込むように顔を寄せれば、司くんが唇を引き結んだ。視線が横へ逸らされ、次いで僕の方へゆっくりと向けられる。
「…寂しいだろ…、一人は…」
「………うん。ごめんね」
「今まで避けてきたくせにっ、…いきなり、か、可愛い、とか、…好き、とか、触れたいとかっ、……困るっ…!」
揺れた瞳がきらきらと照明の光を反射させる。滲む瞳からぼろぼろと涙が溢れ落ちるのを見て、慌てて指で拭った。出来るだけ優しく触れれば、ぐす、と司くんが鼻を鳴らす。ハンカチなんて気の利いたものを持っていなくて、服の袖で柔らかい頬を伝う涙を拭うと、彼の手が僕の袖を掴んだ。弱々しく握るその指が微かに震えていて、胸の奥が ぎゅ、と苦しくなる。
重ねるだけだった手が、自然と彼の手と繋ぐような形になって、しっかりと握りしめられる。抱き締めたい衝動を抑えて涙を拭い続ければ、司くんがもう一度口を開いた。
「…嫌いになりたかったんだッ……、嫌いに、なりたいのにっ、…類が好きだと言う度に、胸が苦しくなるんだっ…!」
「………すまないね。けれど、僕は司くんが大好きだよ」
「っ、…っ、ゔ〜ッ…」
ぼろぼろとまた大粒の涙を溢れさせる司くんの目尻を袖で拭う。唸るような声を発する司くんは、たまにしゃくり上げながら目を瞑った。そんな彼の方へ体を寄せて、何度も何度も袖で顔を拭う。涙で袖がべちゃべちゃになってしまったけれど、仕方ない。ぐす、と鼻を鳴らす司くんの前髪を指で払って、そっと額に口付けた。ぴく、と彼の指先が反応したけれど、泣き止む様子がない。何も言わずにもう一度そこへ口付ければ、扉がゆっくりと開く音がする。
振り返った先で、店員のお姉さんと目が合ってしまった。
「…ぁ……」
「……し、失礼しました…!」
とん、とすぐさま扉が閉められてしまい、じわりと頬が熱くなる。変な所を見られてしまったなぁ。そんな風に思いながら、司くんの手を引いた。
「司くん、ご飯がきたみたいだけど、食べられるかい?」
「…………ん…」
「それなら、冷める前に食べてしまおうか」
手を引くと、のそのそと司くんが動き始める。それをちら、と目で確認してから向かいあわせで置かれたトレーを少し移動させた。横並びに並べれば、司くんが不思議そうな顔をする。ぽんぽんと僕の隣を軽く叩いて“おいで”と言外に伝えると、繋いでいた手が僕から離れようと軽く引かれる。
「………何故、類の隣なんだ…」
「離れたくないからね。それに、司くんが嫌なら無理をさせるつもりはなかったのだけれど、嫌ではないんでしょ?」
「……な、にを根拠に…」
「嫌なら今すぐ帰ってくれていいよ。きっと僕は、このまま君と一緒にいたら我慢出来ずに手を出してしまうかもしれないからね」
「っ……」
ほんの少し逃げ腰になる司くんが、僕の言葉で息を飲んだ。目に見えて分かる程赤い顔が、少しだけ下へ向く。
こんな風に直球で言ったら、逃げられてしまうだろうか。それでも、ここで確認する方がいい。東雲くんの言っていたことが本当なのかどうか。本当に、今の司くんは僕の事をなんとも思っていないのか。
以前彼の頬にキスをした。それでも、彼はメッセージを送れば返してくれる。会いたいと言った僕に、会ってくれた。もし少しでも、夫婦だった時の情が残っているのなら、手離したくない。
嫌われるのを恐れて彼を避けてきた。それで離婚しようと言われてしまったのだから、もう逃げるのはダメだ。
「今僕は、君を抱き締めたい。だから、このままここに居てくれるなら、食事の後にそうすると思う」
「……、………」
「それでも君は、ここに居てくれるかい…?」
口を開きかけては閉じるを繰り返す司くんが、その唇を引き結んだ。視線が全然合わなくて、困った様に眉を下げられてしまう。優しい司くんの事だから、一生懸命悩んでくれているのかもしれない。それとも、本当に期待してもいいのだろうか。彼にも僕と同じ想いが、多少なりともあると。
逃げやすいように、繋ぐ手をそっと離した。その手が慌てたように掴まれて、目を瞬く。ハッ、と顔を上げた司くんは、掴んだ僕の手を離さずに 口角を下げるようにしてその唇を引き結んだ。
「……ふふ、…それなら、一緒にご飯にしようか」
眉尻の下がった泣きそうな顔に、つい小さく笑ってしまう。もう一度手を引けば、一緒躊躇った後、司くんは僕の隣に座った。
―――
(司side)
(…頭が、くらくらする……)
隣にいる類からずっと甘い匂いがしてきていて、変な気分だ。泣いた所為でもあるのだろう。目も頭も痛い。心臓も、ずっと煩く鼓動していて苦しい。殆ど食べ終わった食器に、箸の進みが遅くなっていく。あと半分、三分の一、四分の一、と変なカウントダウンのようなものが脳内を巡っている。これもそれも、類があんな事を言うからだ。
「ご馳走様でした」
「っ……」
「気にせず、ゆっくりでいいからね」
パチン、と手を合わせて食後の挨拶をする類に、過剰に反応してしまった。そんなオレに気付いているのか、優しく笑う類が気遣うような事を言ってくる。それにまた胸の奥の方がそわそわとしてしまう。並んで食事をとるなんて、いつ以来だろうか。肩が触れるほど近い距離にいる類に、緊張しないはずがない。じんわりと伝わる類の体温が熱くて、自然とお腹の奥から体温が上がっていくかのようだ。気恥しさと緊張で今すぐにでも逃げ出したい。だがそれ以上に、今は類から離れたくないと思ってしまう。
(………こんな状態で抱き締められたら、きっと心臓が破裂してしまうっ…)
分かっているのに、類にあんな事を言われては帰れなかった。ダメだとわかっているのに、甘い誘いを断れなかった。ずっと触れてほしいと思ってきた番に、触れてもらえる。そう思ったらもう、ダメだった。
この前、類に額や頬へキスをされてから、ずっとまた触れてほしいと何度も何度も考えてしまっていた。今の類なら、オレを引き止めるためになんでもしてくれるかもしれない。もしかしたら、類のあの『好き』にも、多少の想いがあるかもしれない。そう期待してしまう。期待をしてはいけないと分かっているが、他に類がオレを『好きだ』と言う理由がつけられない。
(……これを食べ終わったら、先程のように、類と…)
あと一口ほどになったそれを見て、一度ゆっくりと呼吸をする。
食べ終わったら、と言われた。類は食事を終えたという事は、オレが終わるのを待っているのだろう。やたらと視線を感じるのもそうなのだと思う。目を合わせる勇気がなくて顔を上げられんのだが、どうすればいい?! 肩にやたらと力が入ってしまっている。手は震えるし、顔も熱い。心臓が煩くて、類に聞こえてしまいそうだ。だが、いつまでも残り一口を見つめたまま固まっているわけにもいかず、一息に口へ押し込んだ。
「………ご、ちそう、さま、でした…」
そっと手を合わせて、そう呟く。
終わってしまった。終わらせてしまった。手を合わせたままどうしていいのか分からず固まってしまう。類の方から視線は感じるが、動く気配がない。かといって、こちらから動くのは気恥しい。期待していたと思われたくはないので、類が動くまでこのまま待つ方がいいのだろうか。いや、待つのもどうなんだ。このままお地蔵さんの様に待ったとして、はたして類は手を出そうと思うのか?
ぐるぐると思考がだんだんおかしな方へズレていく。それならいっそオレの方から動くべきなのではないか。ずっと向けられている視線にそわそわしてきてしまい、おそるおそる隣を目で見れば、頬杖をついてこちらを見る類と目が合った。
「美味しかったねぇ」
「……ぇ、…ぁ、あぁ…」
「司くんとご飯を食べていたら、君の作ったご飯が食べたくなってしまったよ」
「………なんだ、それは…」
予想もしていなかった話題に、肩の力が抜けていく。すぐに手を出されるというわけではないのだな。ホッとしたような、一人緊張していたのが気恥しいような、残念なような…。
照れ隠しに むぅ、と口をへの字にすると、類が くすくすと笑う。とん、と軽く体重をかけるように寄りかかられ、すぐ近くから類の声が聞こえてくる。甘い匂いに、また一層心臓がドキドキした。
「司くんの作ってくれるご飯が、世界で一番好きだよ」
「……要らない、と言って食べなかったじゃないか…」
「そうだね。君を傷付けたかったわけではないんだ。ただ、君と顔を合わせるのが、怖かったんだ」
「……オレと一緒に居るのが、煩わしかっただけではないのか…?」
「それは違うよ」
はっきりと否定されて、類の手がオレの片手を掬うように取る。「煩わしかったわけではないよ」と、類に静かな声でそう言われ、顔を上げた。眉間にしわを作って、どこか泣きそうな顔でオレを見る類は、唇を引き結んでいる。
今更、と思わなくはない。女性と飲んで帰ってきた事実は変わらないし、類に言われた言葉もなかったことにはならない。それでも、目の前で真っ直ぐオレの顔を見て否定した類の言葉を、信じたいと思ってしまっている。
黙って類の言葉を待てば、類がオレの方へ手を広げた。『おいで』と言われている気がしてしまって、逃げるように身体がほんの少し後ろへ傾いた。
「………『別れたい』、と、…言われるのが、怖かったんだ…」
「……」
「司くんには、僕以外に好きな人がいるんだって、…ずっと、そう思っていたから…」
「…………な、んの話を、しているんだ…?」
へらりと笑う類に、呆然としてしまう。
怖かったと、そう話す類は嘘を言っているようには見えない。だが、オレに“類以外の好きな人がいる”という話は、どこからきたのだろうか。オレはずっと類が好きだった。それこそ類と番になる前からだ。αの類を意識して、類の隣にいたいと思うようになった。番になりたいと願って、あの日類を誘ったのだってオレだ。事故でオレと番になってしまったと、あの日の事を類が悔いているのだと思っていたんだ。でなければ、類が態々オレを『仲間』だと念を押すこともなかっただろう。
「…オレを避けていたのは、類の方だろう…? 連絡も寄越さず、全然帰ってこなくて…」
「……僕が居たら、気持ちが休まらないかと思ったんだ。東雲くんのフェロモンの匂いに嫉妬して、君を責めてしまったからね」
「…し、っと…、って…」
「例え事故でも…、君に僕以外の好きな人がいても、他の誰でもない僕が君の番になれて嬉しかったんだ。仲間としてでもいいから、できるだけ長く君の隣にいたくて、から回ってしまっていたのだけれどね…」
力なく笑う類に、言葉を飲み込む。
彰人のフェロモンというのは、類の事を彰人に相談した時の事だろうか? 類とどうしたら夫婦らしいことが出来るかどうか、と彰人に相談した日、確かに類の様子がおかしかった。あんな風に、抱き上げられて、顔を寄せられて…。起こっているようでもあったが、まさか、その事なのだろうか…。
それに、オレが類以外の誰かを好きになったことなんてないのに、何故またその話になるんだ? どちらかと言えば、オレの方が類に愛想を尽かされないようにと…。
なんと返せばいいか分からず呆然とするオレの視界の隅で、広げられた類の指先が、微かに震えているのが見えてしまった。
「……」
無理に触れようとはしないのだと、気付いてしまった。きっと、食事の前にオレが緊張していたから、あんな事を言っておきながらもオレに合わせようとしてくれているのかもしれん。そうであればいいという、オレの期待もあるかもしれんが。
黙ったままほんの少し視線を下げて、おそるおそる手を伸ばす。広げられた類の片手に自分の手で触れれば、そっと握られた。軽く引かれて、自然と体が傾く。抵抗なく引かれるままに身を任せれば、体が正面から類の腕の中へおさまった。
背に回された腕が、壊れ物に触れるかのように優しく抱き締めてくる。ぎゅぅ、と胸の奥が苦しくなって、唇を引き結んだ。
「………仲間だと言えば、安心して一緒に居てもらえると思ったんだ…、……本当は、…番になる前から、君の事をそんな風には思えていなかったのにね…」
消え入りそうな類の声に、開きかけた口を閉じた。
何故そう言ったのか、オレには分からん。分からんが、あの時の言葉がハッキリと思い返せる程に、オレにとって衝撃的な言葉だったのだろう。類と番になったのに、類はオレを想ってはいないのだと、そう突き付けられたように感じて…。
「………………後悔、していたんだ…ずっと…」
「…ぅん……」
「……本能のままに類を巻き込んで、…オレに、縛り付けてしまったと…後悔していたっ……」
類なら受け入れてくれると、勝手に期待していた。あの時の類の言葉で、オレの気持ちを押し付けたのだと気付かされた。そこから変にぎこちなくなってしまって、アプローチも空回って、耐えきれなくなった。
もしあの頃、類と間違えて番になる前に 類が好きだと告げられていたら、何か変わっていたのだろうか。
「巻き込まれてなんていないよっ…、僕があの時、…君が、欲しいと願ってしまったから…」
「…………もっと早く…、聞きたかったっ…」
「…ごめんね。迷惑かと思って、言えなかったんだ…」
ぎゅぅ、と背に回された類の腕に力が入るのが伝わってくる。それに不思議と安堵して、オレも類の方に腕を回した。抱き締め返すのはなんだか躊躇われて そっと服を掴むだけに留めたが、それだけでも充分だった。甘い匂いに包まれる心地良さと、程よく伝わる熱に目を瞑る。じわりと目頭が熱くなった気がして、隠すように類の胸元に顔を押し付けた。
少し早い類の心臓の鼓動が聴こえてくる。その音に、胸の奥が きゅぅ、と音を鳴らした。
「好きだよ、司くん」
「………」
「…大好き」
強く抱き締められ、ずっと類から聞きたかった言葉が色を増す。ここまできたら、“偽りかもしれない”とは、もう思えなかった。
(……オレも、類が好きだ…)
滲んだ涙を類の服に押し付けて拭い、オレより少し広いその背に腕を回した。