メインディッシュは高校生くんに食べられたい○!幼馴染の家は、自営業のお弁当屋だ。
家が隣同士で歳も近いから良く一緒に遊んでいた幼馴染の寧々。子どもの頃から寧々の家には遊びに行っていた。ふわりと香る出汁の匂いや、コトコトと煮込む音は好きだった。
高校生になって、趣味は機械弄りと観劇。憧れの人は今を騒がす若手人気俳優。将来の夢は未定。そんな僕は、放課後だけでなく休みの日も家でずっと部屋に引き篭っていた。それを見兼ねた寧々に、バイトに誘われたのが高校一年の夏のこと。
それ以来、幼馴染のお店でバイトをしている。基本は放課後。土曜日は人手が必要な時にだけ。メインはレジ打ちだ。それからお店周りの掃除をたまに。自営業のお店だけれど、決まった時間はそれなりに忙しい。夕方とお昼時だ。それ以外はお客さんも入れ替わりで落ち着いている。
今日もレジ横のカウンターで、ピークの時間を待っていた。6時から7時くらいにかけて人が増え始める、その時間を。
(あと、30分くらいかな…)
そんな風に思っていれば、カラン、とお店のドアが開いた。どうやらお客さんが来たようだ。誰もいなかった店内に、コートを着た人が入ってくる。
帽子を目深に被り、マスクと眼鏡で顔を隠したその人が、キョロキョロと店内を見回している。いかにも不審者の様な出で立ちだ。
「いらっしゃいませ」
にこ、と愛想笑いを一つ作ってお決まりの挨拶を言えば、その人は僕に気付いてこちらへ向かってきた。僕より少し背の高いその人は、カウンター下のショーケースをじっと見つめている。細く綺麗な指を顎に当てて、真剣に見ているお客さん。シーンとした店内に少しだけ気持ちがそわそわとしてしまう。話しかける気はないけれど、沈黙でいるのもどうなのだろうか。けれど、クレーム問題とかは面倒なので、やっぱり口を閉じる。
すると、その人はパッと顔を上げて僕の方を見た。
「お兄さんのオススメは?」
「…ぇ、……唐揚げ、ですかね…?」
「確かに美味そうだな。なら、それを」
「かしこまりました」
いきなりふられた事に驚きつつも返すと、その人がくす、と笑った。声が、とても綺麗だった。凛としていて、ハキハキ喋るお客さんは、僕がカップに唐揚げを入れる姿をじっと見つめてくる。パチン、と蓋を閉めると、待ってましたとばかりにまた口を開いた。
「他には何がオススメなんだ?」
「…と、言われましても…。卵焼きとかは美味しいですね」
「ならそれも!他にはなにかあるか?サラダとかのオススメは?」
「すみません、僕は野菜を食べないので、オススメと言われましても…」
「なに?!お弁当屋で働くのに野菜は食べないのか?!」
キーン、と耳が少し痛くなる程の大きな声で驚かれてしまう。なんとも失礼なお客さんだ。透明のカップに卵焼きを詰めながら少しだけ眉をしかめた。口元に手を当て、分かりやすく首を傾げるお客さんは、「なんて贅沢なやつだ」とぶつぶつ呟いている。そもそも、僕はバイトであってこの家の子ではないのだけれど…。パチン、と蓋を閉めて、僕はにこりと作り笑いを浮かべた。
「野菜を食べなくても生活に支障はありませんので」
「栄養バランスが悪過ぎる。少しは食べた方がいいと思うぞ?」
「ご心配ありがとうございます」
「む、…こんなにも美味しそうな料理ばかりだというのに、食べれないのは勿体ないな」
マスク越しで少しくぐもって聞こえる声。余計なお世話かな。僕は食べなくてもここまで普通に生活出来ているのだから。逆に、あの苦味を食べ続ける方が体に悪い気さえするというのに。首を捻るお客さんは、どうやらまだ引っかかっているらしい。うーん、うーん、と悩んだまま首を右へ左へと傾けている。
そうして少し悩んだ末、なにか思いついたのか、その人がパッと顔を上げた。
「それなら、今日多く注文の入った品はどれだ?」
「今日、ですか…?」
「あぁ!他の客が頼んだ品で、今日人気のメニューだ!」
「……それなら、春巻きと焼売、エビチリとか、あ、日替わりスープが今日は豚汁で、よく売れましたね」
「なら、今言ったものも追加で頼む!」
ふん、と胸を張るお客さんに、「かしこまりました」と返事を返してパックを手に持った。春巻きや焼売なんかを詰め込んで、一つ一つに蓋をする。今日は男性客が多かったので、しっかりしたおかずが人気だった。全部を袋へ入れて、レジに打ち込んだ。お会計を済ませると、お客さんは僕から袋を受け取って、頭を下げた。
「オススメを教えてくれたこと、感謝する!」
「こちらこそ、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「あぁ、また来週な!」
最後まで元気な人だった。嬉しそうに帰っていく後ろ姿をなんとなく眺めて、一つ息を吐く。なんというか、たった五分くらいの事なのにどっと疲れてしまった。嵐のような人だったな、と思い返しながら、カウンターに額をつける。また来週、と言っていたが、来週も来るのだろうか。友だちではないのに、なんだか距離感がよく分からない人だったな。
(…まぁ、嫌な気はしなかったけれど……)
あまり人付き合いが得意ではないはずなのに、あのお客さんに対しては平気だったように思う。何故だろうか。
ぼんやりとそんなことを思っていれば、カラン、とまたドアが開く。気付けば忙しくなる時間が近付いていて、そこからはお客さんが一気に増えてしまった。考えることすら忘れるほどの忙しさに、僕はあのお客さんのことも忘れてしまった。
―――
「こんにちはっ!」
「…………いらっしゃいませ…」
カランカラン、と盛大に音を鳴らしてドアが開かれた。とても元気な声に思わず顔を向けると、すっかり忘れていた不審者の様なお客さんがこちらへ向かってくる。
「とても美味かったぞ!」
「…それは良かったですね」
だんっ!とカウンターに手を置いてずいっとこちらへ身を乗り出したその人は、興奮気味にそう言った。分厚いレンズの向こうで、瞳をキラキラさせているのがなんとなく雰囲気で伝わってくる。ちら、と帽子とメガネの隙間から、薄い橙色の様な前髪が見えた。どうやら髪色は明るめな色をしているらしい。そんな風に思っていると、目の前の人は、こほん、と一つ咳払いをした。
「まず、薦めてもらった卵焼きだが、甘くて中が少しとろっとしているのが最高だったな!焼き加減が絶妙でふわふわしているのにしっかりとしていて、口の中で噛む度にじわぁっと甘さが広がるのがとても良かった!」
「ふふ、そうですか」
楽しそうに話す声に、僕も小さく頷いて返す。僕も寧々の家の卵焼きを前に食べたことがあるけれど、たしかに美味しかった。寧々は出汁を使っただし巻き玉子の方が好きな様だけど、僕はこちらの方が好きだ。今回お客さんにオススメしたのも、僕が好きだったからかもしれない。
お客さんの言葉を聞きながら、前に寧々と喧嘩をした事まで思い出して、つい口元が緩んだ。すると、更に彼がカウンターを乗り越えんばかりに身を乗り出してきた。
「春巻きは皮がパリパリで、噛んだ瞬間の音がとても楽しいな!じゅわっと溢れる肉の油と椎茸やたけのこの食感も良い!人参の色合いもとても良かった!具が柔らかくて味もしっかりしていたから、ソースや醤油なんか使わなくても十分美味かったぞ!」
「え、…そ、そう、ですか…」
「焼売は玉ねぎの甘さがいいな!もっちりとした皮に包まれた肉だねが歯で噛むとほろほろ崩れてとても美味しかった!しっかり蒸された焼売の、旨味をたっぷり滲ませた肉汁が舌の上にとろっと溢れるのが堪らなくて、あっという間に無くなってしまったぞ!からし醤油との相性も良くて、いつもよりご飯を多く食べてしまったな!」
「……へぇ」
声が楽しそうに弾んでいる。一気に言われているのに、彼の話し方のせいだろうか、まるで劇の台詞を聞いているような気分になる。擬音語は少しゆっくりと、言葉には抑揚がついていて、身振り手振りも加わっていく。急にくるくる回ったり、頬を両手で抑えたり、かと思えば胸を強く抑えたりしていて、あまりの動きの大きさに少しだけ驚いた。
「エビチリは、ぷりぷりの海老の食感も長葱のシャキシャキ感も凄く良かったな!海老に絡んだチリソースが他のところより少し辛めだったから、尚更ご飯が進んだぞ!チリソースのピリッとした辛さと海老の程よい甘さが最高によく合っていた!」
「……うん」
「それから豚汁!豚の旨みがスープにとても良く出ていたな!大根や人参は噛む度にじわぁっとスープの旨味が滲んで舌の上で蕩けて美味かった。溶けるほどにこまれた玉ねぎの甘さも、ぷるぷるのこんにゃくの楽しい食感も、太めに切られた長葱のとろっとした柔らかさと甘さも、こりこりとしたごぼうの歯ごたえも最高に美味しかったな!それから、ほくほくの里芋!噛むとふにゃ、としつつもとろぉっと粘り気のある実がスープの味を程よく絡ませつつ里芋の味を口内に広げてくれる。たった一品のスープにあれだけの旨みがぎゅっと詰まった豚汁は最高に美味かった!」
「……」
弾むような声と、楽しそうに体で表現するお客さんから、目が逸らせない。なんとも不思議な雰囲気の人だ。それと同時に、脳裏に浮かぶ料理と食材に、唇を引き結んだ。野菜はあまり好きではない。出来ることなら、食べずにいたい。それは今も変わらない。
変わらないけれど、この人の話を聞いていると、ほんのちょっと食べてみたいと思ってしまった。
「なにより、オススメされた唐揚げ!あれが特に美味しかったぞ!外はカリカリサクサクの衣に包まれていて、中の鶏肉はぷりっぷりの弾力あるもも肉。味が染み込んでいて噛む度に口内に広がるタレの味。なにより鶏肉自体の旨みもとても引き出されていた!お兄さんがオススメしてくれるだけあるな!」
「…あ、りがとう、ございます…」
メガネの奥で、キラキラした瞳が弧を描いた。何故かそれが分かって、胸がドキドキしてしまう。なんだろう、この人が食べているところを、目の前で見てみたいと思ってしまった。マスクを外して、メガネも帽子も取って、着飾らない彼が食べる姿が見てみたい。
(…きっと、今みたいに身体全部で表現するんだろうな…)
キラキラした目で美味しいと言うのだろうか。表情を綻ばせて、幸せそうにするのだろうか。両手をわたわたさせて美味いって伝えてくれるのかな。凄く、見てみたい。目の前で、子どものようにはしゃぐこの姿を見てみたい。
「それじゃぁ、今日の人気メニューを教えてくれんか?」
「え、あ、…今日は、ひと口ハンバーグと、回鍋肉と、ほうれん草とコーンのバター炒め、それから、日替わりスープです」
「なら、それで。あと、お兄さんのオススメの唐揚げも頼む」
「…かしこまりました」
その後は、普通にお金を払って、普通に帰っていった。嵐のような人だった。彼が帰って、お店の中はまた人がいなくなる。なのに、ずっと心臓の鼓動は早かった。耳の奥に、まだ彼の声が残っている気がして、掌でそっと覆う。声が消えてしまいそうで、なんだか勿体なかった。まだ、あの楽しそうな声を忘れたくない。
「………また、来週も、来るのかな…」
相変わらず、『また来週』と帰って行ったお客さんに、ほんの少しだけ期待してしまった。
―――
その次の週も、その人は来た。毎週水曜日の夕方五時半頃。前回買ったメニューの感想を一通り話してから、その日の人気メニューを買って帰る。そんなちょっと変わったお客さん。凛とした声が印象的な、不思議なお客さん。いつしかその人が来るのを楽しみにしている自分がいて、その人とのほんの10分程の時間が大切な時間になっていた。
「このコロッケがとても美味しかったんだ!衣のサクサクっとした食感と、中のじゃがいものほろほろっと溶けるように崩れていく感じが堪らんな!挽肉も沢山入っていて旨味を全部じゃがいもが吸い込んでいるからだろうな、胡椒との相性も良くて最高に美味かった!」
「そうなんですね」
「む、まさかじゃがいもも食べれんのか?!このコロッケの美味さを知らんとは人生が勿体ないぞ!
それから、このきんぴらごぼうも最高なんだ!ごぼうと人参のシャキシャキした食感も楽しいし、ピリ辛の味付けもまたご飯によく合っていてな、―――」
次から次へ出てくる味の感想が面白い。大袈裟なほどうんうんと頷いたかと思えば、次の瞬間には頬を抑えて悶え始めている。本当に食べることが好きなのだろうね。ここのお店のメニューもほとんど食べてしまったようだ。毎週の様に唐揚げも一緒に買って帰ってくれているようだけれど、全メニューを食べきったら、このお店には来なくなってしまうのだろうか…?
(…それは、嫌だな)
出来るなら、このままこのお店に通っていて欲しい。けれど、それはお客さんが選ぶことだ。僕がお願い出来ることでもない。少し視線を下げてそんな事を考えていると、お客さんがカウンターから少し離れた。
「それじゃぁ、今日の人気メニューを教えてくれ!」
「……今日は、ミートボールと、春雨サラダ、白身魚のフライに、竜田揚げ、ですかね…」
「なら、それを頼む。日替わりスープも付けてくれ」
「かしこまりました」
透明のカップを手に取って、言われた通りに入れていく。パチン、と蓋を閉めていく度に、この時間の終わりが近づいていくようで、胸の奥がチクチクと痛んだ。もう少し、この人と話がしたい。けれど、バイトの学生に話しかけられても迷惑だろう。今日も、また来週、と言ってくれるだろうか。もし、今日が最後だったら、どうしよう。そんな事ばかり考えてしまって、気持ちが少しずつ沈んでいく。と、手に持っていた空のカップが落ちた。
「あ」
カラン、とプラスチックのカップが床を転がる。まだ何も入れてなくて良かった。新しいカップに手を伸ばすと、カウンターの前でお客さんが首を傾げた。
「大丈夫か?もしかして、疲れているのではないか?」
「…失礼しました。大丈夫ですよ」
「無理をしても良くないだろ。今日はもう上がるのか?」
「いえ、閉店までいるつもりですが…」
「……そうか」
そこで言葉を切って、お客さんは小さく息を吐いた。心配させてしまったみたいで、申し訳ないな。ただ考え事をしていただけなのだけどね。それでも、少しだけ嬉しいと思ってしまっている自分がいるのも確かで、自分のそんな感情に首を捻る。最近、なんだか変だ。
「それでは、またな」
「…ありがとうございました」
「あまり無理はするんじゃないぞ!」
ひら、と手を振ってお店を出ていく後ろ姿を目で見送った。今日は、『また来週』と、言わなかった。たったそれだけで、足元がぐらぐらと揺れているような錯覚を起こす。もしかして、本当に、これが最後なのだろうか。誰もいなくなった店内で、胸の奥にぽっかりと穴が空いた様な気分の僕だけが取り残された。
―――
「お疲れ様でした」
その後、店の片付けまでしっかり手伝ってから、バイトをあがった。寧々の両親に挨拶をして、お店の扉を開く。すっかり暗くなった空を見上げてから、視線を前へ戻す。
「む、漸く終わったのか!」
「…え」
「お疲れ様」
「……な、んで…」
不意に声をかけられて振り向くと、店の傍に見慣れた人が立っていた。僕の方へ近寄ってくるその人は、ぽん、と僕の頭にその大きな手を乗せる。
「疲れているのだろう?家まで送る」
「そんなに遠くないですよ…?」
「体調が悪いなら無理はするな」
「…………」
どうやら、カップを落としたのは、体調が悪いからだと思っているみたいだ。残念ながら、僕の体調は悪くない。けれど、もう会えないかもしれないと思っていたお客さんに会えたことが嬉しくて、黙って頷いた。
お客さんの隣に並んで、家までの道を歩き出す。彼の家もこの近くのようだ。食べることが好きなのだ、とか、妹がいるとか、趣味は演劇関係だとか色々な事を話してくれた。ただ相槌を打ちながら聞いてるだけでも、充分楽しめる程だ。けれど、意外にもドラマやショー、小説や映画なんかにも詳しく、思っていた以上に話が合った。
「む、その本ならオレも読んだぞ!初めて読んだ時は、ラストの結末に驚いたな」
「今度正式にドラマ化すると聞いて、最近読み返したんです。キャストの人選もとても良く、今から楽しみで」
「そうか、それでか!確かに、今回は特に力のあるものが集まっていたな。オレもとても楽しみにしているんだ!」
「お兄さんもそう思いますか?主演から脇役まで、とても演技力のある方達が集められてますからね」
半年後に放送されるドラマの事もよく知っていた。僕の憧れの人が主演を演じるドラマだ。今から楽しみにしているが、この人も同じらしい。ある人気小説のドラマ化という事に加え、今若者に人気の人気若手俳優『天馬司』が主演に決まり、かなり話題になっている。
天才役者天馬司。幼い頃から子役としてドラマやCMに出ていたが、最近はファッション誌を始めとした雑誌のモデルにもよく出ている。見た目が金色の髪に金色の瞳と日本人離れしている事もあり、とても綺麗な容姿をしている。加えて、優しくもミステリアスな雰囲気が魅力の、落ち着いた大人の男性という所も女性の心を掴んでいた。彼が演じる役は多種多様だ。気弱な少年から熱血教師、時には冷酷無慈悲な魔王から包容力のある兄役も完璧にこなしている。そんな彼が、今回はミステリアスな探偵だ。彼の良さを前面に押し出した役柄に、誰もが納得したことだろうね。
緩む口元を手で軽く隠す。小さい頃は演出家になりたいと思っていた事もあった。けれど、僕は誰かとショーをする事なんて出来ないのだと知って、その夢も諦めた。自分が携わる事は出来ないけれど、ショーや劇を見ることはやめられなかった。そんな時、初めて天馬司が演じる映画を見たんだ。僕が中学生の時だ。優しく笑う笑顔に、真剣に他人へ訴えかける姿に、胸を強く掴まれる程真に迫った涙のシーンに、一瞬で惹き込まれた。
(…きっと、一種の一目惚れというやつだろうね)
彼の演じる姿が、好きだ。彼が出演したドラマも映画も全部見た。彼が載っている雑誌も出来る限り集めて、CMや広告、ポスターなんかも欠かさず見に行った。俳優天馬司は、僕の憧れの人だ。
脳裏に浮かぶ雑誌の笑顔を思い返していると、隣を歩くお兄さんが首を傾げた。
「それだけよく見ているが、将来は演劇関係の仕事につきたいのか?」
「……そういうつもりは、ないですね」
「そうか。残念だな。一緒に話をしていて、これ程楽しいと思ったのは久しぶりなんだが」
「ふふ、僕もですよ」
あっという間に着いてしまった自宅の前で立ち止まる。お兄さんはちら、と家の表札を見て、ホッとしたように肩を落とした。どうやら、本当に心配してくれていたようだ。騙したみたいで少し罪悪感はあるけれど、本当に楽しい時間だった。少し残念に思いつつも、ぺこ、と頭を下げる。
「送っていただき、ありがとうございました」
「いや、無事に着いたようで良かった。ゆっくり休むんだぞ」
「はい。えっと、お兄さんも、お気を付けて」
顔が隠れていて分からないけれど、声音から彼が笑った気がした。名前が分からないので、とりあえず“お兄さん”と呼ぶと、彼はほんの少し首を横へ倒す。
「あぁ、オレの事は、司でいいぞ。神代くん」
そう、さらっと言われて、目を瞬く。僕の名前を、知っていたのか。もしかして、お店の制服に付けたネームプレートを見ていたのだろうか。見た目は不審者の様なのに、少しうるさいくらい明るいお客さん、という印象だったから、意外だ。結構しっかりした人らしい。
「でしたら、僕も類で構いませんよ」
「おお、類というのか!神代類、良い名前だな!」
「ありがとうございます。司さんは…」
弾むような声で褒められて、少しだけ胸の奥がほわ、と温かくなる。この人の言葉は、なんだか温かい。素直な人なのだろう。声音のせいか、お世辞の様には全く聞こえない。だからこそ、『良い名前だ』、なんてたったそれだけの言葉でも嬉しくなってしまうのかもしれない。
僕も何か返したくて考えたけれど、そもそも『司』さんという名前しか分からないので、言葉が詰まった。少し視線を下げた僕に気付いたのか、お客さんが苦笑する。
「オレだけ名前を教えてもらうのは不公平だな!
天翔るペガサスと書き、天馬!世界を司ると書き、司!」
「……………ん…?」
「その名も、天馬司だ!」
どんっ!と胸を張るお兄さんに、呆気としてしまう。なんだろう、今の自己紹介は。なんとも変わった自己紹介だ。マスクや眼鏡で分からないけれど、もしかしたらとても自信に満ちた顔をしているのかもしれない。
(…天馬司、って、同姓同名かな……?)
珍しいこともあるんだね、と一つ頷く。世間は狭い。僕の憧れの人と同じ名前だったとは。少なからず、こちらの天馬司さんにもこの数週間で好意を持った僕としては、面白い状況だ。一人そんな事を思っていれば、目の前彼は少し不思議そうに首を傾げた。
「なんだ、あまり驚かないんだな」
「まぁ、芸能人と同姓同名の人は多いですからね」
「ん?オレの他に、俳優の天馬司がいるのか?」
「…………お兄さん、俳優なんですか?」
どうやら、僕の反応が不服だったらしいお兄さんは、更に不思議そうに首を傾げる。そんな彼に、僕も首を傾げた。オレの他に、ということは、この人も俳優なのだろうか。けれど、『天馬司』という名前の俳優は、一人しか知らない。そして僕の知る『天馬司』は、物静かで落ち着いた俳優だ。お笑い芸人なんかで、同じ名前の人がいたのだろうか?
思い出そうとする僕の肩を、お兄さんがガッ、と掴む。
「お、おまっ、…このオレ、天馬司を知らんのか?!」
「…僕の知る天馬司さんは一人ですが……」
「な、なんという事だっ…!ドラマや映画の主演もこなし、今やCM、雑誌、ポスターと、このかっこいい姿は全国に知れ渡っているというのにっ…!!」
「………………ん?」
大袈裟な言い回しで肩を落とすお兄さんを、愛想笑いで見つめ返す。なんとも面白い人だ。自分の事をここまで言えるのはもはや才能かもしれない。けれど、ドラマや映画の主演?CM、雑誌、ポスター?まさか、芸能人を自分だと思い込んでいる、精神的に少しおかしい人だろうか。
じっと黙って見つめ返していると、お兄さんは僕の疑いの目に気付いたようだった。
「まさか、オレが誰か分かっていないのか?!」
「天馬司さんだと、先程自分で名乗ってましたが…?」
僕の返しに、彼はグッと拳を握り込んだ。そうして、マスクと眼鏡に手をかけ、バッ、とそれらを外す。今までのやり取りのせいか、現れたその頬は赤くなっている。琥珀のような金色と橙色が混ざった瞳が僕へ向けられた。そうして、今度は深く被った帽子が外され、金色の髪がふわりと揺れる。
「…ぇ……」
毛先にかけてピンクゴールドへグラデーションがかった金色の髪に、思わず目を丸くしてしまう。少しつり上がった眉と、涙が微かに滲んだ瞳。ムスッとした表情の彼は、良く知る人物とそっくりだ。否、僕の憧れの人と、同じ顔をしていた。
「オレは、さっき話したドラマの主演を務める、俳優天馬司だっ!」
「………て、んま、つかさ…?」
「これでもまだ信じないと言うなら、この際マネージャーに連絡してもいいぞっ!」
トン、と胸に手を当てて背筋を伸ばした彼が、僕をじっと見つめてくる。意地になっているのか、少し涙目の彼は頬を膨らませて僕を睨むように見ていた。脳内で、ガラガラとそれまでのイメージが崩れ落ちていく。天馬司とは、物静かで落ち着いた大人の男性で、若者に人気の若手俳優で…。
「……う、うそだ…」
「嘘ではないっ!このオレが、天馬司だっ!」
「…………世間のイメージと違い過ぎじゃないか…」
失礼な奴だ!と文句を言う彼、天馬さんに、僕は肩を落とす。中学生の頃の自分が見たら、なんというだろうか。儚い恋が散っていく様な胸の寂しさを抱きながら、僕は、呆然と立ち尽くすのだ。
バイト先に来るちょっと変わったお客さんは、僕の憧れの俳優さんだった。
これはそう言うお話。
―――
続かない。
・イメージが大事だ、と言われて、俳優業の時はクールに!を大切にしている司くん。
「この方がスターらしい!と咲希…妹とマネージャーが言うからな!オレなりに日々演じているんだ!」
後に、「あ、そういえばあの役の時はこんな感じだったけど、これがこの人の自然体なのか」と類くんも受け入れ始めるし、惹かれていく。
・「天馬さん、食リポとかしないんですか?」
「む?オレはそういうのには向いていないと思うぞ?食べるのは好きだが、味の感想を伝えると言うのは難しいからな」
「………………そうですね、やらない方が良いと思いますよ」(これ以上彼の人気が上がってしまっても困るからね)
食リポしたらきっと周りからの印象は変わるし、食関係の番組に呼ばれる率が上がるけれど、敢えて止める類&司のマネージャー。
・「類の演出は面白いな!」から始まり、「僕、もう一度演出家を目指すから、いつか僕の演出でステージに立って下さいっ!」とプロポーズする類くん。
ちょっと思いついたから書いたifバージョン。
もう書かない。