メインディッシュは俳優さん以外テイクアウト不可能です!× 30(司side)
「………神代さん、が…」
やっと出た言葉に、神代さんがふわりと笑う。
頭をなにか固いもので思いっきり殴られた様な感覚がした。ぐわんぐわんと、思考が大きく揺れる。『なんで』とか、『どうして』と、同じ様な言葉ばかりが浮かんでは消えていく。
朝、えむがぼろぼろと泣いていた姿を思い出して、胸がツキ、と痛くなった。
「……神代さんが、そんな人だとは思わなかったっ…」
「………天馬くん…?」
「えむの大事な店だからって、…でも、それ以上に、オレにとっても、この店は大事な場所なんだっ…」
グッと強く拳を握り込んで、俯いた顔をくしゃりと歪ませる。足元を睨みつけたまま、唇をきゅ、と引き結んだ。
えむの家族が大切にしているお店。家族の好きな物を沢山並べた、家庭の味を大事にしたお弁当屋さん。ちょっと変な看板も、安すぎる値段設定も、不思議なメニューも、全部えむ達が大切にしてきたものだ。えむが大好きな、家族のお店。
そんなこのバイト先が、オレも好きだった。何故なら、ここは…。
「……神代さんと、週に一回会える、特別な場所だから…」
「…うん」
「なのに、…神代さんは、そう思ってくれてないってことですよねっ…?!」
握られた手に、力が入る。神代さんは、何も言わなかった。それに、一層胸が痛くなる。何か言って欲しい。違うって、一言否定してくれ。なにか理由があるんだって、言ってほしい。けれど、もう何も聞きたくないと思っている自分もいて、大きく息を吸い込んだ。もやもやとしたものがお腹の奥から込み上げてくる。思ったまま、言葉が溢れて出てきてしまう。
「えむ達が大切にしてるものも、神代さんは大切にしてくれるって思ってましたっ…!人が大切にしてるものを、大事にできる人だってっ…、そんな、優しい人だって…」
「…………」
「…そう、思ってたのにっ……」
目頭が熱くなって、視界が滲んでいく。歪む視界では、神代さんの表情は分からない。ただ、握られた手に強く力を入れられて、少し痛かった。ズキズキとした痛みに顔を顰めると、ぼろぼろと頬を生暖かい水が落ちていく。
オレを見て、いつも優しく笑ってくれるから。
オレが困っていると、いつも助けてくれるから。
オレが言いたいこととか、すぐに察して、欲しい言葉をくれるから。
過保護な程心配してくれるし、甘やかしてくれる。
勘違いしてしまいそうな程、『特別扱い』してくれて、大切にしてくれるから。
だから、他のものも大切にしてくれるって、思ってしまっていたんだ。
“オレが大切にしてるもの”、全部。
「オレは、神代さんの隣に立ちたいっ、…だが、この店のバイトだってまだ続けるつもりだったんだ…、えむが大切にしているから、出来る限り、オレだって力になりたい」
「……それは…」
「神代さんは、オレが“役者”にさえなればなんでも良いと思っているんだろっ…?! オレの目標とか、この想いも、全部どうでもいいってっ…!」
「…っ……」
「その邪魔になるなら、人の大切な物も簡単に壊せてしまうような人なのだな…?!」
わっ、と次々に言葉が飛び出してしまう。
言葉にする度に、胸がズキズキと痛んだ。そんな風に思った事はない。神代さんが優しい人だって知っていたから。だと言うのに、“そうなんだ”と、自分の言葉に突き付けられているかのような気分になった。
神代さんは否定しない。困った様に眉を下げて、笑うだけだった。それが一層胸に刺さった。きゅ、と唇を引き結んで、掴まれた手を振り解く。簡単に離れた手の熱に、言いようの無い消失感を覚えた。
「…………すまないね…」
「っ、…」
「今日は、これで失礼するよ」
静かに落とされた声に、ビクッ、と肩が跳ねる。怒っている声ではなかった。いつもの、優しい神代さんの声。顔が上げられなくて、俯いたまま震える手で服の裾を握り締める。視界の隅に映った神代さんの足が、ゆっくりと後ろへ向いた。遠ざかる足音に、血の気が引いていく。
『またね』と、いつもなら言ってくれるのに。それが無いだけで、どうしようもなく怖くなった。なのに、声が出なくて、はく、と無駄に口を開いて閉じた。指先が冷たくなって、涙が地面の色を変えていく。
遅れて顔を上げた時には、もう、神代さんの姿は見えなかった。
「…っ……」
ぼろぼろと溢れる涙を拭う余裕すらなくて、ぐす、ぐす、と鼻を鳴らして神代さんが消えた道の先を見続ける。戻ってくるわけはないのに。責める様なことを沢山言った。きっと、神代さんは怒ったかもしれない。大人だから、怒った様子を見せなかっただけで、とても怒っていたのかもしれない。モヤモヤした気持ちが引いた代わりに、神代さんにもう会えないかもしれないという不安が募っていく。
崩れ落ちそうなのを必死に耐えていれば、えむがオレの方に駆け寄ってきた。
「司くん、…」
「……すまん、えむ…」
「追いかけなくていいの…?」
「……………だが…」
心配そうにするえむに、言い淀む。
追いかけて、何を言えばいいのか分からん。えむが泣いていたのは事実で、オレだって、この店を守りたい。神代さんも、何も言わなかった。追いかけて行っても、同じことを繰り返すだけなら、今は距離を置くべきなのだろう。自分に言い聞かせるように心の中でそう結論付けて、袖で目を擦った。
そんなオレ達の方へ、えむの兄達も近寄ってくる。
「……あー、…なんか、悪いな、説明不足だったかもしれねぇ」
「…ほぇ……?」
「実は、彼から申し出を貰ったのは、“移転”についてなんだ」
「…………い、てん…?」
気まづそうに声をかけてきた晶介さんに、二人で首を傾げる。慶介さんも小さく息を吐いてから、説明してくれた。
「ここは人通りが少ないから、もっと人が来るところで店を開かないか、と。勿論、費用は全て彼が払うともね」
「ついでに、従業員の確保もするし、運営費に関しても負担してくれるって言うから、かなり良い条件ではあったんだよ」
二人の言葉に、えむと顔を見合わせる。どうやらえむも知らなかった様で、目を瞬いていた。そんなオレ達の様子を見て、晶介さんがもう一度息を吐いた。つまり、神代さんと二人が話したのは、お店の“移転”についてで、もっと良い条件のところでお店をやらないかということだったのか?
首を傾げると、オレの隣から、えむが二人の方へ一歩近寄った。
「でもでも、お兄ちゃん、お店が無くなるかもって…」
「移転したら、ここには居られなくなるからな。だから悩んでたんだが、それを相談したら、一時休業にして従業員が育ったら再開するのはどうかと提案してくれたんだ。その間の維持費も負担してくれるって言うしな」
「え、…それじゃぁ、お店、なくならないの?!」
「そればかりか、補修工事も請け負ってくれたよ。所々修繕が必要な所もあったから、有難い話だ」
二人の話に、えむが一拍置いてからぶわりと涙を溢れさせた。ぺたんとその場に座り込んで泣き出す姿に、二人が慌てて近寄っていく。朝の不安そうに泣いていたえむを思い出して、ホッと息を吐いた。どうやら、店が閉店する訳ではなさそうだ。それはオレにとっても喜ばしい話で、安心出来た。
が、それと同時に、別れ際の神代さんの顔を思い出して胸の奥がチクチクと痛む。
(……神代さんに、酷い事を言ってしまった…)
自分が何を言ったのかを思い返してみるが、とても酷いことを沢山言ったと思う。神代さんは、こんなにもお店の事を考えてくれていた。二人の話す様子からみても、神代さんが沢山考えてくれていたのだと分かる。それなのに、ちゃんと話を聞かないで、一方的に責めるような事を言ってしまった。
最後の神代さんの言葉が、何度も脳内で再生される。いつもより、どこか寂しそうな声だった。
「………」
「実はな、移転先はあの遊園地なんだ」
「…それって、この前お兄ちゃんがチケットをくれた、もうすぐ閉園しちゃう遊園地…?」
えむの問いに、晶介さんが頷いた。
ついこの前、えむと二人で行った遊園地の事だろう。神代さんと寧々さんもいた、あの人の少ない遊園地。何故、そこなのだろうか。確か、もう閉園するはずじゃ…。えむと二人で目を丸くさせていると、慶介さんがふわりと笑った。
「なんでも、彼はそこでやりたい事があるらしい。だから、あの遊園地を復興させるために協力してほしいと、今回話をされたんだ」
「キャストとして引き入れたい奴がいるってことと、ウチが店を出せば話題になるからってな」
「話題…?」
「よく分からなかったが、もうすぐこの店が話題になるって言ってたな」
「……?」
えむが首を傾げるのを横目に、視線を下へ下げる。
初めて神代さんに連れて行って貰ったのが、あの遊園地だ。クリスマスの日に、神代さんと一緒に行った場所。オレにとっても、思い出のある場所。あの時一緒に見たショーは、とても素晴らしかった。神代さんは、あんな凄いショーをこれからも続ける為に、あの遊園地を復興させたいのだろうか。もしそうなら、オレも、傍でそれを見ていたい。
ぎゅ、と拳を握り締めて、くるりと後方へ足を向ける。
「えむ、すまん」
「ほぇ…?」
「用事が出来たから、先に帰らせてもらうっ…!」
「うん。類くんによろしくねー!」
「あぁ!」
ぶんぶんと手を振るえむに短く返して、オレは神代さんが向かった方へ駆け出した。
―――
(類side)
「………で、わたしの言いつけを守らずに勝手に外に出たわけ?」
「すまないね、寧々」
「あんた、これ以上問題が大きくなったらどうするつもりなのよ? まだまだ仕事だって沢山あるのにっ…!」
「一応バレないように変装はしたのだけれどね」
「そういう問題じゃないでしょ?!」
目の前で顔を顰めて僕を睨む寧々に、苦笑する。
急いで帰ってきたけれど、寧々の方が早かったようだ。家を勝手に出た僕を、彼女は仁王立ちして待ってくれていた。寧々の仕事が夜までかかると思って油断してしまった。どうやら、事務所でやるべき事だけ終わらせて、仕事は持ち帰ってきたらしい。ちら、と彼女の後ろを見ると、テーブルの上にノートパソコンや書類が広がっていた。これは、もしかしなくても僕も手伝わされるのだろうね。
「次勝手なことしたら、天馬くんに一ヶ月合わせないから」
「………心配しなくても、彼とは、もう会わないんじゃないかな」
ピ、と寧々が僕の方へ指を突き立てる。“天馬くん”という名前聞いて、胸の奥がツキ、と痛んだ。少し前に見た彼の泣き顔を思い出して、唇を引き結ぶ。無理やりへらりと笑って見せれば、寧々が不思議そうに首を傾げた。
「なに、天馬くんがどうかしたの…?」
「……………少し、ね…」
僕の様子が変だと察した寧々が、心配そうに顔を覗き込んでくる。そんな彼女に、僕はできる限り笑って返した。
寧々と計画してきた、“遊園地の復興”。きっかけは、去年のクリスマスに、天馬くんとデートした事だ。彼との思い出を消したくないと、そう思った事から始まった計画。幼い時から子役として芸能界で仕事をしてきて、資金も十分だった事と、僕が本当にやりたかったことを実現するのに適していた事から、寧々と計画をし始めた。かなり大掛かりではあるけれど、それなりに楽しくできている。それは、この計画に彼を巻き込むからだ。
(…いつか、僕の手で彼を輝かせてみたい、なんて、思ってしまったから……)
天馬くんが僕と一緒に舞台に立ちたいと願ってくれたから、僕もその期待に応えたかった。
彼を初めて見た時から、ずっと思っていたんだ。彼がステージに立つ姿が見たいと。あの文化祭の時に、もっと彼の輝く姿が見たいと思った。そんな彼が、僕と共に舞台に立ちたいと言ってくれた。それなら、僕は彼を、僕の手で輝かせてみたい。ずっと憧れていた、演出家として最初に輝かせるのは“天馬くん”がいい。
その為に、遊園地の復興の計画を立てた。
「類が落ち込むなんて、珍しいんだけど」
「……天馬くんを泣かせてしまってね…」
「まさか、無体を強いたんじゃ…」
「違うよ。計画の事で彼に正論を言われてしまったんだ」
じとりと僕を見る寧々に、僕は首をそっと横へ振った。
確かに、出会い頭に抱き締めてしまったけれど、恋人同士なのだからそれくらい許されるはずさ。人前だからと、恥ずかしくなった彼に叩かれた時は少し痛かったけれどね。優しい彼が手を上げるなんて珍しいし、その照れ隠しも可愛らしかった。
その辺りまでは、いつも通りだった。
「…それ、勘違いされたんじゃないの? 類は色々考えて……」
「それでも、僕が自分の欲の為に周りを巻き込んだ事に変わりは無いからね」
「……なら、やめるの? 今なら、まだ…」
「やめないよ。今更中止にする方が、彼らに迷惑がかかってしまうからね」
「………そう」
心配そうな顔をする寧々に笑って見せて、ソファーに座る。机上の書類を一枚手に取ると、延期になった撮影の詳細だった。それを何となく読んでいれば、寧々が隣に座る。ノートパソコンの画面をこちらへ向けて、手渡されたので、そのまま受け取った。
「とりあえず、あんたはその企画の内容を頭に入れといて。それが謹慎明けの最初の仕事だから」
「暫くは寧々に側に居てもらう必要があるね」
「あんたが前にテレビ放送であんな事言ったからでしょ。何のための指輪よ」
「ふふ、そうだったね。いっそ、天馬くんと婚約してましたって、報告してしまおうか」
「…馬鹿」
ぺち、と軽く寧々に背を叩かれた。多分、寧々なりに元気づけようとしての事だろうね。カタ、カタ、とゆっくり画面を見ながら企画を読み込んでいく。この企画は、結構前から打診のあった企画だ。僕としても、結構楽しみにしていた撮影だから、取り消しにならなくて良かった。
じ、と画面に集中していれば、不意にインターホンの音が室内に響いた。
「……お客さんかな…?」
「類はそこにいて。わたしが出るから」
「すまないね、頼むよ、寧々」
ソファーから立ち上がった寧々が、玄関の方へ向かっていく。それを目で見送ってから、またパソコンの画面に視線を戻した。あと少しで読み終わるそれに、急いで目を通す。と、玄関の戸が開く音がして、続いてパタパタと駆ける音がした。
寧々の足音と少し違うと気付いたのと同時に、リビングの扉がガチャ、と音を立てる。
「神代さんっ…!」
「…ぇ、……天馬くん…?」
勢い良く開いた扉から、天馬くんが入ってきた。息を切らした彼が、必死に呼吸を整えようとしているのを見て、思わずソファーを立ち上がる。落としかけたノートパソコンをそっとソファーに置いて、肩で息をする彼の方へ近寄った。額に汗が滲んでいるのが見えて、慌てて部屋の中を見回す。ハンカチなんて気の利いた物があるわけもなく、手近にあったティッシュをとりあえず取った。こんな事なら、普段からハンカチを持ち歩くようにしていれば良かったな。
軽く額の汗を拭ってあげると、彼がパッと顔を上げた。
「さっきは、すみませんでしたっ…!」
「…君が謝る必要なんてないよ」
「だが、勘違いして、酷い事を沢山言ってしまった…! 神代さんが、優しい人だって、知っていたのに…」
今にも泣き出しそうな彼の頭を撫でれば、しっとりと汗で湿っている。もしかして、あの後走って追いかけてくれたのだろうか。漸く落ち着いてきたのか、彼がゆっくりと息を吐く。そんな彼に、胸の奥がじわりと温かくなった気がした。電話で謝る方法だってあるのに、直接言いに来てくれるのが彼らしい。
涙の跡が残った目元が赤くなってしまっていて、罪悪感に顔を顰めた。
「気にしないでおくれ。君の言っていた事は正しいからね」
「そんな事ないっ…、オレは、…」
「君の言う通り、僕は自分勝手な人間なんだよ」
「っ…」
泣きそうな彼の言葉を遮って、ほんの少しいつもより低い声で返した。責めるつもりなんてない。本当に、彼の言うとおりだったのだから。
僕は、彼が舞台に立つ姿が見たいとずっと思っていた。彼に初めて会った時から、ずっと。その為なら、何をしたっていいと思っている。そんな、身勝手な人間だ。
「君が言うように、僕は君が舞台の上に立ってくれるなら、なんだってしてあげたいんだ」
「……、…」
「台本を一緒に考える事だって、練習に付き合う事だって、勉強を教えることだって、君のためになるなら、いくらでもね」
「…………」
きゅ、と下唇を噛んで、何かを堪える様な表情をする天馬くんの髪を、そっと撫でる。服の裾を強く掴んで俯いてしまった天馬くんに、出来るだけ優しい声で続けた。
「色々な所へ観劇に連れて行きたいし、僕の撮影現場の見学だってさせてあげたいと思ってるんだ。出来ることなら、キャストとして推薦だってしたい」
「そ、そこまでは……」
「それくらい、僕は君が役者になりたいと言ってくれた事が、嬉しかったんだ」
柔らかい彼の頬を指先で撫でる。目尻が赤くなってしまっていて、胸の奥がツキ、と痛んだ。これは、僕のせいだ。僕が、彼を泣かせてしまったせい。そっと赤くなった目尻を指先で撫でると、天馬くんが困った様に眉を下げた。そわそわと落ち着かない様子の天馬くんが愛らしくて、くす、と小さく笑ってしまう。
彼が役者になる為なら、何だってしてあげたい。何だってする。それは確かに、“僕が思ってきたこと”だ。
「確かに、僕は、君が僕の隣にさえいてくれるなら、それだけで良かったんだ」
「…っ……」
「君の夢の邪魔になるものは、要らないとさえ思っているよ」
「違うっ…! 神代さんは…」
否定しようとしてくれる彼の唇を、触れるだけのキスで塞いだ。丸くなる琥珀色の瞳に、僕が映る。彼の前でだけ見せる、“良い大人”の顔の僕が。
彼を傷付ける人なんか要らない。彼の夢の邪魔になる壁も、人も要らない。彼が彼のまま真っ直ぐ夢に向かって頑張る姿が見たい。僕の隣に、居てくれさえすればいい。その為になら、何だってする覚悟がある。
「違わないよ。僕は、いつだって君の事ばかり考えてしまっているんだ」
「……、…か、み…、しろ、さん…」
「他の誰でもない、“天馬司くん”の事ばかりをね」
「…ん、……」
もう一度そっと唇を重ねると、彼の手が僕の袖を縋るように掴んだ。
―――
(司side)
夢を見ている様だった。
視界いっぱいに映る神代さんの顔と、さらさらの前髪に息が止まる。音が一切消えたかのように静かで、目の前が真っ白なる。呆然とするオレに、ふわりと笑う神代さんは、どこか泣きそうな顔をしていた。その辛そうな顔に、胸がちく、と痛くなる。
「…っ、……はぁ…」
詰めた息を吐き出して、慌てて顔を俯ける。心臓が、急に鼓動し始めた。バクバクと煩くて、苦しい。そんなオレの頬を、神代さんの手がゆっくりと撫でた。熱くて、大きな掌の感触に、唇を引き結ぶ。足が震えている気がして、必死に力を入れる。そんなオレの耳元に、熱い息がかかった。びくっ、と肩を跳ねさせると、神代さんの髪が頬を擽る。
「今回のことだって、君の為ではなく、僕の為にしてしまった事だ」
神代さんの優しい声に、弱々しく首を左右へ振る。
自分の為だと言うが、神代さんは、えむのお兄さん達の“望み”も聞いていくれていた。そればかりか、沢山考えてくれていた。補修工事も、従業員の事も、場所の事も。神代さんの目的も確かにあったとは思うが、それでも、お店の為に色々考えてくれていた。二人も納得する結果になったのは、神代さんが考えてくれたからだ。
それなのに、話も聞かずに一方的に責めたてたオレを怒ることもせず、自分が悪いのだと優しく受け入れてくれている。愛想を尽かされてもおかしくないことを言ったオレを、許してくれている。じわりと目頭が熱くなり、視界が歪む。そんなオレの頭を、神代さんは優しく撫でてくれた。
「僕は、君の時間がもっと欲しかったんだ。そのために、あのお店の従業員を増やすことも考えた。ね、自分勝手でしょ?」
「………ちが、……、オレが、…あんな、酷い事っ…」
「あぁ、泣かないでおくれ。君に泣かれてしまうと、困ってしまうよ」
ぐす、と鼻を鳴らすオレの涙を、神代さんが指で拭ってくれる。ぼろぼろと情けなく溢れる涙が頬を伝い落ちて、服に染みていく。困ったように笑う神代さんが、ほんの少し屈んだ。目線を合わせて、何度も涙を拭ってくれる優しさに、一層涙が溢れた。胸がぎゅぅ、として、苦しい。
なんで、こんなに優しくしてくれるのだろう。オレを特別の様に扱ってくれるのだろう。そんな神代さんだから、甘えてしまう。酷い事を言ったのに、傷付けるようなことを言ったのに、全部許してくれる神代さんを、もっと好きになってしまう。
「君の言ったことは正しいよ。僕は、君さえ笑顔でいてくれれば、それで良いんだ」
頬を伝う涙に、そっとキスをされた。優しく、頬に唇を触れさせる神代さんの声が、甘く感じる。ぎゅ、と胸元を握ると、腰が引き寄せられた。額が触れ合って、困った様に眉を下げた神代さんが笑いかけてくれる。
オレの言ったことは、正しくなんかない。神代さんは、誰より優しい人だ。きゅ、と唇を引き結ぶと、目尻にそっと神代さんの指先が触れた。
「いつだって、君に笑っていてほしくて、必死なんだ」
ふに、と柔らかいものが唇を塞いだ。キスをされたのだと、今度はすぐに理解した。ぎゅ、と反射的に目を瞑って、息を詰める。肩に力が入って、体を固くした。
たった数秒が、何時間にも感じた。オレを泣き止ませようとしてくれているかのような、優しいキスだった、と思う。音のしない、触れるだけのキス。ゆっくり離されると、少し寂しく感じた。固まったまま動けないオレの頬を指先で撫でて、神代さんが目の前でふわりと笑う。それがあまりに綺麗で、胸の奥がきゅぅ、と音を鳴らした。
詰めていた息を吐くと、気が抜けたせいか、ガク、と体から力が抜けて床にへたり込んだ。
「だ、大丈夫かい、天馬くん…!」
「……は、はぃ…」
「急にしてしまってすまないね。今、なにか飲み物を持ってくるから、ソファーで休んでいておくれ」
「い、いえ、…」
慌ててオレの体を支えてくれた神代さんから顔を逸らす。今にも顔から火が出そうな程、熱い。ゆっくりと今起こっていたことを思い返して、何をしていたか脳が理解し始めた。否、理解はしていたのだが、我に返って事の重大さを思い知ったというべきか…。
(………あ、当たり前のように、神代さんとキスしたんだがっ…?!)
それも一度ではなく三度も。頬にだって口付けられた。その事実に、ぶわわっ、と一層顔が熱くなる。くらくらとしそうな程熱い顔を腕で覆うと、心配そうに神代さんから顔を覗き込まれる。神代さんが優しいのは知っているが、今は見ないでほしい。というか、何故こんなにも神代さんは平然としていられるんだ…?!
顔を隠すオレの腕を、神代さんの大きな手が掴んだ。びくっ、と肩を跳ねさせるオレの腕を、優しく退かされる。晒されたオレの赤い顔を見て、何故か神代さんは、安心したような笑みを浮かべた。
「君の涙が止まったのなら、良かった」
「………、…泣いていたら、…誰にでも、するんですか…」
「…何をだい?」
「……………き、…きす…とか…」
両手は神代さんに掴まれてしまって、顔を隠すことがもう出来ない。本当に心配してくれていたらしい神代さんに、胸が煩い程跳ね回っていた。ちら、と神代さんを見ると、きょとんとした顔をしている。それがなんだか悔しくて、唇を引き結んだ。
オレは、神代さんが好きだ。だから、キス一つでもこんなにドキドキしてしまうのに。神代さんはなんとも思ってないのだろうか? オレにこんなにもあっさりできると言うことは、他の人にもしてしまうのだろうか? オレの事ばかり考えてくれていると言ったのは、弟子として、なのだろうか。
もごもごと、気になってしまった事を口にしたオレに、神代さんは面食らった様な顔をした。
「君以外にはしないよ」
「…は……、ぇ…」
「君も、僕以外とはしてはいけないよ」
「……んっ…」
もう一度触れるだけのキスをされた。あまりにも手馴れた様子でキスをされるから、言葉が出なくなってしまう。呆然と神代さんを見ていれば、目の前で、嬉しそうに表情を綻ばせた。きゅぅ、と胸が音を鳴らして苦しくなる。神代さんの態度が、まるで恋人に向けるようなもので、心臓が破裂してしまいそうな程煩い。
ふに、と唇を親指の腹でゆっくり撫でられ、思わず肩が跳ね上がる。
「返事は?」
「…、…ひぅ、……」
鼻先が触れ合うほど近い距離で、神代さんの低い声が落とされる。大人の男性らしいかっこよくて、どこか甘い声音に、背がぞくりと震えた。
ぎゅ、と目を強く瞑って、とにかく頷こうとしたオレの肩を、ぽん、と叩かれる。
「…いい加減にしてくれないと、仕事が残ってるんだけど?」
「わぁあああっ…?!」
神代さんとは違う少し高い声に、飛び上がりそうなほど驚いて大きな声が出た。思わず目の前にいた神代さんに抱きつくと、後ろで寧々さんが深く溜息を吐く。バク、バク、バク、バク、と心臓が太鼓のような大きな音を立てた。あまりに驚きすぎて、じわりと涙が滲む。
そういえば、玄関の戸を開けてくれたのは寧々さんだった。エントランスの自動ドアは、たまたま他の人が出たタイミングで入れたが、さすがにこの部屋の鍵は持っていない。だからチャイムを鳴らした。そしたら寧々さんが開けてくれて、中に入れてくれたんだ。その後、謝らねばとそればかりに気を取られてしまって、すっかり寧々さんがいるのを忘れてしまって…。
(…つ、つまり、今のを、全部見られていたということかっ…?!)
サァア、と顔から血の気が引いていくのが分かる。
神代さんと寧々さんは幼馴染だと聞いた。だが、この前休日に二人で遊園地にいたり、指輪の相手がマネージャーである寧々さんではと噂もされていた。神代さんの婚約者が誰かはっきり聞いたわけではないが、もしかしたら寧々さんなのかもしれない。もしそうだとしたら、オレと神代さんの今のやり取りは、完全な浮気現場というものになるのではないのだろうか。
じ、とオレを見る寧々さんの視線に気付いて、視線を逸らす。と、オレが驚いた拍子に神代さんに抱き着いてしまっていた事に気付いた。慌ててパッ、と体を離すと、寧々さんが小さく息を吐く。
「別に、今更二人がいちゃついても気にしないわよ」
「い、いちゃっ、……?!」
「もう少し気を遣ってくれても良かったのだけどね、寧々」
「それは別。わたしはあんたのせいで仕事を持ち帰る羽目になったんだから、やるなら別室に移動して」
じとりと神代さんを見る寧々さんに、呆然としてしまう。何故そんなにも平然としているのだろうか。まさか、神代さんの婚約者は、寧々さんではなかったと言うことか…? オレと神代さんがキスをしていても、驚かないのは何故だ? 分からないことだらけで、頭の中に沢山の疑問が浮かぶ。
必死に状況を理解しようとするオレの隣で、神代さんがにこ、と笑った。
「それなら、お言葉に甘えて移動しようか、天馬くん」
「んぇっ…?!」
「言っとくけど、そんなに時間ないから手短にね」
「だ、そうだよ」
「いやいやいや…?! 全く分からんっ!」
手が掴まれて、思わず声が裏返る。とても嬉しそうな顔をする神代さんの顔が眩しくて、オレは慌てて立ち上がった。掴まれた手は勢いに任せて振り解き、距離を取る。目を瞬く神代さんに、はく、はく、と何度か声の出ない口を開閉させて、ぐっと大きく息を吸った。吸いすぎて、少し肺が痛い。
「お、お邪魔しましたっ!!!」
「え、天馬くん…?!」
バンッ、と大きな音を立ててリビングの扉を開ける。そのまま玄関まで駆けて、扉の鍵をガチャガチャともたつきながら解錠した。靴を引っ掛けるように履いて、エレベーターまで一目散に逃げるよう走った。カチカチカチカチと何度もボタンを押して、開いた扉の中に滑り込むように入る。あぁあああああああ、と叫び出したい気持ちを必死で心の中に抑え込んだ。正直、家までどう帰ったのかも思い出せない。頭の中は神代さんの事でいっぱいだった。
乱暴に扉を開けて、バタンッ、と玄関の扉を閉めると、廊下にいた母さんに驚かれた。ぜぇ、ぜぇ、と肩で息をするオレを見て、心配そうに駆け寄ってくる母さんの声で、ハッ、と我に返る。
「ど、どうかしたの?大丈夫?」
「だ、大丈夫だっ…!ただいま、母さん…」
「本当に大丈夫なの?」
「あぁ、本当に大丈夫だ」
「…そう?」
まだ少し心配そうにする母さんに、無理やり笑って返す。
前にストーカーに追いかけられた時、両親に心配をかけてしまったからな。その事があったから、今全力で走って帰ってきたオレを心配してくれたのだろう。だが、今回はストーカーに追われたわけでもない。オレの気持ちの問題というやつだ。母さんの心配そうな顔で、気持ちが自然と落ち着いてきた。
踵を踏んだままになっていた靴を脱いで、家に上がる。
「そういえば、母さんは何故ここにいたんだ?」
「それが、咲希が部屋から出てこないのよ」
「咲希が?」
「少しだけ放っておいてほしいって言われて…」
咲希の部屋の前で心配そうにする母さんにつられて、オレも咲希の部屋へ目を向ける。咲希が部屋に篭もるなんて珍しいな。何かあったのだろうか?
声をかけようと思ったが、『放っておいてほしい』と言っていたなら、オレが声をかけるのはやめた方がいいかもしれない。咲希はもう小さな子どもではない。一人で考えたいこともあるのかもしれないからな。もし、明日も出てこないようなら、声をかけてみよう。
「とりあえず、夕飯の準備をするわね」
「あぁ、咲希の代わりに、今日はオレが手伝おう」
「ありがとう、司」
きっと母さんも同じ考えなのだろう、心配そうな顔で笑って、オレの方を見た。ちら、と咲希の部屋の扉を見てから、オレは母さんに向かって胸を張る。くすくすと笑う母さんと一緒に、リビングの方へ足を向けた。夕飯が出来たら、もう一度声をかけてみよう、と母さんと話をしながら、リビングに踏み込んだ。
ソファーにカーディガンを脱いで置くと、不意に『神代類』という名前が聞こえてくる。思わずビクッ、と体を跳ねさせると、付けられたままのテレビ画面が目に飛び込んできた。どうやら、ニュース番組で神代さんが取り上げられていたらしい。
先程までの事を思い出して、過剰に反応してしまった自分が恥ずかしい。かぁあ、と熱くなる頬を手で仰ぎながら、深く息を吐く。そうして、ゆっくり視線をそちらに向けると、画面に出ているテロップを見て目を見開いた。
「………あい、びき…?」
それは、『俳優の神代類が若手アイドルと逢い引きしていた』というものだった。