メイテイ!×× 7(類side)
「天馬くんのご飯が食べたい…」
「また言ってる。食事の度に言うのやめてよね」
「もう限界だよ、天馬くんが足りなくて集中出来そうにない」
「面倒くさ」
スマホを握り締めて椅子の背もたれに ぐったりともたれ掛かる。撮影が始まって五日が経った。分かってはいたことだけれど、天馬くんの方から連絡が来ることも無く、僕から送ったメッセージへの返事も呆気ない。僕が居なくとも問題なく過ごせている証拠だ。大人である僕が情けなく彼の事ばかり考えている、なんて知られたくなくて踏み込んだ連絡も出来ない。
出来ることなら、今すぐ帰って抱き締めてしまいたい。せめて電話で声を聞くだけでも…。
(……ただ、彼がまだあの日の事で ぎこちないままだったらと思うと、怖くて声を聞きづらいかな…)
彼に避けられる事が、一番辛い。手を出して泣かせてしまったのは僕の方だから、避けられても仕方がないのだけれど。撮影さえ無ければ、正面から彼に頭を下げて挽回の好機を願い出ていたかもしれない。優しい天馬くんの事だから、少しぎこちない笑顔で許してしまうのだろうね。それに甘えてしまいたいと思う自分もいて、嫌になる。
はぁ、と何度目かの溜息が零れて、仕方なく割り箸を割った。朝食はバイキング形式なので、野菜を避けて食べることが出来る。それは有難いのだけど、天馬くんの作るご飯に慣れてしまった舌が、どこか物足りなく感じてしまう。
(…天馬くんのスクランブルエッグは、出来たてで温かくて、それでもう少し甘い味にケチャップをかけてくれるから、丁度いい塩梅になるんだよね。半熟で中がとろとろしていて、口の中に卵の味が広がるのも好きだな)
バイキング形式だから少し冷めてしまったのが勿体無い。天馬くんは、出来たてが美味しいから、と態々僕の支度が終わる頃に合わせて作ってくれて、それがまたとても嬉しかったな。ケチャップで酸味が足されるからと、いつもより少し甘めに作るのも好きだ。そのままでも美味しいから、二度楽しめる。
ほんの少し隅に乗せられたきゅうりを食べると、とても嬉しそうに笑うから、その顔を見る為につい頑張ろうって気にさせられる。あの表情を見ると、口の中の苦味も気にならなくなる気がして、頑張れた。
もくもくとお皿に取った朝食を食べながらも、頭の中は天馬くんの事でいっぱいで、また会いたくなってしまう。会いに行って、驚く彼を強く抱き締めたい。『神代さん』と僕を呼ぶ彼の声が聞きたい。撮影での話をして、瞳をきらきらさせて話を聞いてくれる天馬くんをずっと見ていたい。彼が今練習しているショーの台本を一緒に見て、アドバイスをしながら二人きりで演じたい。ころころと変わる彼の表情とか、元気な明るい声が鮮明に浮かんで、尚のこと胸がギュ、と苦しくなる。
はぁ、ともう一度溜息が零れてしまい、目の前の席に座る寧々に じとりと睨まれた。
「いい加減切り替えなさいよ。別れたいって言われたわけじゃないんでしょ?」
「……それは、そうだけど…」
「司が類の事を特別に見てるのは分かっているんだから、うじうじしても仕方ないでしょ」
「…………そう、だね…」
バターロールパンをちぎって食べる寧々の言葉に、小さくそう返す。
天馬くんが、僕を好きだと言ってくれた事を疑ってはいない。振られる心配もしていない、と思う。彼の事だから、笑って許してくれるのでは無いか、とそう思ってしまう。きっと、大丈夫ですよって笑って許してくれる。驚いただけです、って笑って、神代さんに合わせられるよう頑張ります、と宣言してくれる気がする。少しづつ慣れていきたい、と頑張ろうとしてくれるのだろうね。それが申し訳ない反面、とても嬉しい。僕の為に、と少しづつ合わせようとしてくれる所が、ただ愛おしい。
(…怖い思いをさせてしまったから、帰ってからも暫く目を合わせてもらえないかもしれないけど…)
それはそれで嫌だ。むしろ、その方が嫌かもしれない。別れ話は無いと思えるから、そこは安心しているけれど、彼に暫く避けられるのが辛い。自業自得と言われればそうかもしれないのだけど、恋人と二人きりになって、そういう雰囲気にならない方が問題だと思う。少なくとも、僕としてはもう少し先に進みたいのが本音だ。
かと言って、彼に無理をさせたいわけでもない。
「……天馬くんと顔が合わせられない…」
「うわ、本当に面倒くさいんだけど…」
「撮影期間もあと少しで終わるのに、彼に帰って来ない方が良かった、なんて思われたくない…」
「はぁ、そこまで不安なら、いい加減電話でもして確認しなさいよ」
じとっとした目をする寧々に、う゛、と言葉に詰まってしまう。
それが出来ないから悩んでいるのだけどね。天馬くんに会いたくて仕方が無いのに、顔を合わせるのが怖くて会いたくない。彼の声が聞きたくて堪らないのに、少しでも戸惑う様な声を聞いてしまったら立ち直れなくなりそうで聞けない。結局、この不安をどうにかする方法が見つからない。大丈夫だと分かってはいるのだけど、どうして不安に感じてしまう。きっと彼に直接会ってしまえば、全て杞憂だったと思えるのだろうけれど、直接会うまでが難関なんだ。
寧々が面倒くさいと呆れるのも、仕方ないかもしれない。
「類がかけないなら、わたしがかけるけど」
「いや、それは……」
「一言『好きです』って言ってもらえばいいでしょ。そうすれば、類もあと数日離れてても気持ちは持ち直すだろうし」
「……僕の事をよく理解してくれてるようで…」
さらりとそう言った寧々に、なんだかいたたまれなくなってくる。
確かに、一言『好きです』と彼から貰えれば、この不安も払拭出来るかもしれない。その言葉を貰えなかった時が困るのだけど…。無理矢理言わせたいわけではないから、電話をかけた所で聞けるかは分からないけれど…。
(天馬くんのことだから、僕が『好きだよ』と一言言えば、『オレも』と返してくれそうだけど…)
頬を赤らめて顔を俯ける天馬くんが容易に想像出来てしまって、ほんの少し気持ちが楽になる。
嫌われてはいない。ただ、先を急ぎ過ぎて彼を困らせてしまっただけだ。不慣れな天馬くんの為に、ゆっくり進むと決めていたのに。
最後の一口を口に放ると、飲み物を飲みきった寧々がスマホを取り出した。たぷ、たぷ、と画面操作する寧々を見ながら、そわそわと気持ちが落ち着かなくなっていく。声が聞けるかもしれない という期待と、断られてしまったら という不安が交互に襲ってくる。出掛ける時に見た、ぎこちない笑顔の天馬くんが脳裏に浮かんで、喉が大きく音を鳴らした。
自分でかけようとしていたら、きっとまた手が止まって出来なくなるのだろう。
(…こういう時、頼りになる幼馴染がマネージャーで本当に良かったと思うよ)
苦笑して、緊張を水と一緒に飲み込んだ。空になったグラスをテーブルに置くと、寧々がスマホを耳に当てて、小さく息を吐く。「出ない」と、小さくそう呟いた寧々は、スマホのコール画面を消した。
「朝だから忙しいんじゃないの?」
「あ、そうだね。確かに、大学の一限がある日は、もう家を出ているし…」
「それ、先に言ってよね」
じとっとした目で僕を見る寧々が、あからさまな溜息を吐く。それに謝りながら、僕もスマホを手に取った。通知は何も来ていない。彼の方から連絡は来ないと分かっていても確認してしまうのは、心のどこかで期待をしているからだ。
スマホをポケットにしまって小さく息を吐くと、寧々が「あ」と声を零した。顔を上げると、寧々はスマホの画面をじっと見つめている。
「天馬くんから連絡が来たのかい?」
「いや、そうじゃないんだけど…」
「それなら、仕事の連絡かい?」
「……違う。なんか、SNSでちょっと騒ぎになってるっていうか…」
苦い顔をする寧々が、僕から目を逸らす。
SNSで騒ぎというと、何か人の目を集める出来事があったのだろうか。僕に関係あることではないと思うけど、寧々のこの反応だと、知り合いではあるのかな。
今立て直しをしている遊園地は、何か問題が起こった、なんて報告もないから大丈夫だろう。それなら、僕の共演者か、同じ事務所の人か…。全く関係ない人の事も有り得る。
言い淀む寧々を不思議に思いながら首を傾げると、寧々がスマホの画面を僕に見せてくれた。見出しが『今話題の高校生アーティストが熱烈告白…?!』と太字で記載されている。その下に投稿された写真はどこかのカフェの内装で、映っていた人物に目を丸くしてしまった。
「…………天馬、くん…?」
壁に背をついて男と至近距離で話をする天馬くんの姿が、はっきりと映っていた。
―――
(司side)
困った事が、起こった。
一人でリビングのソファーに深く腰を下ろしてクッションを抱きしめながら、放心すること十二分。全然理解が追いつかない。
机上に置かれた本は、あるページで開いたまま裏返しに置かれている。薄桃色の表紙が ちら、と視界に入り、慌ててクッションに顔を埋めた。じわぁ、と頬が熱くなって、小さな唸り声をあげてしまう。
「絶対に、無理だ……」
ぷしゅぅ、と頭から湯気が出てしまいそうなほど熱くなり、そのままソファーに倒れ込む。脳内に浮かぶあの日の神代さんの顔に、一層情けない声が口を吐いた。
彰人に相談をしたのが、四日前の事だ。その翌日、彰人に呼び出されてもう一度あのカフェに行った。練習前ということで当然冬弥も一緒だったのだが、会って早々に彰人から紙袋を渡された。中身は家に帰ってから見ろ、と言うことですぐに帰って確認をしたのだが、袋から出して思わず飛び退いたのは記憶に新しい。
学校とバイトを言い訳に避けてきたが、休みとなれば逃げる理由も思いつかず、三日前から避けていた本をとうとう手に取った。表紙にアップで写る際どい衣装の女性は、顔よりも胸元を主体で撮られているようで、目のやり場にとても困る。恐る恐る中をぱらぱらと覗いて、あまりの内容に先程からずっとこの状態だ。
「…彰人のやつ、こんな物をどこから用意したのか……」
破廉恥だ。高校生の見るモノでは無いだろう。所謂大人向けの本というやつだ。布を殆ど纏っていない女性の写真が何頁にも映っている。そればかりか、男女で体をくっつけているようなものまであり、これ以上中を見るのは憚られる。
途中から漫画の様なものも入っていたが、その内容もあまり良くないものなのではないだろうか。何故彰人がこんなものを持っていて、尚且つオレに渡してきたのか…。
「…………本当に、こんな事を神代さんが、オレと…したい、なんて、思っているのだろうか……?」
彰人にカフェで言われた言葉を思い出してしまい、小さく息を吐いた。
確かに、神代さんはオレより十も歳上で大人だ。いつだって余裕があり、抱き締められたりキスだって沢山される。この家に一緒に住むようになって、“恋人の時間”と称してとても近い距離で接せられることもあった。名前で呼んでほしいと言われたり、腰、とかに手が触れたり。よくよく考えれば、彰人の言う通り、“そのつもり”だったのかもしれん。
あの夜だって、今思えば確かにそう捉えられでもおかしくない発言をした気もする。触れたい、とか…。
「だからといって、神代さんに『はい、どうぞ』なんて言えるはずもないっ…」
せっかく相談に乗ってくれて、更に教材まで貸してくれた彰人には悪いが、すぐに心の準備が整うはずもない。本を見るだけでこんなにも落ち着けなくなるのだ。神代さんを前にして、平静でいられるなんて思えない。ならば、繰り返しこの本を見て慣れるしかない。だが、こうして手が止まってしまうんだ。一体どれ程時間がかかるのことか。
悶々としたままを机上の本をちら、と見て、すぐに顔を逸らす。そもそも女性でないオレと神代さんでどうやって行うのか皆目見当もつかん。
むぅ、と顔を顰めもう一度本に手をのばそうとした所で、突然玄関から鍵の開く音が聞こえてきた。ビクッ、と体が大きく跳ね上がり、慌てて本を袋へ押し込んだ。
「な、…えっ…?!」
玄関の扉が開く音、靴を脱ぐ音、そして、この部屋へ真っ直ぐ近付いてくる足音に、ソファーを立ち上がる。手に持った袋を隠す場所が思い付かず、咄嗟に壁と棚の隙間に押し込んだ。ガチャ、とリビングの扉が開いて、反射的に気を付けの姿勢になる。
「……ただいま、天馬くん」
「…ぉ、おかえりなさい、…神代さん…」
ド、ド、ド、ド、ド、と心臓がありえない程大きく鼓動している。まるで祭りの大太鼓の様だ。扉から入ってきたのは、予想通り神代さんだった。にこりと微笑まれて、オレも必死に笑みを貼り付ける。顔が熱いのは気の所為だ。恐る恐る本を隠した場所からゆっくり離れ、指を絡めたり握ったりと忙しなく両手を弄った。神代さんを見るのが何となく恥ずかしくて、キョロキョロと辺りを見回してしまう。
そんなオレの方へ、神代さんがそっと近付いてきた。
「は、早かったんですね……」
「……無理を言って、撮影を早めてもらったんだ」
「そう、ですか……」
ほんの少し体が後ろへ下がる。あの夜の様に怖いというわけではないはずだが、無意識に体が逃げようとしてしまう。脳裏に先程の本の内容が浮かんで、一層心臓が煩く鳴り出した。どんどん熱を帯びていく顔を必死に俯かせて隠し、胸元を手で押さえる。心音が大き過ぎて、神代さんに聞こえているのではないだろうか。
勉強の目的とはいえ、あの様な破廉恥な本を読んでいたと神代さんにバレるのは避けたいっ…!
「ぇ、と、疲れていますよね! 今お茶をいれるので、座っていてくださいっ…!」
「今はいいよ。それよりも、何故逃げるんだい?」
「…に、げている、わけでは……」
「なら、顔を見せてはくれないかい?」
視界に、神代さんの足が映る。大きな手が、オレの方へ差し出されるのが見えて、思わず息を飲んだ。
熱くなった頬に冷たい手が触れて、ビクッ、と肩が跳ねる。く、と顔を上へ向かされ、一層恥ずかしくなった。一週間ぶりに神代さんに会ったというのに、こんな顔を見せる事になるなんて情けない。
神代さんの両手で頬を包むように触れられ、熱がじんわりと混ざっていく。心臓の音が更に早く大きく鳴り出し、きゅ、と唇を引き結んだ。神代さんと目を合わせるのが何となく恥ずかしくて目を強く瞑ったままでいれば、唇に吐息がかかる。
「んっ…」
そのまま優しく唇が塞がれ、ぎゅ、と強く手で胸元を握り締めた。柔らかい唇が一度離れ、もう一度重ねられる。ほんの少し足が後退り、とん、と壁にぶつかった。そのまま神代さんがオレを追い込むように一歩踏み込んでくる。震える足の間に、神代さんの足が入ってきて、頬を包む手の指先が、そっと耳の縁に触れた。もう一度角度を変えて唇を押し付けるようにキスをされ、息苦しさに眉を寄せる。
神代さんの腕を震える手で掴むと、ゆっくり唇が離された。
「っ、は……はぁ、…はっ、…んっ…」
息継ぎをしようと口を開いて息を吸い込むと、神代さんがもう一度キスをしてくる。少し苦しくて、神代さんの腕を強く掴んだ。耳の縁を指先でなぞられ、擽ったさに肩がびくっ、と跳ねる。酸欠で、くらくらしてきた。じわりと目頭が熱くなり、涙が滲んでいく。足が震えて、体がだんだんと神代さんの方へもたれかかっていった。そんなオレの背に腕が回され、腰が引き寄せられる。
漸くキスから解放されたが、酸欠でくらくらして一人で立つのもままならなくなっていた。崩れるオレの体を抱えた神代さんが、そっとソファーの方へオレを運んでくれる。
「……か、みしろ、さん…?」
「…」
「っ、…ゃ、…、ま、待ってくださ……んんっ……」
ソファーへそっと下ろされた事にホッとしたが、何故か神代さんは黙ったままだった。不思議に思って名前を呼ぶと、ソファーの背もたれへ手をついた神代さんがもう一度オレにキスをする。ギッ、とソファーを軋ませて、神代さんがソファーに膝を乗り上げる。押さえ込むように唇を強く押し当てられ、ぞくっ、と背が震えた。反対の手がシャツの裾から滑り込み、直にオレの肌に触れる。そっと腰を撫でられて、慌てて両手で神代さんの胸元を強く押した。酸欠のせいか全然力が入らず、腕が震えてしまう。
「っは……、はぁ、…んっ…」
解放されれば、またすぐにキスで塞がれる。
いつものふわふわとするようなものじゃない。そっと触れる様な優しいのではなく、なんとなく怒っているかのような、そんな感じがする。あの夜のとも、違う。強く唇を押し付ける様にされるキスに、胸の奥がちくちくと痛む気がした。
ずる、と力の抜けていく体がソファーの上を滑り、横へ倒れる。息を止めていたせいで苦しくなった肺が、一気に空気を吸い込む。心臓が、耳から飛び出してしまいそうなほど煩い。涙が薄ら滲む視界に、天井と神代さんが映る。不機嫌そうな、どこか泣きそうなその顔に、一瞬時が止まったかのような感覚を覚えた。
神代さんの白い手が、すり、と頬を撫でるから、慌てて大きく息を吸う。唇を引き結んで呼吸を止めると、唇がもう一度重ねられた。
「…っ、……」
ぬるりとした舌が、唇をゆっくりと撫でていく。ぞくりと背が震えて、神代さんの腕を掴んだ。覆い被さるようにオレの上に重なる神代さんの指が、髪を梳くように撫でてくる。擽ったくて、変な感じだ。お腹の上を撫でる掌の熱も、そこを通り抜ける空気の冷たさも、全て夢の様で現実味がない。引き結ぶ唇の割れ目に、舌先が押し入ってくる。脳裏に、あの夜の神代さんが浮かんで、ぎゅ、と引き結ぶ唇に力を入れた。
状況が、全く分からん。分からんが、このまま流されるのは、違う気がする。ぐっ、と神代さんの腕を強く掴むと、お腹に触れていた手が更に上へと撫で上がった。その擽ったさに、びくっ、と体が跳ね、悲鳴に似た声が口を吐く。その隙に神代さんが舌を差し込んできて、ぬるりとしたそれがオレのに絡む。
くちゅ、と唾液の混ざる音が聞こえて、顔が一気に熱くなる。
「んぅ、……んっ、…んん…」
舌に熱くて柔らかいものが絡まる感覚に、腰が痺れるようだ。腕に上手く力が入らず、神代さんを押し返す事も出来ない。触れる手は優しいのに、どこかいつもと違う雰囲気の神代さんが、怖い。神代さんがずっと黙っているのも、怖い。全く知らない人の様で、怖くなる。
だんだんと頭がくらくらし始めて、腕を掴む手から力が抜けていく。ソファーの上へ手が落ちて、視界がじわぁと滲んだ。ゆっくりと唇が離れて、空気が一気に肺へ流れ込んでくる。軽く咳き込みながら呼吸をするオレの頬を撫でて、神代さんがそっと体を起こした。
「……ごめんね、泣かせたいわけでは、ないのだけど…」
「…………」
そう小さく言った神代さんは、いつもの神代さんだった。
優しい声にホッとしてしまって、ぼろぼろと涙が溢れ落ちていく。震える手で胸元を握り、そっと首を横へ振った。
(彰人の言う通り、我慢をさせてしまっていたのかもしれん…)
神代さんが優しいのは知っている。そんな神代さんが、こんな風にオレに触れるということは、そういう事なのだろう。オレより十も歳上なのだ。大人の付き合い方もある。オレに合わせてくれる神代さんに甘えて、我慢をさせていたのだろう。彰人が呆れるのも分かる気がする。
優しく目元を指先で拭ってくれる神代さんに、胸の奥がぎゅ、と苦しくなった。まだまだ勉強不足ではあるが、神代さんにばかり辛い思いはさせたくない。
ソファーから立ち上がる神代さんに、慌ててオレも体を起こした。引き止めようと手を伸ばしかけたところで、神代さんが「天馬くん」とオレの名を呼ぶ。
「別れようか」
「………ぇ…」
「僕よりも、君に合う子の方がいい気がするんだ」
神代さんの静かな声に、体が石になったかのように固まった。何を言われたのかよく分からなくて、必死に頭の中で神代さんの言葉を繰り返す。『別れよう』とは、どういう意味だ。『君に合う子』とは、誰の話だ。神代さんの言いたい事が、よく分からん。
これは、『嫌われた』という事なのだろうか。
「……そ、れは、…」
聞きかけて、言葉を飲み込んだ。
オレが、神代さんに合わせられないから、駄目だったのだろうか。そんな事を、聞けるはずがない。『何故』という言葉が頭の中いっぱいに浮かんで、上手くまとまらない。ここで頷くのが正しいのか、縋るのが正しいのかも、判断がつかなかった。
黙ったまま俯くオレに、神代さんがふわりと笑った気がする。
「…まだ数日仕事が立て込んでいるから、事務所の方で寝泊まりする事になると思うんだ。その間はここに帰ってこないから、考えてみてくれるかい?」
「………」
「……寧々が待っているから、もう行かないと。仕事が落ち着いたら、連絡をするよ」
「…………」
神代さんがオレに話しかけているのは分かる。分かるのに、意味が全く理解出来ない。返事も、出来なかった。口を開くことは出来るのに、声が、出ない。指先が震えて、冷たくなっていく。体の感覚まで分からなくなったかのように感じた。目の前が真っ白に塗り潰されたような、真っ黒な沼の中心にいるかのような、変な感覚。
黙ったまま動けないオレに構わず、神代さんが玄関の方へ向かって歩き出す。それを、まるで映画でも見ているかのようにぼんやりと見送った。
扉が閉まる直前に、「行ってきます」と言われたが、「行ってらっしゃい」とは、言えなかった。