七海の恋話を聞く真依の話 幼い頃の七海にとって、五条はいけ好かない先輩だった。まだあの頃は恋に淡い憧れがあったし、異性にだけ向けるものだという固定概念があった。そのせいで、恋を認められるようになるまで、途方もない時間が必要だった。
どうして五条を好きになったのだろう。もっと簡単で、もっと手頃で、もっと楽な恋が数えきれないほどたくさん落ちている。五条を好きになってしまったせいで、安寧だったり、平穏だったり。そういう優しさに満ちたものばかりを捨ててきた。
後悔を幾度も繰り返した。けれど、そのたびに。どうしようもなく五条を愛しているのだと思い知る。あまりにも後悔を繰り返したせいで、もうとっくの昔に、これからも五条のことを愛し続けるのだろうと諦めた。諦めることを諦めた。
「ねぇ、七海さん。どうしてこの子を産もうと思ったの?」
「せっかく宿った生命を、私の身勝手でなかったことになんてできなかっただけですよ」
「それって無責任じゃない。だってこの世界は地獄なのに。幸せになれない子を産むだなんて、そんな無責任なことはないわ」
「……それでも。あの人が紡いだ生命を見捨てるなんてできませんでした」
「愛ね。いいな。御三家のくせに愛されるなんて。そんな夢みたいなこと、現実にあるのね」
「夢ですか」
「夢よ。だって私、あの家で幸せになれた人を見たことがないもの。
……ねぇ、七海さん。恋は楽しかった? 誰かを愛したら幸せになれる?」
ぼんやりとした顔で雨に濡れる庭を見つめる真衣の美しい横顔を見る。
はっとするほど目を惹く綺麗な少女だ。鮮やかな色のきれいな服を着て微笑むだけで、きっと振り返って恋に落ちる少年だっているだろうに。けれど、夜を溶かしたような瞳に滲むのは、諦観と絶望と嫌悪だ。守るべき子どもが浮かべる顔ではない。こんな少女が愛にも恋にも希望も夢も抱けないだなんて。いったいどれほど劣悪な環境で生き抜いてきたのだろう。
「ねぇ、七海さんの恋の話が聞きたい」
「面白くないですよ。こんなオジサンの恋だなんて」
「面白くなくていいの。でも、御三家に産まれても愛されるんだって聞かせて」
「……あの人と出逢ったのは高専でしたけど、初対面の印象はよくなかったですよ。今よりずっと尖った人でしたし、私も若かったので」
「ふぅん。それじゃ、いつ好きになったの?」
「そうですね……」
望郷の念を募らせる雨音に耳を傾けながら、七海の意識は過去に戻っていった。
「五条さん、三年の授業で本当に力のあるお守りの作り方を教えてもらったんですよね。それ、私にもできますか?」
「術式の有無に左右されないやつだよな。それならまぁ、いつかできるようになるんじゃね?
あんなん誰にだってできるだろ」
「やり方、教えてください」
物に力を込めることで何かを守れるようになるらしい。そんなことを噂で聞いて、わざわざ七海は三年生の教室を訪れてまで、五条に教えを乞いに行った。
なぜ五条を選んだのか、当時の七海はわからなかった。夏油の方がよほど分かりやすく、理論的に教えてくれるだろう。けれど、無意識の内側で、五条がいいと思ったのだけを覚えている。
今まで、特別親しいわけではなかった。二人きりになったこともない。そんな七海を、けれど五条は振り払うことはなかった。
七海の目の前で五条が小さく笑った。サングラスの隙間から見えた、僅かに見開かれた瞳が蒼穹を溶かした色をしていることに、はじめて気がづいた。それほど七海は五条のことを見ていなかった。
思い返せば、五条と向き合うのはそれが初めてだった。いつもこの人の横には夏油が居たし、七海の横には灰原が居た。
呼吸をするように自然と人の神経を逆撫ですることしか言えない五条と、負けん気が強くて短気な七海は、相性がいいとは言えない。寄ると触ると喧嘩になるせいで、落ち着いて話をしたこともなかった。だからこそ二人きりになると、互いの隣の空白が際立つような気がした。
七海は五条のことをあまり知らない。けれど、呪術高専で一年も学べば理解する。この人は特別なのだ。六眼、無下限術式、五条家、そのどれもがこの人を特別という枠に押し込める。非術師家庭で生まれた、まだ学び始めて一年と少しの未熟な七海では顔を拝むことさえできない、呪術界の最高位。それがこの人だ。
天上人。現人神。この人を差す言葉をたくさん聞いた。けれどその度に、この人は心から肩書を厭うて顔を顰めていた。五条と特別親しいとは言えないけれど、大人には決して見せない顔を見る程度には、上っ面だけでない五条を知っている。
綺麗な顔には似合わない口の悪さ。自由奔放なところ。人を見下すようなことを言うくせに妙な優しさを見せるところ。七海の知る五条はそれが全てだ。たったそれだけしか知らない。
夏油なら、もっとたくさん、色々なこの人を知っているのだろう。
ちりり、と埋火が胸を焦がす。けれど、いったいなんの感情が燃えたのかわからない。
「あなたが、いいんです」
素直に知りたいと手を伸ばすには、七海は素直でなかった。貴方の近くに行きたいと言うには距離がありすぎた。それでも、五条を遠い人だと思いたくなかった。
必死な顔を隠さず裾を掴んだ七海の前で、五条は小さく笑った。見惚れるほど端正につくられた顔に、あまりにも柔らかな色を乗せるものだから、なぜか七海の方が照れくさくなったのを覚えている。
「まだお前には早いよ。ただでさえ呪力操作が未熟なんだから、まずは自分の中で綺麗に呪力を練れるようになるのが先。それでも聞きたい?」
「はい」
「そ。じゃ、そこに座って」
かたり、と表情を揺らすことなく五条が椅子に座るものだから、慌てて七海も夏油の椅子を持ってきて向かい合わせで座る。
「まじないは呪いに通じてるんだ。ほら、同じ漢字を使うだろ?」
五条は手のひらに収まるほどの小さな和紙の欠片と薄墨の滲む筆ペンを筆箱から取り出しては並べていく。何でもない顔で、筆箱からそんなものが出てくるあたり、この人は普通ではないのだな、と実感してしまう。
七海の知っている当たり前と、この人が生きる当たり前は異なる。けれど、それを埋めることはできるはずだと幼い頃の七海は訳もなく信じていた。
表情も抑揚もなく、言葉を落とすように話す、ひどく騒がしい先輩の伏せられた睫毛の先が夕焼けの赤い日差しを反射する、その光景を。七海は大人になってからも忘れられなかった。
「大昔、まじないと呪いは別物だったんだ。それを誰かが同じものだと声高に叫んだ。たったそれだけ。けど、噂が広がるたびに、信じる人が増えていくたびに、まじないと呪いの境界線が消えていったんだ。そして、今ではほとんど同じものになった。
まぁ、言葉に力が宿るのは言霊とか呪言と同じ理屈なわけ。力を持つ人間の言葉って、それだけで力を持つから一応オマエも発言には気をつけろよ。
んで、三年になったらその応用で簡易呪物の作り方を学ぶ。お前が知りたかったのはそれだろ。
昔からあるまじないに呪力を込めて、一気に必要量の丁度二倍に練り上げる」
聞こえた端から零れ落ちそうな、それはとても耳馴染みの良い甘い声音。けれどそこには、子どもを諭す大人のような複雑な何かが込められていた。
この人は、本当に七海の知る五条なのだろうか。
不意に七海は、目の前に居るのは本当に五条であるのか不安になった。まるで、七海の世界を構成する一部が欠けてしまったような、そんな気がした。
見慣れたはずの人の、見慣れない音と顔に呆然とする七海の目の前で、くるりと呪力が渦巻く。
五条が和紙の欠片に書いた文様が、まるで水の上を駆けるように廻る。そして、薄墨が一本に繋がった上に呪力が走る。途端、くるりと回った和紙が小さな匂い袋になっていた。
五条の手のひらの上で、真珠色をした匂い袋は蛍光灯を弾いて艶めく。蒼にも薄紫にも見える不思議な光沢は、この世のものとは思えないほどの美しさで七海の瞳を惹きつける。
匂い袋から目を離せないでいる七海の前で、また五条が小さく笑みをこぼした。この静寂に似合うその顔は、童顔なはずの五条を少しだけ大人びて見せた。
それは、七海の知らない顔だった。目の前に居るのは、いつものいけ好かない先輩のはずなのに。静かなだけの顔は、触れるのを躊躇うほど寂寥を思い出させた。七海の知らない何かを見ているような、そんな顔に。はじめて、この人との年齢差や立場の違いを突きつけられたような気がした。
七海は五条の笑顔をふたつ、知っている。綺麗な顔を不細工に歪めて嘲笑う顔と、夏油は家入の前で屈託なく笑う顔。けれど、こんな静かな顔で笑うところは見たことがない。
きっと夏油も知らない。この人の、心が締め付けられるほどの綺麗な微笑みなんて。けれどその顔は、触れるすら躊躇うほどの距離があることを突きつけているように感じた。
「気に入ったんなら、それやるよ。
気休めにしかならないけどさ。いちおう健康祈願のまじないだし、一回くらいは守ってくれるんじゃね? オマエ、弱いし。そういうの、あった方がいいだろ」
「ありがとう、ございます」
「まだお前には絶対できないけどさ。三年になる頃にはできるようになるから、最初に作ったやつは俺にくれよ」
「貴方にお守りなんて必要なくないですか」
「必要ないけど、欲しくないとは違うだろ。お前の初めてをくれよ。俺だってお前にやったそれ、初めて作ったやつだし」
「はじめて?」
「そ。はじめて。俺が作るのはつまんねえ呪力の底上げばっか。健康祈願なんて誰にもできることを俺に求めるわけないじゃん」
はい、と軽い調子で渡されたそれは、薄らと残穢が中を廻っていた。残り香のようなそれは、袋の中をくるりくるりと廻りながら、甘い匂いを漂わせている。
七海の手の中で大人しく収まったそれは、重さを感じないほど軽い。けれど、どうしようもなく重たい。
だって。だって、そんなの。誰かの健やかな日々を祈ったことさえないだなんて。そんな、寂しいことを。寂しさを覗かせもせず言うものだから。それなのに、何でもない顔をして七海にはじめての祈りを手渡してくるものだから。どうしたらいいのか分からない。
ただ、はじめて誰かの平穏を祈ったつくられたこれは、指先を少しだけ温めてくれるくらい温かい。それは、五条の内に眠る優しさが形になったからではないだろうか。
どうか、身の内に眠る優しさを自覚できないこの人が。これ以上さみしくありませんように。
無力な七海はただ祈ることしかできなかった。手を伸ばすことも、泣かせてあげることもできない。ただ、尊大な先輩の、繊細な心から生まれたものを落とさないように、ぎゅっと手のひらで包み込むしかできなかった。
きっと、その時だ。七海が強くなりたいと願ったのは。誰にも守られない最強のこの人の、柔い心に触れてしまったから。それを守ってやりたくなった。そのために強くなりたかった。そのための力が欲しかった。
きっとあれが、七海の恋のはじまりだった。
「あの人、滅茶苦茶な人で、何を考えてるのか分からないだったんですよ」
「想像つくわ。今でも十分胡散臭いもの」
「あれでずいぶんマシになったんですよ。
まぁ、そんな人が私のために、わざわざ呪力を込めたお守りを作ってくれたんです。それをきっかけに、あの人のことを知りたいと思ったのが始まりだったのかもしれませんね」
「何かいいわね、そういうの。私もそんな恋ができるようになりたいわ」
「真依さんは素敵な方ですから、望めばどんな方だって恋人になってくれるでしょうね」
「そんなこと言ってくれたの、七海さんがはじめて。本当にそう思う?」
「ええ。着飾って街を歩けば声をかけられる想像ができるくらいには魅力的ですよ」
「でも、高専の連中見てたらしばらく恋はできそうにないわね。だって、そんな素敵なものとは程遠い連中しか居ないんだもの」
「まぁ…… 高専は狭いので級友も少ないですし、なかなか個性的な方が揃ってますからね。でも、高専の外に素敵な出会いがあるかもしれないじゃないですか」
「……そっか。ここだけが全部じゃないのか」
「ええ。一度外に逃げた私が言うのだから確かです。
外の世界は広いですよ。いつかその広さを、貴女に見せてあげたい」
御三家の重さを七海は知らない。非術師家庭で育ったせいか、昔からこの世界の常識を肌身で感じたことは少なかった。一級という力を持ってからも、血筋にこだわる人たちが何を考えているのか理解できない。
どれだけ本家に近い血筋であっても、混じり気のない非術師家系であっても、皮を一枚剥げば肉があり、骨があるだけの人間でしかない。五条も、七海も、真依も。ただの人間なのだ。そこに格差はない。
けれど。御三家という鎖は五条悟を、禪院真依を、雁字搦めに縛りつけている。
あの人も、まるで迷子のような、どこにも行けないと諦めた顔をしていたのだろうか。それなら、あの人を置いてきてしまったのは、本当に正しい選択だったのだろうか。
あの人は、あの時なにを思って七海にはじめてを渡してくれたのだろう。あの人にとって、七海はどんな意味があったのだろう。
--あの人は、今。七海の居ない空白を、いったい何を思いながら生きているのだろう。