アメムゲ⑤ ソラ編本文2 見覚えのない道を歩いていた。
知らない場所のはずなのに、足は迷いなく進んでいく。
狭くて細い道を抜け、大通りに差し掛かる。
そのまま道に沿って歩く。小さな店が立ち並ぶのを横目に、さらに進んでいく。
だんだんと、景色が都会になっていく。小さな店は姿を消し、その代わりにビルの群れが連なっていく。
ふと、ひときわ大きな建物が目に入ったような気がした。そしてそれが何であるか気付いたその瞬間に、心がぞわりと波打った。
ーー逃げなくては。
ここにいてはいけない。そう思って踵を返すと、そこには見知った顔がいた。
「おやおや、ムゲン様」
「久城……」
自身の補佐を務めていたあの男が、いつもと変わらない笑みを浮かべては行く手を阻んでいる。
「何故そんなところにいらっしゃるんです?貴方がいるべき場所は、そこではないでしょう?」
「私の、いるべき場所……?」
「ええ。貴方のいるべき場所。ムゲン様なら、もちろんおわかりでしょう?」
突如、両腕を誰かに掴まれた。警備服を着た男が二人がかりで、ムゲンを拘束していた。
「久城っ!」
縋るような思いで、目の前の男の顔を見た。しかしそこには、既にその人物はいなかった。
「どうして……」
「では、地下牢へお連れします」
「抵抗なさらぬよう、お願いします」
両側から、冷淡な声がムゲンに投げかけられる。警備員はムゲンの意思など御構い無しに、あの大きな建物の中へと進んでいく。
「嫌だ、やめろ……、もう、あそこには戻りたくない!」
必死に手を振りほどこうとするが、拘束は強く、ぴくりとも動かない。
「何を仰います。あそここそが、貴方の居場所ですよ」
「二度と逃げられないよう、警備を強化するようにとのお達しです」
「さあ、どうぞ地下牢へ」
「また楽しませてくださいね、ムゲン様」
聞き覚えのある声が、ねっとりと鼓膜を撫でた。ぞぞ、と背筋の凍る感覚が蘇ってくる。
ーー嫌だ、嫌だ、嫌だ……!
必死で足を動かす。逃げなくては。しかし両腕を引く力は強く、それ以上進むことができない。
「やめ……っ離してください!触らないで……!誰か……誰か助けて……!」
「……ムゲン、起きろ!」
その瞬間、急に、意識が浮上した。
瞼を開けるが、視界が真っ暗だ。
先程まで見ていた景色はどこへ、と思ったが、そもそもムゲンは目が見えなかったのだと、数秒かけて理解した。
「ゆ、め……」
「起きたか……良かった」
耳元で囁くような声が聞こえ、その距離の近さに驚いた。そしてその瞬間に、自身が体を起こした状態で、人に抱き抱えられていることに気がついた。
「ここは……?」
「ここは俺の家だ。……大丈夫か?」
「アメ、ヒコ……」
そのすっかり聞き慣れた優しい声色に、思わず全身の力が抜けてしまった。
「おっと」
崩れ落ちそうになった体を、アメヒコの腕が支え、そのまま引き寄せた。ムゲンは、アメヒコの胸に体を預けた。心臓が強く脈打っている。どくどくと響く音が体内を通じて大きく響く。こんなにうるさくては、アメヒコにも聞こえてしまっているかもしれない。
知らぬ間に荒くなっていた息を整えながら、ムゲンは謝罪を口にした。
「すみません……どうやら、嫌な夢を、見てしまっていたようで」
「……そうか。それは、辛かったな」
アメヒコの手が、ポンポンと背中を優しく打っている。それがひどく心地よくて、ムゲンはアメヒコの胸にすり、と頬をこすりつけた。
アメヒコは微かに笑うと、さらりとムゲンの頭を撫でた。
心地よい。安心する。それでいて、胸の鼓動が速くなる。
アメヒコの手は魔法の手なのではないかとすら思う。ムゲンはゆっくり瞼を閉じた。
目が見えないムゲンにとって、今頼りになるのは触覚と聴覚、それから嗅覚くらいだ。触覚はアメヒコの手と胸の温もりを、聴覚はアメヒコの吐息を、そして嗅覚はアメヒコから香る微かな汗の香りを、それぞれ感じていた。感覚の全てでアメヒコを感じており、まるでこの世に自分とアメヒコしかいないようにすら思えた。
(それは、それで……いいかもしれない)
そんなことを思ってしまうほどには、アメヒコを心に受け入れてしまっている自分に気づき、ムゲンは自嘲的に笑う呼気を漏らした。
「……落ち着いたか?そろそろ、布団に戻るか」
そう言われてはたと気がついた。ムゲンが今座っているのは、布団でも無ければ畳でもない、ひんやりと冷たい床であった。
「あの、ここは……」
「玄関だ。……いきなり這いつくばって何処かへ行こうとするものだから、驚いたぞ」
アメヒコの声からは、心配そうな気持ちが滲み出ていた。ムゲン自身全くもって無自覚だったこともあり、申し訳なさよりも戸惑いが勝ち、わけのわからないまま呆然と「すみません……」と声を漏らした。
「まあ、いいさ。じゃあ持ち上げるぞ」
アメヒコはそう言うと、返事も聞かずにムゲンを抱えたまま立ち上がった。バランスを崩したムゲンは思わずアメヒコの肩を掴む。
「っ……重たいでしょう、すみません」
「いや?軽すぎるくらいだ。もっと食わせないといけないなと思ったよ」
「そ、そうですか」
そう言っている間に、布団に着いたらしい。ゆっくりと降ろされ、柔らかい感触が足に伝わる。
「もう、大丈夫だな」
その声とともにするりとアメヒコの手が離れていくのを感じ、急な焦燥感に襲われたムゲンは思わず手を伸ばした。手は、すぐそばにいたアメヒコの胸元に当たった。
「ど、どうした?」
アメヒコはムゲンの挙動に驚いたようであったが、ムゲンもまた、自分の行動を理解できず困惑していた。
「あっ……いえ、なんでも、ありません」
手を引っ込めてきゅ、と自分が着ているシャツの裾を握りしめた。
(どうしてしまったというのだろう)
アメヒコに触れられていると、何故だかほっとする。それに、どこかふわふわと温かく、幸せな気持ちになれる。
しかしその手が離れると、急に不安になってしまう。ーーそれどころか、夢に出てきたあの男たちの発する声や触れる手の感触が、じわりじわりと蘇ってきてしまう。今もそうだ。心を、恐怖が支配しようと忍び寄るのを感じる。
(どうしてこうも、弱くなってしまったのだろう)
布団に座ったまま俯いていたムゲンは、何故だか急に情けない気持ちになり、鼻の奥がツンと熱く痛むのを感じた。
アメヒコのふう、というため息が聞こえる。もしや、呆れさせてしまっただろうか。面倒臭く感じさせてしまったかもしれない。そう思うと、さらに惨めで心細い気持ちになる。ムゲンは唇を噛んだ。
「なあムゲン。一つ聞きたいんだが」
その瞬間、ムゲンの握りしめていた手がそっと暖かな手に包まれた。思わず肩がぴくりと跳ねる。
「な、なんでしょうか」
アメヒコの真剣な声色に、ムゲンは泣き出しそうなのを我慢し、あくまで落ち着いた声で答えた。
「……俺に触れられるのは、怖くないのか?」
「……は、い?」
突然の質問に、ムゲンは呆気にとられ間の抜けた声を発した。しかしそれを気に介した様子はなく、アメヒコは変わらぬトーンで話し続ける。
「覚えてるかわからないが……初めて会った時、お前は俺に触れるなと言った」
アメヒコの声から感情は読み取れない。むしろ、あえて抑制しているような、そんなように聞こえる。ムゲンは呼吸をするのも忘れ、アメヒコの声に耳を傾ける。
「それから、夜、悪夢にうなされてるお前は、いつも嫌だ、触るなと呻いてる。知らないかもしれないが、いつもだ。……だから、本当は俺に触られるのも嫌なんじゃないかと思ったんだが、どうなんだ?」
もし俺に触られるのも嫌だったら、これからはなるべく触らないようにする。アメヒコはそのように言った。
ムゲンは突然アメヒコからそのようなことを言われ、困惑を隠せなかった。そして、心の中に冷たい風がヒュッと吹き込むような、そんな心細さが生まれた。
「確かに、人に触れられるのが怖くない、と言ったら、嘘になりますが……」
ムゲンは泣きそうな声でそう漏らした。
「……そうか。そいつはすまなかったな」
そう呟くアメヒコの声は、どこか沈んでいるような、それでいて安心しているような、複雑な響きがあった。ムゲンの手を握っていたその指も緩められ、そのまま離れていく。それに気付いたムゲンは、とっさにその指を追って、逆に強く握りしめた。
「ですが、貴方に……アメヒコに触れられるのは、不思議と嫌ではないのです」
だから、どうか、これまで通りに触れてくれませんか、と震える声で懇願した。
アメヒコの息を飲む微かな音が聞こえた。
触ってほしい、だなんて、自分は何を言っているのだろう。ムゲンはそう思うと、情けないやら、恥ずかしいやらで頬が熱くなった。頬だけではない。目頭が熱い。鼻の奥が痛い。顎が濡れる感覚がする。また呼吸が乱れている。きっと自分は今泣いてしまっているのだろう。そう思うとさらに情けない気持ちに拍車がかかった。それでも、今はこの手を離してはいけないと、直感的にそう思った。
「ムゲン、お前……」
「……すみません。アメヒコ。……こんな事を言われても、迷惑ですよね」
ムゲンは震えながら何も見えない目を強く瞑った。また涙が溢れるのが、肌の感覚でわかった。
アメヒコはまるで逡巡しているように何度も深い息を吐いた後、ゆっくりと、諭すようにムゲンに問いかけた。
「本当に、触れていいのか?」
「っ……はい」
予想外の問いかけに一瞬思考が停止したが、すぐに肯定の言葉を返した。
「どんな風に?」
「……それは」
アメヒコの手がムゲンの頬に触れた。涙を拭うように、瞼を指で撫でる。
「こんな風に?」
ムゲンはアメヒコの指の動きに、心臓を高鳴らせた。優しい手付きにホッとするだけじゃない、別の感情が生まれるのを感じた。
「それともこうかい?」
アメヒコの手がムゲンの肩を滑る。びくん、とムゲンの体が跳ねた。アメヒコの手はそのまま背中に降り、ムゲンを抱き寄せる。
「どうだ?……まだ平気か?」
アメヒコの中低音の声が、ムゲンの耳に注ぎ込まれる。ムゲンは体を震わせ、ただこくこくと頷き、控えめにアメヒコの背中に手を回した。ムゲンの心臓の鼓動が、アメヒコにも伝わる。
「もっと、もっと触れてください、アメヒコ。……これまでの全てを忘れられるくらい」
その言葉の刺激の強さに、アメヒコは、ふーー、と大きく息を吐いた。
「……あまり煽ってくれるな。本格的に、勘違いしそうになる」
「勘違い……とは?」
不安そうなムゲンの声に、アメヒコは軽く触れるような口付けで答えた。
「……こういうことだ」
キスをされた、と理解したムゲンは、顔に熱が集中するのを感じ、アメヒコの首元に額を押し付けた。
「……てください」
「ん?なんて……」
「もっと……勘違いしてください」
見れば、ムゲンは耳まで赤くしている。
驚いたアメヒコは、ムゲンの顎を持ち上げ、その赤い顔を眺めると、再び唇を落とした。今度は、先程よりもう少し深く。
「……いいんだな?」
ムゲンはこくこくと頷いた。アメヒコが自分に対してそのような感情を抱いていたとは夢にも思わなかったが、悪い気はしなかった。それに、アメヒコから触れられるのも、彼からの口付けも、どれも心地良かった。であればもう、これを拒む理由などどこにもなかった。現にこうして、胸の奥が熱を持っている。顔も知らないこの男に愛されることを、今か今かと待ち望んでいる。なんだかこそばゆくて、緩む顔を見られるのが恥ずかしくて、ムゲンは手で顔を隠した。それもまたアメヒコにとっては可愛い仕草に他ならなかった。
「嫌になったらちゃんと言えよ。蹴ってもいいから」
アメヒコは、つとめて明るく言いながら、ムゲンの体を横たえた。布団に広がる髪がやけに艶かしくて、そうやって緊張をごまかすので精一杯だった。
*****
「久城様、こちら深見様の目撃情報です」
差し出された二十枚ほどの紙の束をちらりと眺めた久城は、ああ、と目線だけを動かした。深見ムゲン目撃情報、と書かれたそれには、提供された情報に加え、情報提供者についてのことも書き添えられている。
「ありがとう。有力そうな情報はあったかな?」
「いえ、残念ながら。只今確認中ではありますが、具体的な情報に欠けているものも多く……」
「そうかい、残念だ」
久城ダンは、興味を失ったかのようにコンピューターの画面に視線を戻した。
「まあ、懸賞金目当てで当てずっぽう言った可能性はあるよねえ」
小声でそう言うと、書類を持っていた部下は「力及ばず……」と表情を曇らせた。
深見ムゲンが地下牢から突然消失してから五日。新聞広告を出してからは二日。幽閉されていた時のあの状況では、既に野垂れ死にしている可能性すらある。
「ムゲン様の見た目、ボロボロの状態で目も見えていませんって書くべきだったかなあ」
「久城様……」
部下の不安げな声に、「冗談だよ」と返した久城は、「資料はそこに置いておいてくれるかい?後で目を通しておくから」と言って部下を下がらせた。
コンピューターの画面に表示されているのは研究部から上がってきたカードの情報だ。
過去に発現した闇のカードとその残骸から、さらに強いカードを精製する方法。今回の騒動を期にその研究成果も大きく前進したとの報告だ。久城はその報告書の代表欄に電子サインをすると、ふふっと笑みをこぼした。
「それで、いったいどんな人が懸賞金に群がってきたのかな」
久城は部下の残した書類を手に取ると、一枚ずつめくってその内容を確認した。そのうちの一枚を読んでいる際に、久城はピタリと動きを止めた。
「これは……」
そう呟くと、久城はにたりと笑い、その報告書をデスクの引き出しへとしまい込んだ。
「偶然か、必然か……さてこれは、どういう縁なんだろうねえ」
*****
「これは……いったい……」
重たい瞼を押し上げたムゲンは、呆然とした表情で、声にならない声を漏らした。
見える。天井が見える。
茶色い板張りの天井に、吊り下がった電灯が見える。
ぱちぱちと瞬きをしても、その姿ははっきりと、その目に映っている。
(まだ夢でも見ているのだろうか)
首を回して、視線を動かす。すると、閉じられたカーテンから淡く光が差し込んできているのが目に入った。光の色から察するに、どうやら外は曇天らしい。明かりが差し込んでいてもなお部屋は薄暗いが、それでも少しばかり眩しく感じられて、ムゲンはそっと目を細めた。
ふと、誰かの寝息のような音が耳に入った。思わず横を見ると、見慣れない男性の寝顔がこちらに向けられていた。その人物は、すう、すう、と規則的な寝息を立てている。
驚きのあまり硬直したムゲンだったが、その人物に一人だけ心当たりがあった。
ここ最近、同じ布団で寝起きしている人物。
いつも手を貸してくれ、様々な面倒を見てくれている人物。
そして、昨日の夜、体を重ねた相手でもある。
「もしかして……アメヒコ……?」
そんな声が、思わず口から出てしまっていた。
すると、隣で眠っていたアメヒコの意識がふっと浮上した。
「ん……、ああ……、……おはよう、ムゲン。体は、痛くないか?」
そう言いながら、アメヒコはふわりと微笑んだ。緩慢とした動きで手が伸びてきて、さらりと頭を撫でる。
(ああ、この声だ。この手だ。間違いない、アメヒコだ)
ムゲンは心地よさに目を閉じた。
「はい。体は……ん?」
そう言ったところで気が付いた。
腰の違和感。全身の倦怠感。意識を向けた途端に、後ろの穴がひりひりと痛む感覚。
「えっと……」
思わず口淀んでいると、アメヒコは申し訳なさそうに声をもらした。
「やっぱり、無理させちまったみたいだな。悪かった。今日は一日寝ていればいいから……」
「い、いえ。貴方が謝るようなことでは」
そう、アメヒコが悪いことをしたわけではないのだ。
むしろ、彼は巻き込まれた側だとも言える。
昨夜。触れられるのが嫌ならばもうムゲンにはなるべく触らないようにするーー、そのように切り出したアメヒコに対し、これまで通りに触れてほしいと懇願したのはムゲンだ。
それが引き金になってしまったのか、お互いにスイッチが入ってしまい、成り行きで体を重ねることになったのだが。
思わずクスリ、と笑いが漏れる。
「ムゲン?何を笑って……」
「いえ。まさか貴方が、ローションが無いからという理由で中座されるとは思わなくて」
そう言うとアメヒコはバツの悪い顔をした。
「それは仕方ないだろ、お前に痛い思いをさせるわけにはいかなかったし……」
「……お優しいのですね」
そんなに優しいから、ムゲンはこのアメヒコに絆されてしまったのだろう。
あんなにも、人から触れられるのが怖かったのに。人から裏切られることも怖かったのに。何故だか、アメヒコだけは大丈夫だと、そのように思うようになっていた。
それどころか、もっと触れてほしいと、アメヒコが欲しいとすら思ってしまっていた。
ムゲンは閉じていた瞼を持ち上げた。やはり少し眩しい。それでも、今はどうしてもアメヒコの顔を見たかった。
「……ムゲン?」
じっと見つめるムゲンの眼差しに、アメヒコも気付いたようであった。深いアメジストの瞳と、金の瞳の視線が交わる。
「……綺麗な瞳をしているのですね、アメヒコは」
ムゲンが思わず顔を綻ばせながらそう言うと、アメヒコは大きく目を見開いた。
「……まさか。……目が見えるのか?」
「ええ、そのようです」
アメヒコはそれを聞くと、がばっと体を起こした。
「なっ……本当か!?いつから見えてたんだ!?予兆はあったのか!?どれくらい見える!?痛みは!?痛くはないのか!?」
一気にまくしたてるアメヒコの手がムゲンの頬に添えられる。じっと見つめるそのアメヒコの表情があまりにも動揺していて、ムゲンは思わず呆気にとられた。
「そ、そんなに一度に聞かないでください……」
「あ、すまん……」
ムゲンは起き上がり、アメヒコと膝を付き合わせた。
「私も、見えるようになった原因はわからないのです。今しがた起きたところ目が見えていたというだけなので……」
ムゲンは落ち着いた声で淡々とそう述べた。
「そう、か……」
アメヒコはまだ信じられない、といった様子でムゲンの顔を見ている。しばらく眺めてはその焦点がしっかりと合っているのを確認し、ようやく納得したようではあ、と息を吐いた。
「……まあ治った理由なんて、どうだっていいよな。……良かったな、ムゲン」
「ええ。ありがとうございます。今までご迷惑をおかけしました」
「なに、俺がやりたくてやってたことだ。迷惑なんかじゃないさ」
アメヒコはそう言うとふわりと笑った。とても優しい笑顔だった。これまでもこうやって笑っていたのかと思うと、それを見られなかった自分の目が少し恨めしくすら思う。
だが、これからは。
ーーこれからは?
ムゲンははた、と動きを止めた。
(私はこれからも、ここにいて良いものなのだろうか)
当然のようにこの先もここにいるつもりでいたが、それはあくまでも目が見えなかった時の話だ。五体満足の人間がいつまでも人の世話になって良いはずがない。
目の前で微笑むアメヒコの顔をじっと見つめる。穏やかで優しい顔だ。慈しむ気持ちが滲み出ているそんな表情を、ムゲンはこれまでの人生で果たして何度見たことがあっただろうかと思う。
(それもそうだろう、閃極の者たちは皆、打算的で、人を蹴落とすことに何の躊躇いもない者ばかりだ)
脳裏に浮かんだのは、閃極コーポレーションの中でも特に力を持つ人々だ。無論、かつて自分の補佐をしていた久城ダンも含まれる。悪事を行うことも、それを揉み消すことも厭わない。実際、少し前までの自分も、その中に含まれていたーーどころか、その筆頭だったとすら言える。だからこそわかる。もし自分を匿っていることが明るみに出たら、アメヒコはーー。
「……っ」
脳内で再生してしまった最悪の光景を振り払うように頭を振ると、ムゲンは意を決して口を開いた。
「あ、あの、アメヒコ」
「なんだ?」
「……考えたのですが、私、ここを出て行こうと思います」
「はあ?」
突然のことに、アメヒコが頓狂な声を上げる。
「いきなり何を言い出すかと思えば……どういうことだ」
「私は……その。訳あって追われる身でして。もし私がここにいることが露見した場合、貴方の身に危険が及ぶ可能性が、極めて高いのです。脅したくはありませんが、最悪の場合……命の保証はできません」
今更だ。これまで何日も匿ってもらっておいて、今更すぎる話だ。だがムゲンにとってアメヒコの存在は、この数日で大きく変わってしまった。だからこそ、これ以上ここにいることはできないと思った。
「このご恩はいつか必ずお返しします。ですが今は……貴方の安全を優先させていただきたい」
それ以上アメヒコの顔を見ていられなくて、ムゲンは頭を下げた。
(……本当は)
出て行きたくなどない。ここを出て行ったところで、行くあてなどない。金もないし、実家も頼れない。こうまで顔が知られていては、地下競技場に潜り込むことも難しいだろう。それに、アメヒコの手の温もりを覚えてしまった自分が、今更一人で生きていけるとも思えない。
それでも、目が見えるようになった以上、これ以上甘えるべきではない。何より、自分がいることによってアメヒコが危険に晒されるとあれば、なおのこと。
「勝手なことを言っているのはわかっています。ですが、それがお互いのためなのです。……どうか、私のことは忘れていただけませんか」
ムゲンは必死に縋るようにそう言葉を紡いだ。
しかし。
「嫌だ、と言ったら?」
「っ……!」
普段耳にしないような冷たい声色に、思わずムゲンの体が固まる。
怒らせてしまっただろうか。それもそうだろう。あれだけ親身にしてもらっておいて、いざ目が見えるようになったら出ていくという。本当に勝手だ。
ムゲンは、まるで氷水を浴びせられたように震えた声で続けた。
「すみません……ですがもしここがあの者たちに知れたら、貴方が……」
「閃極の奴らにか」
アメヒコは迷いもなくそう口にした。まるで正解を初めからわかっていたかのように。
「な……、どう、して」
「そりゃ、この業界にいればそれくらいわかるさ。相手がでかい組織だってことも、お前のこともな。だから、心配するな」
「でも、ですが……」
顔を上げられない。何と返事をしたら良いのかもわからない。頭の中がごちゃごちゃとうるさい。まるで思考能力が消え失せてしまったかのようで、一向に考えがまとまらない。
ムゲンはただただ目を瞑って俯いていると、急に体が圧迫されるような感覚を覚え、思わず目を見開いた。
「……もう、一人で抱え込まなくていい」
「アメヒコ……」
背中に回されたアメヒコの手は、力強くムゲンの体を締め付ける。密着した胸がどちらのものかわからない鼓動に脈打つ。
「俺はもう覚悟は決まってる。お前を拾った時から、お前を抱いた時から、お前の人生も俺が背負うと決めたんだ」
なんとまっすぐな声なのだろうか。耳元で囁かれるその声は温もりとなって、ムゲンの心の深いところまで浸透していく。
「だから、ここにいてくれ。出ていくなんて、言わないでくれ」
切なくなるほど切実な声に、ムゲンは「信じられません……」と微かな声を漏らした。
「信じられない、か?」
アメヒコの不安げな声が漏れる。
「ええ……信じられません……。やはり私はまだ、夢を見ているのかもしれません」
「夢?」
アメヒコは少し体を離すと、怪訝な顔でムゲンの顔を覗き込んだ。
「だって、こんなに自分に都合の良いことばかり起こって……夢でなければ、何だと言うのでしょう」
「そりゃ、現実だろ」
「本当に?……目覚めたら全て夢だったりしたら、私はもう立ち直れないかもしれないのですが」
眉間にしわを寄せてそう言うムゲンの顔を見ては、アメヒコはふっと笑った。
「心配するな。大丈夫だから」
ーーああ、まただ。
アメヒコの大丈夫という言葉が、ムゲンの心に温もりを灯す。
「……わかりました。では現実と思うことにします」
「ああ、それでいい」
二人は、顔を見合わせて笑った。
「あの、アメヒコ。出ていかないかわりに、私に何か仕事を与えてくれませんか。……ただお世話になっているだけでは、不安なのです」
それを聞いたアメヒコは目を丸くした。
「それは……もちろん構わないが……だが、店には出せないぞ。閃極の関係者が来ないとも限らないからな。あえて頼めるものと言ったら……家事くらいか」
「わかりました。では、何からいたしましょうか」
ムゲンはそう言うと手をついて立ち上がろうとした。が、力が抜けてしまいその場にへたり込んでしまった。
「あっ」
「おっと」
アメヒコは崩れるムゲンを抱きとめると、そのまま引き寄せた。
「慌てなくていい。まだ、昨日の疲れが残っているだろう」
そう話すアメヒコの声は、先程と打って変わって、ひどく穏やかで明るい声だった。
「なんだか楽しそうですね」
少し拗ねたような声が漏れる。
「楽しい、というより、嬉しい、だな。……知らないかもしれないが、お前が思うより俺は、お前に惚れてるんだぜ?」
そう囁かれ、ムゲンの顔が赤く染まった。
「まさか思いが通じた直後にサヨナラなんて、勘弁してもらいたいからな。……改めて、これからよろしくな、ムゲン」
アメヒコは、ムゲンの額にコツン、と自分のそれをぶつけた。それがなんだかくすぐったくて、ムゲンは顔を綻ばせた。
「はい、アメヒコ。ご迷惑をおかけするかと思いますが……、何卒、よろしくお願いいたします」
そうして、ムゲンはこれからも、アメヒコの家に間借りすることが決まった。
*****
どんなに夜更かしをした後でも、当たり前のように朝が来て、昼が来て、そして店を開ける時間になる。
アメヒコはいつものようにカードショップを開けると、学校帰りの子供たちを迎え入れた。
「な〜んか変なんだよな」
「変って、何がだ?」
「店長がだよ!」
店内の机でバトルをしていた子供たちが、アメヒコを見ては首を捻る。
「何も変なところなんてないと思うが?」
アメヒコがそう言うも、小学生たちは首を大きく横に振る。
「い〜や!なんかニヤニヤしてる!」
「なっ」
「ちょっと気持ち悪いぞ」
「なんだと……?」
あまり表には出さないようにしていたのだが、どうやら滲み出ていたらしい。さすがに気持ち悪いと言われるのはショックだ。
「何か良いことでもあったんですか?」
子供の中ではまだ利口な子がそう尋ねてくる。アメヒコは、「まあ……」と口を濁らせた。
「ふふ、店長にも春がきたんですね」
何を言っているかわかってない小学生が頭にハテナを浮かべていたが、アメヒコはというとすっかり見透かされていてどうにも居心地が悪かった。
確かに、今日はすっかりムゲンのことばかり考えていた。ほんの数時間前に体を繋げ、心も繋げたのだ。そりゃ、考えるなと言う方が難しい。
最初はボロボロなムゲンの姿を見て放っておけないという気持ちくらいしかなかったのに、気がつけばすっかりムゲンに夢中だ。不思議なものだが、ムゲンもどうやらアメヒコを好いてくれているようだし、まあなるべくしてなったのだろう。
気づけばまた頬が緩んでいて、いかんいかんと口元に手を当てた。小学生たちが生暖かい目で見てくるのが、どうにも気恥ずかしい。今も、扉を隔てた先にはムゲンがいて、仕事が終われば「おかえり」と迎えてくれると思うと心が躍って仕方がない。しかしこれでは店長の威厳というものが消え失せてしまう。アメヒコはゴホンと咳払いをし、意識を手元のカードに向けた。
それから数日は何事もなく過ぎ去った。
アメヒコにとっては幸せを体現したかのような日々。朝起きると隣にムゲンがいて、一緒に朝食を取り、ムゲンの用意した昼食をいただく。仕事が終わって家に帰るとムゲンが出迎えてくれて、夜はムゲンの作った味噌汁を飲んで、風呂から上がりムゲンを抱いて寝る。ああ、これが幸せか、としみじみしてしまう。
ムゲンも少しずつ体力が戻ってきており、簡単な家事は任せられるようになった。やはり目が見えるというのは大きいのだろう。笑顔が増えたような気がするし、何より悪夢を見ることがなくなった。これは本当に良かったと思う。
そして、土曜日が訪れた。それはアルバイトのソラが出勤する日であり、アメヒコの店が珍しく午前中から開いている日でもある。
その日もカードショップは賑わっていて、小学生だけでなく大人まで、狭い店内の中でカードを吟味したり、バトルに興じたりしていた。客足が途切れることがないまま、時刻は正午を回っていた。
「ソラ。昼休憩行っていいぞ」
「わかりました。休憩いただきます」
ソラはエプロンを外すと、カウンターの内側に置いたトートバッグを手にした。
「じゃあいってきます」
そう呼びかけたが、アメヒコは客から買取査定で声をかけられていたため返事ができなかった。客の手には結構な枚数のカードが握られている。
(これなら、しばらくはこっちのことは気取られないだろうな)
ソラはカードショップを出ると、怪しまれないように、ゆっくりと裏口へと回った。心は急くが、変に思われてはいけない。
ゴミ捨て場に面した扉は、店舗兼アメヒコの家の裏口だ。呼び出し鈴はあるが、あえて小さくノックをする。すると、少しもしない間に、「はい」と声が聞こえた。
「ムゲンさん、僕だよ、ソラ」
「ソラ?」
ムゲンが小さく扉を開けた。
「やっほー、ムゲンさん」
「こんにちは、ソラ。先日ぶりですね。アメヒコなら表でお店に出ていますが」
ムゲンはソラに対して全く警戒心を抱いていないようだ。
「うん、知ってるよ。僕ちょうど今お昼休みでさ」
ソラはそういうと、トートバッグから小さなランチボックスを取り出した。
「少しお散歩しない?」
「……本当に、アメヒコに言わなくて大丈夫だったのでしょうか」
「大丈夫大丈夫。ちょっと近くの土手に行くだけだから」
ムゲンは部屋着のジャージとTシャツという出立ちに、濃いめのサングラスをかけて歩いていた。モデルかタレントか、というほどの美貌にこんな服装はもったいないとしか思えないが、それでも溢れ出す美しさにソラは密かに感嘆していた。
(流石に目立つかなあ。あまり人目のないところを通らないと)
ソラはこの日、とある約束をしていた。
ムゲンを探しているという閃極コーポレーションの人物と落ち合い、ムゲンを引き渡し、お金を受け取るというものだ。
そんなことをしてアメヒコが黙っていないとは思ったが、バレないようにやれば良いと思ったし、そうできるという自信もあった。何より、アメヒコがそこまでムゲンに執着してはいないだろうという考えもあったが、それは間違いだと後から気付くことになる。
ソラには借金がある。……というよりは、稼ぎたい金というべきか。なんとしてもお金を稼ぎ、購入したいものがあった。
それは、アメヒコの店に保管されている、とあるカードの束、デッキである。
翼竜を主体としたそのデッキは、元はと言えばソラの兄が所持していたビークロのカードであった。ソラの兄は元々プロのウェイカーだったが、ある時急にビークロを辞め、カードも売り払ってしまった。ソラにとっては、愛する兄が長年大切にしていたカードだ。なんとかその所在を突き止めたは良いが、カードの売却額はとてもじゃないがソラの手の届く額ではなかった。それでも諦めきれなかったソラは、兄がカードを売ったその店で働くことにしたのだ。いつかお金が貯まったらそれを買い取ると約束をして。
(今回ムゲンさんを引き渡してもらえる金額は、兄貴のデッキ全てを買い取ってもお釣りがくるほどの額。逃すわけにはいかない)
一方のムゲンは非常にゆっくりと歩みを進めている。約束の時間に間に合わなくなる、とソラはやきもきしたが、怪しまれてはいけないと思い、ムゲンに歩幅を合わせた。
「ムゲンさんって、意外と歩くのゆっくりなんだね」
ソラにそう指摘され、ムゲンは苦笑した。
「しばらく寝込んでおりましたので、体力が落ちているのです」
言われてみれば、息が上がっているようだ。汗もかいている。
「すみません、少し休憩しても良いでしょうか」
「いいけど大丈夫?ちょっと待ってて」
ソラはムゲンを近くの公園のベンチに座らせると、自販機で飲み物を購入した。
「これ飲んでいいよ。なんかいきなり無理させちゃったみたいでごめん」
「いえ、私の方こそすみません。思ったより体力が衰えてしまっていたようで」
ムゲンはペットボトルの飲み物をこくりこくりと飲んでいる。
(うーん、このペースだと、待ち合わせには間に合わなそうかなあ)
遅刻しても許してくれるだろうか、とソラが心配していると、ムゲンがぽつり、と言葉を漏らした。
「空が青い……」
一瞬自分のことを呼ばれたのかと思ったが、そうではなく、上に広がる空のことを言っているらしかった。ムゲンはサングラスを外し、眩しそうに上を見上げている。
「そりゃ空は青いでしょ」
「そうですね。ですが、こんなに青いとは。……しばらく空を見ることなどなかったので」
そういえばムゲンは最近まで目が見えなかったのか、と思い出した。
「ムゲンさんって、前から目が見えなかったの?」
「いえ、そういうわけではありません」
「じゃあ何かきっかけがあったとか?」
「それは……」
ムゲンは口澱んだ。どうやら言いにくいことらしい。
「……あまり面白い話ではないのですが」
そう前置きをし、ムゲンは少しずつ語り出した。
ムゲンには欲しいものがあった。それは何を犠牲にしてもほしいものだった。しかし、それを手にしたと思ったその時、それはムゲンの手をすり抜け、全てを失ってしまった。
その時に、ムゲンの目もまた、見えなくなってしまったのだという。
「……私は一度全てを失いました。何度も死んでしまいたいと思うほど辛く苦しい時もありましたし、死んでしまえた方が楽だとも思いました。……ですが、あの日偶然アメヒコと出会い、非常によくしていただいて。……生きることに希望を抱くことができたのです」
アメヒコには、感謝してもし尽くせません。そう語るムゲンは、とても穏やかな顔をしていた。
(あの店長がねえ)
「ソラにも、とても感謝しているのですよ」
「僕に?」
突然話をふられ、ソラは目を丸くした。
「今日は久々に外に出ることができて、とても良い気晴らしになりました。空を見上げたのも、いつぶりでしょう。本当に気分が良いのです」
それに、とムゲンは続けた。
「先日いただいたラタトゥイユは、最近食べたどの食事よりもとても美味しくて。とても元気をいただけたのです」
これはアメヒコには内緒ですよ、と微笑んだ。
ソラは、トートバッグの中に入れていたランチボックスを開けた。中には、一人前のサンドイッチ。ムゲンを引き渡した後に食べようと思っていたものだったが、なんとなくムゲンに食べさせたくなった。
「食べる?」
「良いのですか?」
ムゲンの目はきらきらと輝いている。
なんてことはない、ゆで卵と自作のマヨネーズを混ぜただけのサンドイッチだが、ムゲンは嬉しそうにそれを口にした。
「やはりソラの作った食事はとても美味しいです。将来はシェフでしょうか?」
「その予定だけど」
「それは素晴らしい!」
ソラならば必ず良いシェフになれるでしょう、とムゲンは笑った。
(良いシェフかあ)
なんだか照れ臭くて、ソラは上を見上げた。
(あ、青い)
当たり前だと思っていたが、空は確かに青かった。
雲一つないそれは、どこまでも澄み切って、心までも浄化されるようであった。
その時、ソラの携帯電話が震えた。画面を見ると見慣れない番号だ。おそらく、閃極からの着信だ。待ち合わせ時間になってもいないので確認のため連絡をしてきたのだろう。
ムゲンは「私のことは気にせず応対してください」と促した。ソラは立ち上がると、声が聞こえなくなるくらいの距離まで遠ざかり、通話ボタンを押した。
「はい」
「こちら、閃極コーポレーションでございます。北村ソラ様のお電話でお間違いないでしょうか」
「ええと、はい」
「本日お約束をしておりました、深見ムゲンの引き渡しの件なのですが……」
やはりそうだ。ソラは緊張で息を飲んだ。
「そ、その件なんですけど。やっぱり僕の勘違いでした。すみません」
(ああ、もう。せっかくお金になると思ったんだけどな)
それでも、過去を語るムゲンの苦しそうな表情が、サンドイッチを食べるムゲンの幸せそうな笑顔が、どうしても脳裏にチラついて仕方がない。
「今回の話は無かったことにしてもらえますか」
ソラがそう言うと、電話口の女性はあっさりと引き下がった。
「また有力な情報が見つかりましたら、ぜひご協力をお願いいたします」
「わかりました。すみません」
「とんでもございません。またのご連絡をお待ちしております」
ソラは、女性の声を最後まで聞き、通話を切った。緊張のあまり背中に汗をかいていた。
(でも、これで終わった)
ソラは深く息を吐いた。
ムゲンに目を向けると、渡したサンドイッチを食べ終わり、飲み物を飲んでいた。ソラと目が合うと、ふわりと微笑んだ。
「もうお電話は終わったのですか」
「うん。終わった。サンドイッチもう一つ食べていいよ」
ベンチに戻り、ムゲンにサンドイッチを勧めた。ムゲンは嬉しそうに、きゅうりのサンドイッチを手に取った。
「それ食べ終わったら今日はもう帰ろうか。土手はまた今度にしよう」
「ええ。ありがとうございます」
ムゲンは上機嫌で、サンドイッチを食べていた。
公園の帰りに、カードショップの隣にある駄菓子屋に立ち寄った。ムゲンが興味を示していたからというのもあるし、ソラもまた、駄菓子を食べたくなったからだ。結局ポン菓子と金平糖ときなこ棒を購入したソラは、呑気にもムゲンを伴ったままカードショップに入店した。
店内にいたアメヒコは、家にムゲンがいないことに気が付き大慌てで店を閉めようとしていた。どうやら探しに行くつもりだったらしい。
ソラがムゲンを連れ出していたと気が付いたアメヒコは、見たことがないほど狼狽えていたし、ソラは初めてめちゃくちゃ叱られた。一緒になって縮こまっていたムゲンは、アメヒコにぎゅうぎゅうと抱きしめられ、「もう勝手にいなくなるな」と言われていた。
(もしかして、アメヒコさんってめちゃくちゃムゲンさんが好きなのでは?)と気付いたソラは、あのまま閃極に引き渡さなくてよかったな……と心の中で呟いた。