「わたし、は…」
瞳を揺らし頭を抑えながら膝をついたクリスを見て、だからこの人は面倒なのだと想楽は思う。
こうなっては仕方ない。力を行使する為に杖を振りかぶると、自分の脇を何かが通り過ぎて行った。雪の影のような髪色で誰だかはすぐに分かったので想楽は杖を収める。
「どうした」
雨彦が声をかけるとクリスはビクリと肩を揺らす。想楽は雨彦を見たクリスの瞳に一瞬浮かんだ怯えの色を見逃さなかった。やはり、思い出しかけている。
「あめ…ひ…こ…?」
「眼を閉じて、ゆっくり息をしな。……そう、良い子だ」
クリスを包むように抱き込み、酷く優しく、言い聞かせるように雨彦が言葉を口にする。
ゆっくりと肩が上下する度に、クリスの頬の色が白く白くなって行く。この地に降る雪のように——雨彦や想楽と同じように。もう、大丈夫だろう。
「雨彦…、私は…」
落ち着きを取り戻した砂色の瞳には、もう戸惑いも怯えも浮かんではいない。
クリスは元々海の王だった。凍える常冬の地でありながらも沢山の生命を抱える海が、彼の治める場所だったのだ。だが、ある時彼は1人の氷の王に見初められてしまった。その氷の王が、雨彦だ。
雨彦はじわりじわりと時間をかけて海の王であるクリスと、彼が治める海を凍り付かせていった。数え切れぬ程の生命がいた海はいつしか殆ど生物の立ち入ることがない氷の大地に変わり、海の王は氷の王へと姿を変えた。
クリスが時折取り乱すのはそのせいだ。
海というのは元来凍りにくいものらしい。凍てつかせた張本人である雨彦が近くにいる時は安定しているのだが、彼が所用で暫く離れたりすればすぐに少しのきっかけでも先程のように不安定になる。氷の王として存在している今のクリスには海の王であった頃の記憶は無い筈なのだが、無意識の内に元の存在に戻ろうとするのだろう。想楽も既に幾度となく不安定になったクリスを見ている。
酷いことを、とは思わない。自分達はこういう愛し方しか出来ないのだから。
城に閉じ込め、凍てつかせる。それが想楽たち氷の王の愛し方だ。
クリスが海の王でなければ良かったのかも知れない。例えば彼が氷の上で生きていることの出来ない花の王などであれば、死なない程度に閉じ込められるか、或いは氷漬けにされ亡骸を愛でられることになっただろう。想楽を含め氷の王たちは皆そうやって迷い込んで来た存在を気に入れば愛で、気まぐれに解放して過ごしている。それが氷の世界での普通なのだ。
だが運悪く——或いは幸運にも、クリスは海の王であった。凍らせることでその存在を雨彦や想楽達と同じくすることが出来てしまったのだ。そういう存在だからこそ雨彦はクリスを凍てつかせたのか、偶然そういう形となったのかは想楽には分からない。クリスのことに限らず雨彦はあまり物事を語ろうとせず、彼の考えを知ることは難しかった。
想楽に分かるのは、雨彦が様々な面倒を抱えてでも囲いたがる程にクリスを愛しているということ。氷の王として存在しているクリスもその愛を受け入れているということ。そして、海の王としてのクリスは雨彦を恐れているということだけだった。
「悪かったな」
クリスを安定させた雨彦が想楽に声をかける。クリスは少し離れた場所で待っているようだった。どこかぼんやりとしているようだが、まだ意識がはっきりとしていないのだろう。
「んー、結局僕はクリスさんと話をしていただけだからねー」
でも気になるって言うなら今度何か貰ってあげても良いよー。そう想楽が言うと、雨彦は苦笑したようだった。
実のところ、想楽もクリスのことは嫌いではないのだ。面倒な人だとは思うものの、雨彦からクリスを預かり異変——元の存在に戻ろうとする兆候が見えればそれを防ぐ役割を引き受ける程度には気に入っていた。
海の王としてのクリスは雨彦を恐れている。だからきっと、同じ氷の王である想楽のことも恐れるだろう。けれど、クリスにあの怯えた目で見られるのは嫌だなと想楽は思うのだ。
「氷の王に気に入られるって気の毒だよねー」
「…そうかもな」
「でも、これが僕達だからねー」
気の毒だとは思う。けれど、そういう愛し方しか出来ないのだから仕方ないのだ。
だからコレからも自分達はこの地でこうやって過ごして行くのだろう。雪と氷しかないこの地で、自分達なりの愛を持って。