ガヤガヤとした喧騒の中、雨彦は酒を片手に周囲の話に耳を傾けていた。
今日は出演した短編ドラマのクランクアップだった。撮影を終えた雨彦は打ち上げに誘われ、こうして他の出演者や撮影スタッフと共に近場の居酒屋で酒を飲んでいる。
「やっぱりあの子可愛いよな〜!」
撮影したドラマのシナリオ上、今回の撮影チームはかなりの男所帯だ。この打ち上げの場にも、見渡す限り男しかいない。
こうも男が揃うと、女性周りの話題へ向かってしまうのも仕方がないのだろう。「あのグラビアアイドルが実物も可愛かった」だの、「付き合うとしたらあの女優がいい」だのと、酒も相まって好き勝手に話題が進む。
「葛之葉さんもそう思いますよね!」
「さてな。残念ながら俺は実際に会ったことがないもんでね」
雨彦は自分に振られる話をのらりくらりと躱しながら、枝豆に手を伸ばす。同じ事務所の仲間たちしかいない酒の席とはこうも話題が違うものかと、少々興味深く思ってしまうのも確かだった。
「くずのはは相変わらずだよねえ」
そう話しながら隣の席にやってきたのは、同じくドラマに出演していた次郎だ。今回事務所からは雨彦と次郎の二人がこのドラマに出演していた。
「そうかい?」
「そのうまーく誤魔化す話術を俺も見習いたいよ」
そう話しながら、次郎も目の前の料理に箸を伸ばす。
それから少し経って、話題の風向きが変わったのは、さすがに女性芸能人の話題も尽きようというタイミング。ふと上がった一声からだった。
「それじゃあ男だったら誰を挙げる?」
「なんでそうなるんだよ」
話題の提供者に、一気にブーイングが上がる。それでも周囲の面々は頭を悩ませ、なんとか答えを捻り出そうとしているのだから、律儀なものだと思う。
雨彦の脳裏を過るのは、今この場にはいない恋人の姿。雨彦が選ぶのは、クリスだけだ。もちろん聞かれたところで答えることはできないが。
さて次はどう躱したものかと考えながら、雨彦は事の成り行きを見守る。
「そうだ!」
突如そう声を上げたのは、雨彦の前に座る俳優だった。目の前の雨彦を見て、何か思いついたらしい。
「葛之葉さんのユニットのほら、ええと……古論クリス!」
思いもよらないタイミングで恋人の名前を耳にした雨彦は、思わず目を瞬かせた。
「あの人すげえ美人だし、俺あの人ならアリだな!」
「お、おい、葛之葉さんの前で……」
近くの席から慌てたような声が上がる。酒の席とはいえ、まずいのではないかと思ったのだろう。
だがそれでも酔いの回った男の口は止まらない。
「正直冷たそうだと思ってたんだけど、この間偶然見た番組で海のことを熱弁してて、それ見たらなんか可愛いなって思っちゃってさあ。あれなら話を聞いてやりたくなっちゃうというか」
目の前で繰り広げられる恋人の話題に、雨彦はわずかに眉を顰める。
クリスの整った顔は、黙っていると周囲に冷たい印象を与えてしまうらしい。それでも彼の人柄は周囲を惹きつける。接しているうちにその魅力は十分に伝わっていくのだろう。かつての雨彦がそうだったように。
そうして海の話に耳を傾けてくれる人が増えることを、クリスは喜ぶはずだ。クリスはそのためにアイドルになったのだから。そして恋人が望みを叶えることを、雨彦だって喜ぶべきなのだろう。
それなのに、こうして「話を聞いてやりたい」と言ってのける人間が目の前に現れたことに、雨彦は少々嫌悪感を抱いている。おそらくは、その言葉に込められた下心のせいだ。
それは自分の役割なのだと、他人に譲ってやる気はないのだと、頭の片隅で主張する自分がいる。クリスをそんな目で見てくれるなと、どこまで本気かもわからない男に対抗心のようなものが芽生えるのが、手に取るようにわかった。
「はは」
雨彦は自分の中の感情を自覚して、思わず苦笑する。随分と子どもじみた、重い独占欲が芽生えたものだ。
「ちょっ、くずのは、顔」
「大丈夫だ、酒の席の冗談だろう?」
「いや、大丈夫じゃない気配出てる出てる」
隣の席の次郎が慌てた顔で小声で囁いてくる。そんなに顔に出てしまっているだろうか。周囲の面々も雨彦の反応を伺っているような気配がある。
「海の仲間が増えるのは古論も喜ぶだろうが、アイドルに恋愛はご法度だからな」
場の空気を悪くするわけにもいかないだろうと、笑いながら答えると、少し周囲の空気が落ち着く。目の前の男もそれ以上続けることはなく、話の矛先は別の人に向かったようだ。
それでも雨彦の中には依然として先程抱いた感情が靄のように残っている。
「くずのはでも嫉妬することあるんだねえ……」
次郎が雨彦にしか聞こえない声量でぼそりと呟く。
気を紛らわすようにビールを呷ると、アルコールに体温が上がるような感覚がする。体の奥底でチリチリと燻り続ける感情の名前を、雨彦はそこでようやく理解した。
終電にギリギリ滑り込んで家に帰ると、リビングから仄かに明かりが漏れていた。時間も時間だからとなるべく静かに靴を脱いでいると、リビングへと続く戸が開いて、ひょこりとすっかり見慣れた美しい顔が覗く。
「雨彦、おかえりなさい」
雨彦の姿を見つけると、途端にぱっと表情が明るくなって。嬉しそうに出迎えてくれる恋人の姿に、雨彦は身体から力が抜けていくのを感じる。
「お前さん、寝ていなかったのかい?」
「先に眠ろうかと思ったのですが、あなたがもうすぐ帰るというので」
せっかくなら出迎えてから眠りたかったのだ、とクリスは言う。一緒に暮らすようになってから少しばかり時は経ったが、今でもクリスはこうして、雨彦の帰りを待っていることがあった。
そんなクリスを見ていると、一人帰路についている間に落ち着いたはずの独占欲が、再び存在を主張する。
「古論」
吸い寄せられるようにクリスの元へと歩み寄った雨彦は、そのままクリスを腕の中へと抱き寄せた。小さく息を吸い込むと、柔らかなシャンプーの香りと、クリスの香りがする。
「雨彦?酔っているのですか?」
「ああ、酔ってるみたいだな」
「雨彦がこんな風になるなんて、珍しいですね」
少し驚いた様子のクリスは、雨彦の顔を見上げて、それからそっと背中に腕を回す。
「何か、あったのですか?」
「……そうだな。どうやら俺は、お前さんのことを独り占めしたいらしい」
「雨彦……?」
自分の話になるとは思っていなかったのか、クリスは戸惑うような声を上げて、頬をほんのりと染めた。
いつもなら内に秘めたまま隠し通していただろうことも、酒の勢いで口をついて出てしまう。クリスにはみっともない姿を見せたくないはずなのに。
「これは酔っ払いの冗談だと思って聞き流してほしいんだが」
「はい」
「時々、誰の目にも触れないように、お前さんをこの部屋の中に隠しちまいたくなるのさ」
雨彦を見上げるクリスの琥珀色の瞳がぱちぱちと瞬く。クリスに対して、雨彦の中に渦巻くこの感情を伝えたことなどなかった。
「雨彦がそんな風に思っているとは知りませんでした」
「もちろん、そんな真似はしないけどな」
「しないのですか?」
「お前さんから自由を取り上げるようなことはできないさ」
クリスにはクリスの思うのまま、自由であってほしいと思う。雨彦が独占欲で縛ってしまうわけにはいかない。
そうですか、と呟いたクリスは、何か考え込み始める。僅かな間の後、柔らかく微笑んだクリスは、雨彦の背に回した腕に少しだけ力を込めた。
「では、明日の私は一日、雨彦に隠されてしまうことにします」
「古論?」
「どこへも行かず、誰の目にも触れず、あなただけのものでいます」
ずっとは難しくても休日一日なら可能だろう、とクリスは言う。
最近はアイドルとしての仕事も増えて、オフを作るのも簡単ではない。休みとあらば朝から海や水族館に向かうクリスのことだ。明日だってそのつもりだったはずなのに。
「古論、」
「あなたがいつも私の望みを叶えてくれるように、私もあなたの望みを叶えたいのです」
そこまでしなくても良いのだと言おうとしても、クリスは首を横に振る。躊躇う雨彦に、クリスはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それに、そうしていれば、あなたがずっと側にいてくれるのでしょう?」
「……ああ、そうだな」
「ふふ、では明日は雨彦も、私だけのものでいてくださいね」
クリスが嬉しそうな顔をしてそう囁くものだから、断る理由がなくなってしまう。
「お前さん、本当にいいのかい?そうと決めたら、きっと放しちゃやれないぜ?」
「もちろんです。……私だって、雨彦のことを独り占めしたいと思うことがあるんですよ」
クリスは甘えるようにぽすりと雨彦の胸元に顔を埋める。その長い髪を手で梳きながら、明日はどうしたものかと思案する。
心の奥底に燻っていた感情は、いつの間にかどこかへ消え去っていた。