確かにそこには愛がある。4誰かと一緒に暮らすなんて初めての事だったから、最初はどうなる事かと不安半分、期待半分だった。
ココは俺の住んでる部屋はそのままにしてていい、って言ってくれたけど家賃とかも勿体無いし引き払ってきた。
その分今まで払ってた家賃分くらいはココに渡すって事になった。
ココは金なんて別に良い、って最初は頑なに受け取らなかったけどそういうのは良くないって俺も強く言ってそういう事になんとかなった。
ココにはなるべく金の負担はかけたくない。俺だって安月給だけど働いてるし、ココに金目当てとか思わせたくないんだ。
金を作る才能があるから利用されてきたココにそういうのが当たり前だと思われたくない。
だから生活費も折半。って言ってもココは1ヶ月の半分もここには居られない。
仕事で海外に居たり、国内に居てもその消息がはっきり掴める事は無い。
前日とか当日になって今日は帰れる、て連絡がつくくらいだ。
最初からそうなる事はココにも言われてたし、俺も納得した。今もそれは仕方ないと思ってる。
でも、わかってても居ないと思うと寂しかった。
今まではココが居ない暮らしに慣れていたし、居ないのが当たり前だった。
それが今はココが帰る場所に居られると思うと、一緒に過ごせる時間は凄く幸せなのにまた居なくなると前以上に寂しくなった。
ココの温もりを知ってしまったから、体も心も贅沢になっちまったんだろうな。
ココが選んできた物件は前よりかは少しバイク屋から遠くなるけど、通えない距離では無い。前に住んでた所より間取りも広くなった。
リビングとベッドルームだけのシンプルなLDK。築年数は結構経ってるから外観はボロいけど、中は綺麗にリフォームされてて現代風になっている。
大きめのクローゼットがあるけど殆どココの服で埋まってて、シューズボックスも同じくだ。
俺は元々物に拘りが無いから服も靴も最低限しか無いし、家具も全部処分してしまった。
本当にココに言われるままに身一つでここに来た。
一緒に家電や家具を選びに行ったり、折角だからってお揃いの食器もペアで揃えた。
そうやって二人で買い物に行って一つずつ揃えて行くのはとても楽しかった。これからココと俺の生活を作っていってるんだなって実感出来たし。
俺はそういうセンスとか無いし実用性しかあまり考えないから大体はココが選んでくれたけど。
ベッドだけは念入りに、ショウルームとかに直接足を運んで俺が寝転んで吟味した。
どうせ殆どが俺が1人で寝る事になるだろうし、ココも俺も身長はそこそこあるからな。
この家で一番気に入ってるのはベッドルームの半分以上を占めるクイーンサイズ。ドアを開けたら直ぐにベッドにダイブ出来て俺は嬉しいけどココは本当にベッドしか置けないなと少し不満そうだった。
スプリングも質感も良い。デザインはどうでも良かったからココが選んでくれた。
調子に乗って結構値段の張るものにしてしまった。これだけは俺が全部出す!って少ない貯金を叩いて買った。
俺が買った俺のベッドだからココはお客様として申し訳無さそうに入れと言ったら、ベッドの持ち主は俺のモノだから俺が一番偉いじゃんと屁理屈を返されてしまった。口ではココに勝てない。
本当は、きっと疲れて帰ってくるだろうから、ココがゆっくり体を休める寝心地の良いベッドがあれば良いな、って思って選んだ。
バスルームは極普通の大きさで、浴槽は男が足を伸ばすには若干窮屈なサイズだ。
一緒に入れねぇな、って冗談で言ったら近いうちにココが自腹切ってデカイ浴槽に変えるって張り切ってた。
風呂なんて一人で入った方が早いのに、って言ったらイヌピーにはロマンが無い。男のロマンがわかってねぇと呆れられた。
どうせお前、エロい事したいだけだろって言ったら恋人と風呂入ったら普通エロい事すんだろ?って真顔で返されて俺がおかしいのかって気になった。
引っ越した事はドラケンに一応報告したし、大体どの辺かくらいまでは伝えといた。
じゃないと不自然だろうし、何かあった時に困るかもしれないし。
今度引っ越し祝い持ってくよ、って言ってくれたけど家には入れられないから何とかそこは誤魔化した。
困った時は眉を下げて微笑んでおけばイヌピーの顔なら許される、ってココが言うからそうしておいた。ドラケンには捨てられた犬みたいな顔だなと笑われて頭を撫でられた。
年下の癖に生意気だぞ、って軽く肩を殴っておいた。
でも案外この方法はウザいクレーマー客やしつこい客には効果がある。流石ココだ。
一体自分がどんな顔してんのかはわかんねぇけど、その表情をすると大抵の奴らは引き下がる。クレーマーはまぁ次からは気をつけてくれればいいとか言うし、しつこい値切り客とかもお兄さんの顔に免じて許すとか言ってた。
俺は気があんまり長い方では無いからキレそうになるけど、客商売だから我慢しなきゃなんねぇ時も多い。
今まではそういう客が来た時は上手く躱せなくてイライラして見兼ねたドラケンが引き受けてくれていた。
でも最近はココの教えてくれたこの技で切り抜けられるようになった。
ココに嬉しかったから報告した日は、微妙そうな顔をされた。お前が言った癖になんだ、って思ったけどココは俺のイヌピーに惚れられたら困るからあんまりやんなよ…って。嫉妬してくれたらしい。可愛い奴め。
俺を好きだって言ってくれんのは後にも先にもココだけだと思うからそんなの要らない心配なのにな。
家に居る比率が圧倒的に俺の方が高いから家事は俺がする事になった。
掃除と料理は本見たりテレビとか見ながら何とかやれてるけど、洗濯だけは下手くそだった。
下着くらいは洗えるけど、ココの高そうな服たちは洗濯表示が厄介なもんばっかりで駄目にしちゃいそうで怖いからクリーニングに纏めて出してる。
シーツとか大きなものはココが休みの時に纏めて近くの大型洗濯機のあるコインランドリーに一緒に持っていく。
洗濯が終わるまでの時間、ココと他愛もない話をしたり何も話さないで手を繋いでぼんやりしたりする結構好きな時間だったりもする。
帰りにフカフカのシーツ抱えて近所のベーカリーの手作りサンドイッチを買って買えるのが恒例になっている。
いつか10年ぐらい後にあそこのサンドイッチ美味かったな、とかあのベーカリーの裏手でこっそりキスした事とかを懐かしく思うんだろうか。
前に一度喧嘩になったセックスをするしない、という問題も今では何だったのかってくらい俺とココは顔を合わせれば抱き合っている。
俺は全部ココが初めてだから何が間違ってて何が正しいのかもよくわからない。
もしかしたらココに都合よく変なことをさせられてるのかもしれない。
たまにだけど、目隠しされたり腕を拘束されたりするのは普通なのだろうか。ココは恋人同士ならソフトなプレイだって言うからそうなんだろう。
大体の事はココの望み通りにしてやりたいと思ってるけど、喉の奥までちんこ入れられるのだけは無理だからやめてくれって鼻水垂らしながら泣いて頼んだ。
あれはめちゃくちゃ苦しい。あんなん本当にみんな平気でやってんのか?と思う。吐きそうになるし全然良くないから好きじゃない。ココは気持ち良さそうだったから限界までは我慢したけど、胃の中身全部出そうで駄目だった。
ココのしたい事出来なくてそれも辛くてごめん、て謝ったらその後逆に嫌な事させて悪かった、って謝られて優しく抱きしめて落ち着くまでずっとキスしてくれてた。
そういう時、ココは俺の事大事にしてくれてるんだなって思う。
ココが俺を大事にしてくれなかった事なんて無いんだけど。好きで居てくれてんだなって、わかって上手く出来無くても許されて安心する。
ココとのセックスは体も心も満たされて気持ち良いから俺はどんなに眠くても、疲れててもココにしたいって求められたら直ぐにその気になる。我ながらお手軽な奴だと思う。
ココしか知らない俺が言うのも難だけど、ココは元々器用で何でも出来るしセックスも上手いんだろうな。
いつも気持ち良くしてくれるし、余裕があるし、優しくて格好良い。
俺でココが興奮して気持ち良さそうにしてくれるのも嬉しい。
今後、ココが飽きてしなくなっても良いくらい今のうちにいっぱいしておきたいなぁと思う。
そんな生活も半年と続いて、1年とあっという間に時が過ぎていった。
その間に喧嘩もそれなりにする時もあったけど、ココが家に居られる時間を思うと勿体無いなくて俺から謝ったりもするようになった。
どうしてもお互い謝れない日でも同じベッドで背中を向けて寝て、朝になればいつの間にかピッタリくっついて仲直りする。
全然普通じゃない関係なのに、俺とココの二人だけの日常は自然で穏やかだった。
色々悩みながらも最終的には勢いで押し切った俺とイヌピーの半同棲生活。
10代の頃もよく一緒に寝泊まりしてたけど、帰る家は別々だった。
それが今は帰る家が一緒。家に帰るとイヌピーが居る生活。
仕事ん時は徹夜してソファーで仮眠とか、ホテルに泊まるのが常だったしどうせ何処かに長く留まる事も無いから決まった家は何年も無かった。
そんな俺に帰る家が出来て、自分以外の人間と住む事になるのは少し不思議な感覚だった。
細かいルールとかイヌピーと俺との間では今更だからその辺は臨機応変にって話し合って決めた。
家具類はイヌピーが拘りなさ過ぎて俺が選んでしまったから殆ど俺の趣味みたいな内装になった。
家事はイヌピーの方が家に居る時間が長くなるし俺が頑張るって張り切ってたけど、最初は心配した。案の定イヌピーは洗濯を失敗して俺のニットを縮めてくれた。
それから洗濯は下着とかちょっとした物以外は全部クリーニングに出して、リネン類とか大物は俺が休みの時にイヌピーと一緒にコインランドリーに持ってく事に決まった。
近所にもっと大型の新しいカフェの併設されてるコインランドリーがあるから殆どの人はそこに行く。
お陰でよく俺達が行く方の店は殆ど人気も無くて都合が良い。
ベッドが大きいからシーツもそれなりの大きさで家では洗えないし干す場所もない。コインランドリーのデカイ洗濯機に突っ込んであとは待つだけ。
その間に俺とイヌピーは会話したりしなかったり、見つめあって頬を寄せて、二人きりの空間でただ手を繋いで缶コーヒーを飲む。
コインランドリーでデートする反社って図が笑えるなと思ったけど、案外イヌピーとのんびり出来てちょっとした幸せを感じれる時間になった。今後も続けて行きたい。
料理の方はイヌピーもひとり暮らししてたしそこそこ、男の料理って感じの切って炒めるかカレーかみたいなのを作ってくれる。
野菜がデカかったり味付け濃いめだったりな豪快な料理。外食多い方だったし自分で作るのは面倒だからやって来なかったけど、まさかイヌピーの手料理食える日が来るとは思わなかった。
昔はイヌピー本当に料理なんてしなかったし、俺がたまに炒飯とか簡単なもん作ってやってたくらいだったからな。
俺の体の事考えてくれてんのか最近はサラダとか添えてくれる。イヌピーからの愛情を感じられて密かに嬉しかったりする。
他人が見たらままごとみたいに見えるかも知れないが俺はこの生活が気に入っている。
そうは言っても仕事上、月の半分も帰れないしイヌピーにもあまり構ってやれないけど。
その分、帰ってきたらめちゃくちゃイヌピーを構い倒している。イヌピーがたまにウザそうな顔してても気にせずべったりしてる。
邪魔とか口で言う割に俺がちょっと仕事の為にパソコン開いてるとイヌピーの方から抱き着いてきたり、膝に転がって来るからイヌピーなんてあだ名なのに猫ぽくて可愛いんだよな。気まぐれな所とか。
思いの外、俺達は穏やかで順調な付き合いをしている。
考えてみると、俺は特定の誰かと付き合う事が無かった。
10代の頃は赤音さん以外考えられなかったし、イヌピーと離れてからは恋愛なんてどうでも良くて面倒にすら思ってた。
こういう世界に居て特定の誰かと付き合うのだって難しい。それが弱みになる場合もあるしな。
愛の無い性行為だって仕事の付き合いとか酒の勢いで何度もしたし、あんなもん何も考えなくても出来るから。初めてがどうだったかも覚えてない。
それをイヌピーが同じ事してきた、セックスなんて大した事無いとか言ってきたら俺はキレるけど。俺は良いけど、イヌピーはそういう事したら駄目。
イヌピーには俺だけで良い。勝手だと思われるかもしれないけど好きな奴の初めては自分が良いと思うのは男の性だ。
有り難い事にイヌピーはそういう事に全く疎くて興味が無いまま、綺麗な体で居てくれた。
あの顔なら言い寄る女がいても不思議じゃないのに。イヌピーそういう関係全く疎いから多分殆ど気付いてないだけだろう。
それに、初めての恋人。そういう意味では俺もイヌピーだけだからな。
心配はしてなかったけど、俺とイヌピーは体の相性も良い。
全くその手の経験が無かったイヌピーは俺のする事をあまり疑わないし、俺もそれはそれは丁寧に抱いてる。
色々試してみて何がイヌピーを悦ばせられるのか、何が嫌なのかもちゃんと考えている。こんな事するのは勿論イヌピーにだけだ。
イヌピーも性欲は割とある方だから顔を合わせればイチャついてる流れで大体ヤッてる。
部屋のいたる所で猿みたいに盛ってヤッた事もあるし、1日中ベッドから出ないで自堕落に求め合った時もある。
イヌピーは体力あるからな。
あまり会えなくてもこんだけヤッておけば浮気の心配も無いだろう。
それだけじゃなく、キスをして体を重ねると愛おしい気持ちも強くなる。こんなん、離れられなくなりそうだなと思うけど。
朝になっても先に起きてるのはイヌピーの方が多くて、朝食作って起こして貰えるのも同棲してるなって感じがして良い。
朝食食べ終わって二人でテレビ見て、俺の横で夜の余韻を引きずった眠そうな顔で微睡むイヌピーを眺めるのも好きだし。
いつでもキスしたい時に出来る距離に居るのも良いなと思う。
俺がまた仕事で数日家を開ける時も、物凄く寂しげな顔して見送ってくれるイヌピーも、寂しがってくれてる所悪いけど可愛いくて。
そんな風に俺とイヌピーの秘密の生活はそのまま数年続いた。
イヌピーと一緒にこの家で過ごす時だけは、何もかも考えずに俺は俺で居られる気がした。
こんな何の形にも出来ない、明日には何かが起きて無くなっているかも知れない。幻のような時間がまるで何処までも続いていくような。錯覚を覚えるくらいに。
俺とココの関係に変わった事は無いまま、数年の月日が過ぎていた。
気付けばもう30歳も目前。
ドラケンと経営するバイク屋も順調で、周囲の人間たちも結婚する者も居れば海外に拠点を移す奴も居た。
仲間の結婚式にも何回か出席したし、子供の顔を見る事も出来た。
ドラケンは一緒に居るようになってから解ったけど、物凄くモテる。ドラケンに渡してくれと託されたラブレターの数も結構なものだった。
客もドラケン目当てな人が多いし、男からもドラケンと同じバイクが欲しいなんて注文が入ったりする。
俺から見てもドラケンは面倒見が良くて頼りがいもあるし、良い男だと思う。
そんなドラケンが未だに彼女も作らないで結婚もしない理由を俺や付き合いの長い奴らは解っているからそこには特に触れないでいる。
ドラケンもそういう話はやんわり断るから。そこで終われば良い話なのにお節介焼きのおじさんおばさんはターゲットを俺に移してあれこれ喧しく言ってくるから困る。
良い歳した独身の男二人でずっとバイク屋経営してるのは、考えてみたらちょっと変わってるのかもしれない。
だからといって、結婚しろ彼女を作れなんてプライベートな事まで踏み込まれるのは俺はあまり好きじゃ無かった。
そういう話を持ち掛けてくるのは大抵、常連客で商店街の委員をやってる人とかも居て無碍にするのも難しい。
この間はとうとうお見合い写真まで押し付けられた。会うだけで良いから、と何度断っても強引に置いて行かれて途方に暮れた。
ドラケンが居る時ならいつもフォローして上手く断ってくれてたけど、俺一人だと断り切れなかった。
俺は口が悪いからあんまり下手に話さない方が良いと思って、困ります、って言うのが精一杯だった。
俺は別に高収入でも無ければ学歴も無いし、顔に目立つ痣だってある。こんな男と見合いさせられる方も気の毒だと思わないのかって事を遠回しに言ってみたけど、おばちゃんって奴は人の話を聞かないし押しがとにかく強い。
乾くんなら男前だし、男の顔に傷の一つや二つあっても気にならいわよ。見てみるだけでもお願いね!って俺の背中を強めに叩いてサッサと出て行ったおばちゃん。
バイク1本だけじゃ経営も厳しいからと自転車の販売や修理なんかも始めたあたりから、本当にこういう話が増えた。しかも自転車は定期的に買っていってくれるし他の客も紹介してくれるから強く断れない。
結婚なんて考えた事も無いし、俺にはココが居る。それを言えれば良かったけど、ココとの事は絶対誰にも話せないから聞かれたら独身だと答えるしか無かった。
恋人が居ると答えようものならどんな相手なのか根掘り葉掘り聞かれるのも想像がつく。あのおばちゃんの強い勢いに飲まれてぽろりと余計な事を言ってしまいそうで怖いから絶対に黙っておきたい。
店先のカウンターに置き去りにされた見合い写真。興味も無いが、こんな所に置いておく事も出来ない。
仕方なく俺はそれを持って帰る事にした。
だけど本当に興味が無かったから、写真を一度も見ないまま部屋の何処に置いたのかも忘れてしまっていたのだ。
その事を俺はとても後悔する事になる。
最近のココは仕事の方も詳しくは聞かないけど、落ち着いているようで前に比べたら家に居る事が多くなった。
家に居ても殆どパソコンとスマホを手にして、新聞や経済誌なんかも見てる。
あんまり構って貰えないのは少し寂しいけど、ココが側に居てその顔を見てられるから嬉しい。真剣に難しい本を読んでる時や集中してる時のココの顔はすげぇ格好良いから見てて飽きない。
何年もこういう関係になってから時が経ってるというのに、相変わらず俺はココに惚れている。恥ずかしいからあまりココにそういう事は言わないけど。
その日も店を閉めて夜帰宅したらココが出迎えてくれて、ちょっと嬉しかった。
ドア開けたらおかえり、ってココが笑いかけてくれんのなんて滅多に無い。
「ただいま、今日は仕事はもういいのか?」
リビングのテーブルの上にいつもなら並べてあるココの仕事道具のパソコンやら何やらは綺麗に片付けられている。
最近は大分伸びて明るくなった手入れの行き届いた髪を後ろで括りながら、ココは今日はもう終わりだから飯食おうぜって言ってくる。
「夕飯ココが作ってくれたのか?」
「簡単なパスタとサラダだけどな。」
「嬉しい、美味そうな匂いする」
「手洗って着替えたら夕飯な」
ココの久しぶりの手料理は嬉しい。料理は俺の担当だし、前よりは多少レパートリーも増えたけどココの料理の方が絶対美味い。
「イヌピー、忘れ物」
洗面所に行く途中でココに呼び止められて振り返ると、唇にちゅっと触れるだけのキスをされる。
おかえりのキス、なんてなと笑うココ。今日はいつもよりも機嫌が良さそうだ。つられて俺も笑ってしまう。
洗面所の前で俺もすっかり伸びた髪を適当にゴムで括ってうがい手洗い、ついでに顔も洗った。
髪は邪魔だな、と思うけどココが長いのが見たいっていうから伸ばしてる。
俺はそういうのマメじゃないから手入れとかそういうのはココがしてくれてる。
そのお陰かわからないけど、結構髪の毛を褒められる事が多い。
ココにも好評なので今の所切る予定は無い。
部屋着に着替えてココが用意してくれた食事を二人で食べ始める。
器用なココが作ったパスタの具材は野菜が均等に切り揃えられていて見た目にも美しい、野菜たっぷりのトマトパスタだった。
味も俺は大体目分量で大雑把な感じになってしまうのに対してこのパスタは口に入れて咀嚼すると旨味が滲み出て味が変わっていく感じがして美味しい。
美味い美味いと言いながら食べる俺にココは口にあったなら良かったと笑う。
ココは食べる量が多いけど、食べ方が綺麗で食べ終わった皿もいつも綺麗だから洗い物がしやすい。
俺は口に放り込めるだけ放り込んで食べる方だから子供っぽい食べ方だと誰かに笑われた事があった。
流石にそれなりのレストランとか行く時は俺だって空気読んで気を付けてるけど、普段の俺の食べ方をココは見てて気持ちが良いって言ってくれる。
そういや、今日のココはいつもより機嫌が良い。
仕事が上手くいったんだろうか。ココが楽しそうだと俺も嬉しい。
「ココ、今日機嫌良さそうだけど何かあった?」
サラダのレタスにフォークを突き刺しながら会話の合間にそう聞いてみるとココはそうか?と首を傾げて何も無いけどと答えた。
「いつもより笑ってる感じしたから何となく、良い事あったのかなと思って」
「良い事か。どうかな…良い事なのかもしれないな」
いつの間にか皿の上が綺麗に片付いているココがそう呟く。
その表情は笑っているけど、どことなく憂いがあるように見えて様子が変だと俺もフォークを置いた。
そんな俺をチラリと見るとココは立ち上がってリビングの方へ歩いて行った。
テレビ横のDMやポストに届いていた手紙なんかを入れてあるブックスタンドの所まで行くと、何やら白い表紙の冊子のようなものを手にして戻ってくる。
それが目に入った瞬間、俺はそれが何か思い当たって…というか今の今まで忘れていたそれにあっ、と短く声が漏れた。
ココに見られて困るもの、というか何となくそんなものを見せてしまうのは気まずい。
「イヌピー見合いすんの?」
食卓の上にスッと置かれた見合い写真。
この間、常連のおばちゃんに無理矢理押し付けられてしまったものだ。
正直今の今まで本当に綺麗さっぱり忘れ去っていた。
「しないけど…」
そんなものする気も無いし考えても居なかった。
けど、ココにその事自体を知られるのが何だかとても気まずい。
どう言い訳をしようか、どう説明したものか。何を言っても変な空気になるのは間違いない。
恐る恐る顔を上げてニコッと笑うココと目が合う。
いや、これ機嫌良いとかじゃねぇな。とそこでやっと鈍い俺も悟る。
「何で、すれば良いじゃん。悪い話じゃないんだろ?」
「そんな気無いし。その事も本当に忘れてた」
「見てないの?結構良さそうな感じだぜ?イヌピーにお似合いかもな」
そう言いながらも手にしている見合い写真を開いて見てまるで興味の無さそうな顔をしている。
年齢はイヌピーより2歳下か、ちょうど良いんじゃね?とか家柄的にもそこそこだし釣り合い取れてるだの、結婚式には流石に俺も行けねぇなだのとココはまるで俺の見合い話に乗り気のように次々と言葉を放つ。
「ココ…怒ってんのか?」
「俺が?なんで?イヌピーが普通に結婚して幸せな家庭築けんなら何よりだろ。」
応援するぜ、とまで言いながら俺の方へ見合い写真を渡そうとしてくる。
それを払い除けるように突っぱねるとココは何でも無いようにそれをテーブルに置いて、コーヒーでも淹れるかなんて呑気な口調で言った。
一体どういう感情で居るのか、全く読めない。
昔からココはポーカーフェイスが得意で相手に自分の感情や思考を悟らせ無いようにする奴だった。
それでも俺には何となくココが今どう思ってるのか、悲しんでたり苛ついてたり、楽しんでるのかぐらいは気付けた筈なのに。
今はココの考えが全然わからなかった。
そういう駆け引きが当たり前の世界に居るであろうココは、いつから俺にさえ本心を見せなくなったのだろうか。
今更そんな事に気付いて、怖くなる。
ココと好き合って今までこの生活を何年も続けて来られたと思い込んでいるだけだったのだろうか。
だって、俺ならココに見合いの話とか他の女と所帯を持つ話があったら普通では居られない。
況してや応援するだなんて、口が裂けても言えないだろう。
「まあ、良い人そうだし会うだけ会ってみりゃ良いんじゃん」
どこの世界に仮にも同棲までしてる恋人の見合いの後押しをする奴が居るんだろうか。
何を思ってそう言うのか、まるでその心境はわからないがそんな反応をされるのは嫌な気分になった。
何も嫉妬して欲しいだのとそんな子供じみたことを思ったわけじゃない。
だけどこういう状況で他人事のように恋人の口から話される内容でもない。
少なくとも俺の感覚ではそうだし、自分の好いてる相手が別の人間と一緒になる事を手放しで喜ぶ感覚もわからなかった。
「…するわけねぇだろ、そんなもん」
「えー?勿体無いせっかくの話じゃん」
「お前、本気でそう言ってんのか?」
「はは、何怖い顔してんだよ」
相変わらずイヌピーはわかんねぇな、と笑みを顔に貼り付けたまま電気ポットから湯をマグカップに注ぐ音が響く。直ぐに嗅ぎなれたインスタントコーヒーが香りがしてくる。
食後のいつもの光景なのに漂う空気は複雑で、今にもバラバラと崩れてしまいそうだった。
「ココは俺が知らない女と見合いして結婚しても構わないって思ってるのか?」
どういう言い回しなら気まずく無いのかとかそういう事を考えるのは今も昔も苦手だった。
相手の本心が見えない以上、俺はそれを直接的な言葉で聞くしか無い。
「そういう道をイヌピーが選んでも仕方ねぇなと思ってるよ」
口調こそ穏やかだったが、その言葉は突き放すようにも投げやりなようにも思えた。
仕方ない、なんて言われてざわざわと胸の辺りが落ち着かない。
仕方ない、で済む話だったのか。ココにとって俺の見合い話は。
俺はどうして欲しかったんだろうか。もっと怒ったり、理由を聞いたりして欲しかったのか。それとも笑い飛ばして欲しかったのか。
何れにせよ、ココに肯定されたい話では無かった。
「…ココに取ってはそうなのかもな。俺がこの先誰と結婚しようが付き合おうが仕方ねぇ、で終わる話なんだろうな」
「まあ実際仕方ねぇ事だし、つか、何機嫌悪くなってんの?俺が引き留めたりしないのが不満か?」
は、と鼻で笑われて、言われたそれが俺の心境を見透かされたみたいでカッと顔が熱くなった。
羞恥と怒りと悲しいような、虚しいような色んな感情で胸の内がぐちゃぐちゃになっていく。
ココの言う通り、俺はココに肯定して欲しく無かった。引き留めて欲しかったんだろう。
写真を放置していた事は決してわざとじゃなかったけど、それを見つけてココが怒るでも問い詰めるでもなく真逆の反応をしたのがショックだった。
「勘違いすんなよ、イヌピー。こんなのずっと続けられるわけじゃねぇんだから」
考えないように、見ないようにしていた現実を突きつけられる言葉だった。
この数年間、普通じゃない関係なのに日常的に続いていくココとの日々がいつの間にか普通になっていた。
そんなに大それた事じゃない。ただココと些細な事で笑い合えるようなそんな日々が続くものだと当たり前のように思ってた。
それが許されるものだと思い込んでいた。
「イヌピーは天然だし、鈍いしわざとじゃないってわかってるけど。俺だって良い気はしなかったよ。こんなもん見つけてさ」
テーブルの上に放置された見合い写真を一瞥するココはもう笑っては居なかった。
そこでやっと自分の迂闊さがココを傷つけていたのかもしれないと思い当たる。
笑って切り出されたからって、ココがそれを良く思ってるわけが無い。そんなの当然だった。
俺はココに謝ってちゃんと訳を話せば良かった。押し付けられた時に、面倒がらずに好きな人が居るって断れば良かった。
ココがいつも俺に優しくて、何でも受け止めてくれていたから甘えていた。
こういう物を二人が住んでる部屋に持ち込む事自体が最低だった。
「…ごめん、ココ。俺が悪い。こんなものさっさと突き返すべきだった」
本当になんて馬鹿な事をしてしまったのかと、後悔しても今更でさっきまで見当違いにココに怒っていた自分が恥ずかしくなる。
明らかにいつもと様子が違ってたココの事をもっとちゃんと考えるべきだった。
俺の事を好きだって言ってくれる相手に対して不誠実な事をしてしまった罪悪感がジワジワと広がってきて、ココと目を合わせられなくなってくる。
「もういいよ、俺も嫌味な言い方したと思う。ごめんな。」
「違う…ココは何も悪くない」
「んな顔すんなよ、イヌピー。な、もうこの話は終わりな。明日休みだろ?せっかく休み重なったんだしどっか行こうぜ」
なかなか被らないせっかくの休日なんだから、もう仲直りなってココから譲歩してくれる。
俺が多分そうさせてしまった。
俺だってココと喧嘩なんてしたくないけど、このままあやふやになってしまって良いのだろうか。
そう思ってココに何か言おうとしたけど、ココはもうその事について話を続けるつもりは無いようで明日どこに行く?と何事も無かったみたいに振る舞う。
俺も考えが纏まらなくて、今は何を言っても上手く行かなそうでその夜はこれ以上俺とココの深い所の話はしなかった。