「京極さん、本当にありがとうございました」
すっかり用務員室に馴染んだ様子の志波は、そう言って京極に頭を下げた。
「俺はたいしたことはしてねえよ。志波先生の言うように、ちょいとあの不良教師を突いてやっただけさ」
コーヒーを片手に答えた京極も、いつの間にか志波がここに来ることが当たり前になってしまったように感じる。
だがそれも今日で終わりなのだろうと思うと、ひどく名残惜しく思えた。
あれはいつのことだったか。いつものように用務員室でのんびりと過ごしていた京極を、志波が神妙な面持ちで訪ねてきた。
志波とは仕事でやり取りをすることはあるが、あくまでもそれだけの仲だった。志波が用務員室にやってきたことだって一度もない。
思わぬ来客に驚く京極に、志波は挨拶もそこそこに、化野とはどういう関係かと聞いてきた。予想だにしなかった質問に、驚きのあまりコーヒーをこぼしそうになったのを今でも覚えている。
あらぬ誤解を受けている、と慌てた京極が話を聞くと、加賀が化野に想いを寄せていると知って、それを応援したいのだという。そして化野が京極と仲が良いので、まずは京極に二人の仲を確かめに来たようだった。
「京極さん、よければ自分に協力してくれませんか?」
化野とはただの腐れ縁だと説明すると、安心した様子の志波は、そう頼み込んできた。
その頼みに頷いてしまった理由は、退屈しのぎと好奇心が大半。だが、他人の恋を本気で叶えてやりたいのだという、志波の真剣な様子に絆されたというのも、なかったといえば嘘になるだろう。
そうして京極と志波は、密かに協力関係になった。協力するとは言っても、京極がやったことといえば、化野にそれとなく探りを入れたり、誘導したりといったところだ。あとは化野がいないタイミングを見計らって作戦会議にやってくる志波に、コーヒーを出してやったくらいだろうか。
志波は気づいていないようだったが、意識して目を向けてみれば、化野が加賀に気があることはすぐにわかった。京極が敢えてそれを志波に伝えなかったのは、それで一件落着となってしまったのでは面白くないと思ったからだ。
後に京極は自分のその選択に感謝することになる。いつしか京極は、もう少しこの時間を続けたいと思うようになっていた。化野と怠惰に過ごす時間とは異なる、京極のもう一つの秘密の時間は、いつの間にか京極にとって特別なものになっていたのだ。
だが、想い合う二人というのは、なんやかんやで収まるところに収まるものだ。
「加賀先生が!化野先生と結ばれたと!」
そう言いながら用務員室を訪ねてきた志波は、喜びのあまり抱きついてきそうな勢いだった。
すっかり京極のことを信頼してしまった様子の志波は、協力関係である京極にだけは、二人の進展を教えてくれる。もちろん京極も他人の恋愛事情を吹聴する趣味はないのだが、こんな男をよく信用したものだと、志波から話を聞くたびに思わず苦笑してしまった。
そうして祝いの一杯だと言いながら、いつものようにコーヒーを出したところで、志波は京極に頭を下げてきたのだった。
「京極さんにもいろいろとアドバイスしてもらって、助かりました」
「まあ、あの不良教師のやりそうなことなら、多少はわかるからね」
答えながら、京極はこれからどうしたものかと思案する。
化野と加賀の件が解決したということは、この協力関係も終わりになるということだ。
だがこの時間を、志波をこのまま手放してしまうのは惜しい。くるくると素直に表情が変わる志波は見ていて飽きなくて、このままずっとここに留めておきたいとすら思ってしまうのだ。
京極がそんな風に考えていることなど知らずに、志波は嬉しそうにコーヒーを飲んでいる。
二人きりの用務員室、手を伸ばせば触れられる距離。自分と京極の間には何も起こらないと思っているであろう志波は、少し面白くない。
思い返せば、志波に協力するようになってから、化野や加賀ではなく、志波を目で追うようになっていた。生徒に慕われ囲まれている姿も、遅くまで職員室に籠もり仕事に没頭する姿も、見かける度につい眺めてしまう。化野と加賀に当てられて、自分も恋をしてしまったのだろうかと考えると、驚くほどすんなりと腑に落ちて。
「……なるほどな」
ぽつりと呟いた京極に、志波が少し不思議そうな顔をする。
「なあ志波先生」
「どうしました?」
「俺もあんたのことが欲しくなっちまった」
そう告げると、ぱちり、と志波の目が瞬いた。
理解が追いついていない様子の志波をテーブル越しに引き寄せて、顔を間近に近づける。もう少しで唇が触れそうな距離に、志波の顔が一気に赤くなった。
「京極、さん……?」
「いいのか?逃げねえとこのままキスしちまうぜ?」
そうは言っても、志波が逃げようとしたところで、おとなしく解放してやれる自信はない。好きだと、欲しいのだと理解したら、もう自分を止めることができなかった。
直接的な言葉にやっと状況を理解したらしい志波は、戸惑うような、慌てたような表情をする。そんな様子すらもかわいくて、気長に待ってあげることはできなさそうだ。
「俺のものになってくれよ、志波先生」
もう一度そう告げると、志波は少し目を泳がせた後、受け入れるように静かに目を閉じた。
「……後悔するなよ?」
拒む様子がないのなら、止める理由はない。そのまま唇を重ねると、ぴくりと志波の肩が揺れる。
触れるだけのキスで既にいっぱいいっぱいな様子の志波に、自然と笑みが浮かんだ。
「自分で言っておいてなんだが、こんなにすんなり受け入れられるのは予想外だったな」
一度志波を解放して座り直す。真意を探るようにそう伝えると、顔を赤らめたままの志波がおずおずと口を開いた。
「……実は、このまま京極さんとの関係が終わってしまうのは寂しいなと思っていたんです。だから、またこうしてコーヒーを飲みに来てもいいか、聞こうと思ってました」
志波の言葉に、今度は京極が驚く。京極がこの関係の終わりを惜しんでいたように、志波も京極との関係を続けたいと願っていたのだ。
「もちろん加賀先生を応援したくてやっていたことですけど、こうやって京極さんと話すのも楽しくて。だからここに来ていた、というのもあるんです」
「へえ、そりゃあ嬉しいね」
「京極さんの言葉はびっくりしました。でも、それ以上に嬉しくて、京極さんならいいなって、思って。……これも好きってことでしょうか」
照れたように笑う志波に、また触れたいという衝動が首を擡げる。一度自覚した感情は、どうにもブレーキをかけるのが難しい。
「あんまり煽られると、帰してやれなくなりそうだ」
「自分は京極さんといられるの、嬉しいですよ?」
そう答える志波は、京極の言葉の意味をわかっているのだろうか。
志波との関係は、まだまだ道のりは長そうだ。だが今はこれで良しとしよう、と京極はすっかり冷めてしまったコーヒーに手を伸ばした。