疲れ切った身体が鉛のように重い。
一日がかりの単独仕事を終えたクリスは、暗い面持ちで雨彦と暮らすマンションのエントランスに入った。
一人の仕事にも、多少は慣れたつもりだ。今日の仕事だってちゃんとこなせたと思う。
だが時折受ける、クリスを敵視する同業者からの心ない言葉には未だに慣れない。今日の現場にはたまたまそういう人がいて、投げかけられる言葉はクリスに重くのしかかった。
結果、仕事の疲労も相まって、クリスはすっかり意気消沈してしまったのだ。
オートロックを解除して、エレベーターに乗り込む。部屋のある階にたどり着くまでの僅かな時間すら待ち遠しい。
家に帰れば、雨彦がいる。今は一刻も早く、雨彦の姿が見たかった。
「おかえり、古論」
物音に気付いたのだろうか。クリスがドアを開けると、そこには出迎えるように雨彦が立っていた。
「雨、彦」
「疲れただろ。真っ直ぐ帰ってくるって言うから晩飯を用意してあるが、食えそうかい?」
そう言って、雨彦はとびきり優しく笑う。そんな恋人の姿に、クリスは一気に身体の力が抜けるのを感じた。
「雨彦、これは……?」
荷物も上着も雨彦に取り上げられてしまったクリスは、おとなしくリビングへ向かった。
クリスが事前に帰宅時間を連絡していたからか、ダイニングテーブルには既に料理が並んでいる。
だが、ただの夕食にしては品数が多い。クリスが好む魚料理もしっかり並べられている。
何か重要なイベントを忘れてしまっているだろうか。クリスは内心ひやりとしながら、リビングに戻ってきた雨彦に声をかけた。
「お前さんに元気がなさそうだと思ったら、少し力が入りすぎてな。冷蔵庫のものを使い切っちまったから、明日買い出しに付き合ってくれ」
「待ってください、どうしてわかったんですか?」
仕事を終えた直後に、クリスは確かにいつものように雨彦に連絡をした。だがそれはあくまでも帰宅を告げるためのやりとりで、今日あったことなんて一つも伝えていないのに。
不思議そうな顔をするクリスに、雨彦もなぜかきょとんとした顔をする。
「お前さん、もしかして無意識かい?」
「え……?」
そう言われても、まったく見当もつかない。クリスの反応に、雨彦は言うか言うまいか迷うように視線を泳がせる。
「雨彦、教えてください」
「……お前さん、仕事で何かあった時は、俺が家にいるかどうかを聞いてくるだろう?」
そう言われて思い返すと、確かに今日も帰る時間を伝えながら、雨彦が今家にいるのかどうかを尋ねていた。過去も、そうしてしまっていたような気がする。
それで慰めてもらおうなどと考えているわけではなかったのだが、雨彦のいる家に帰って安心したいという気持ちは、抑えきれていなかったようだ。
自覚すると、じわじわと顔が熱を帯びてくるのを感じる。
「気づいてませんでした……」
「俺としては、お前さんが元気がない時にすぐに気づけるのはありがたい。これからもそうしてくれ」
そう言って笑う雨彦は、クリスの頭をぽんと撫でて、その手を取った。
「さて、立ち話もなんだ、座って飯を食おう。それから、何か俺にしてほしいことはあるかい?」
「してほしいことですか?」
「今日はお前さんのことをうんと甘やかしてやろうと思ってな」
雨彦は、どこまでもクリスに甘い。その優しさにじわりと胸が熱くなって、クリスは思わず雨彦に抱き着いた。思ったよりも勢いがついてしまったが、それでも雨彦はしっかりと受け止めてくれる。
「雨彦、だいすきです」
「嬉しいことを言ってくれるな」
俺もだ、と耳元で囁かれるのがくすぐったい。
帰ってくるまでの落ち込んだ気持ちは、とっくにどこかに消えてしまったが、それは雨彦には内緒にすることにした。