透明な花 〈大いなる厄災〉の傷をなんとかしたい、という話はよく聞いていた。触れるまで人が見えないというその傷は、痛みこそないようだが、何をするにも不便だということは想像に難くない。
例えば、声だけが聞こえるときに強く意識したら見えるのではないか。もし触れたあとすぐに眠ったらどうなるだろう。逆に、眠らずにいたらずっと見えるままなのではないか。カインなりにいろいろと考えて試しているようだった。
「あとは、意識のないときに触れられたらどうなるのかは気になるな」
「意識のないときと言うと、眠っている間とか?」
「ああ。でも扉を開けた音で起きちまうから無理かと思って、試してないんだ」
「そうか。眠りが浅いのかな」
「騎士団の頃に染み付いた習性みたいなものだな。野営のときなんかは命に関わるから、生き物の気配が近付くだけで目が覚めるんだ」
そして世間話のように語られたカインのその言葉は、アーサーの好奇心を大いに掻き立てたのであった。
翌朝、──というか明け方ですらない、言うなれば未明だ。
アーサーはすっかり寝静まった魔法舎の中、とある部屋の前で立ち止まり、少しだけ耳をそばだてて室内の様子を伺った。聞き耳を立てるくらいでは実際は何もわからないのだけど、きっと寝ているだろうという希望的観測をもとに、アーサーはその部屋の扉を、ゆっくりと、開けた。
ノックもせずに人の部屋に入ることなんて普段はしないが、今日だけは特別だ。今日だけ、になるかは部屋の主次第かもしれないが。
アーサーがベッドサイドに立っても、部屋の主、すなわちカイン・ナイトレイはまだ眠ったままのようだった。
扉の開く音で起きてしまうと言っていたので、慎重を期して音を吸収する魔法を使った。気配でも起きると言っていたが、そこはあえて何もしないでみた。
何よりアーサーの気配でも起きてしまうなら、カインが本当の意味で安らげる場所などないような気がして、試してみたい気持ちもあった。試しているのはカインでもあり、アーサー自身でもある。主君として、友人として、ほんの少し意地を張ったのかもしれない。
寝顔がよく見えるように、膝をついて覗き込む。
思い返せば、カインの寝顔はあまり見たことがないかもしれない。どんなに疲れていても、カインはうたた寝をするようなこともなかった。だからこれは、とても貴重なのだろう。そう思うと、まるで見てはいけないものを見ているような背徳感と、そして少しの悪戯心が生まれてくる。
何か驚かせるようなことをしてみたい気持ちを抑えつつ、アーサーはカインの手に触れた。
途端にカインは身じろぎをして、重たいまぶたを持ち上げたかと思うと、すぐにアーサーの姿を認めて開けたばかりの目をさらに見開いた。
「わっ……、えっ、殿下……?」
「本当に起きてしまうのだな。驚いた」
「驚いた、のは俺のほうだ。もしかして、昨日の話か?」
「ああ。早速試してみたいと思って、忍び込んだ」
「そ、そうか。おはよう、なのかな、アーサー」
「おはよう、カイン」
何か驚かせるようなことをしてみたい、というのは図らずも成功したようだ。ただ、あまりにもすぐに起きてしまったので、残念でもある。
「もう少しおまえの寝顔を眺めていたかったよ」
「……やめてくれ、面白いものじゃないだろ」
「ふふ、どうだろう」
カインはアーサーの前では特に格好付けたいようだから、無防備な寝顔を見られるのは不服なのだろう。拗ねたような物言いは、まるで自分のほうが大人になったようで気分が良い。
「……こんな早朝から、いや、夜中なのに、ご機嫌ですね、殿下」
「おまえだって、私が口を尖らせると嬉しそうにするだろう」
「はは、まあ、そうだな」
ふと、カインは何かに気が付いたように視線を動かして、少し目を伏せた。
いつもは大輪の夏の花を思わせる活気のある笑い方をするのに、まるで夜露に濡れる透明な花のように、静かに微笑んだ。
「……それにしても」
触れたままだった手を、ぎゅっと握られる。
先ほどまでの子供じみた雰囲気が嘘のように、低くひそめた声は大人の男のものだった。
「いつもなら部屋に入られる前に起きるのに……。アーサーだからかな」
「そうだったら良いなと思うよ。何度か試したら、触っても起きなくなるかもしれないな」
「……そうだな」
カインは満ち足りた顔で笑って、アーサーの手を引き寄せた。
カインはたまにこういう顔をする。あまりにも嬉しそうに、満足そうにアーサーを見つめるから、そのたびにアーサーは、胸のうちに木漏れ日が差すような、それでいて強い光に焼かれるような心地になって、目を合わせることができなくなってしまう。
「なあ、アーサー。まだ夜中だろ、眠くないか?」
「そう言われれば、眠くなってきた」
「……このまま朝が来て、またアーサーが見えなくなったら」
「さみしい?」
「……ああ。さみしいよ、すごく」
世界は未だ夢の中。
まどろみに誘われるままに、その腕の中に潜り込んだ。