終わりなき雪の日に 雪の降らない冬は、久しぶりだった。幼い頃のことはあまり定かではないので、ほとんど初めてと言ってもいい。北の国では冬だけではなく一年中雪が積もっていたし、きっとこの国でも冬が来れば雪が降るのだと思っていた。
明け方、こっそりと窓から部屋を抜け出して地面に降りると、しゃり、と細かな氷が割れる音がした。霜柱だ。厚い雪に覆われた北の国ではあまり見ないそれの上を、軽快な音を立てながら歩くのは好きだった。
中央の国では、一年を通して葉を落とさない木があった。冷たい風の中でも健気につぼみを広げる花があった。どんなときでも街には活気が溢れていて、子どもたちはコートを脱ぎ捨てて駆け回っている。
この国が、愛しい。生まれた国。希望を失わず、懸命に生きる人々の暮らす国。美しい風景、明るい人々。穏やかな風、古い遺跡、暗い森、乾いた砂漠、朝露にきらめく草原。
およそ人間の望むもの、そのすべてがある。この国は、きっと完璧なのだ。完璧なのに、それなのに、足りないと思う。
激しい吹雪、険しい雪山、見渡す限りの雪原。月が雪に反射した、明るい夜。
銀色の雪と、その影の青。冷たい景色の中に浮かぶ、鮮やかなオーロラ。
あの頃は、それが全てだったのに。
「アーサー様?」
しゃり、しゃり、しゃり。霜柱を踏み歩いていると、後ろから声がかかる。もう誰かに見付かってしまった。ああ、なんて憂うつなんだろう。こんな時間にひとりでなにをしているのかと、きっと叱られるのだ。
「おはようございます、アーサー様」
「あっ、……カインか。おはよう」
そこにいたのは小言を言う家臣ではなく、快活に笑う騎士団長だった。
カインがいると、アーサーはいつも少し安心した。広い城の中でこの男だけが唯一、アーサーのことを年相応の少年として扱っているような気がするのだ。
「お散歩ですか?」
「散歩か、そうだな。霜柱を、踏んでいたんだ」
「ああ、わかります。俺も未だにまだ誰も踏んでいないところを選んで歩いたりしますよ」
「カインも?」
カインは笑って、アーサーの隣に並んだ。手を差し出されたので、大人しく従うことにした。侍女たちが起こしに来る前に、部屋へ戻ろうということなのだろう。
「……この国は雪が降らないのだな」
早々に部屋へ戻されることへのささやかな抵抗ですらなく、太陽が上り始めたばかりの空を眺めてアーサーはぽつりと呟いた。
その声があまりにも寂しそうだったから、我ながら情けなく、そして余計にあの白銀を思い出しては寂しくなった。
「降りますよ、雪」
カインはなんでもないことのようにそう言って、大陸の中央にある国だから、季節も豊かなのだと話してくれた。
「俺も寒いのは嫌いじゃないので、雪は好きですね。でも確かに今年は降らないかもなあ」
しゃり、しゃり、しゃり。霜柱の上を手を繋いで歩く。ひとりで歩くよりも賑やかな音がする。
「殿下もお好きですか、雪」
「……うん」
「そういえば、クライズ公爵家の庭園に行かれたことはありますか?」
「え?いや、ないが」
「じゃあ行こう!そうだな、昼食の後、また迎えに行きます」
雪とその庭園に、いったい何の関係があるのかわからなかったが、ほとんど部屋から出ることのできないアーサーにとってカインの提案は魅力的なものだった。
「わかった。待っている」
それから長い長い午前中を終えて、カインはぴったり昼食後に現れた。軽装だった朝とは違い、騎士団のきっちりとした制服を着込んでいる。
「カインは今日もかっこいいな」
「はは!なんだよ急に……おっと。ええっと、光栄です、殿下」
折り目正しく騎士の礼をして、アーサーと目が合うと悪戯っぽく笑ってウインクをした。悲しい気持ちや、つらいこと。寂しさと郷愁。カインのその笑顔で全てとけていくようだった。
「クライズ公爵家の庭園は、城のすぐ近くにあるんですよ。花の盛りの季節には市井の者にも開いて、憩いの場になっています」
「今日は?」
「それが、はは、実は今年公爵家の次男が騎士団に入ってきて」
職権濫用です、と言ってまた笑った。
◇
薄曇りの庭園の中に、枯れかけた蔦の絡まるアーチが続いている。冬の庭園は緑が少なく物寂しくはあったが、よく手入れされているのが見て取れた。
「えっ……?」
アーチを抜けた瞬間、一陣の風が吹いて、花びらが舞って視界を攫った。ゆっくりとまぶたと開けると、そこは日差しもないのに白い花がきらめていて、風はぴたりとやんでいるのに、花びらがひらひら、ひらひらと舞い落ちている。
「魔法か」
「そうらしいです。前当主が薔薇が好きな奥様のために枯れない薔薇園を魔法使いに頼んだのだとか」
「……綺麗だな」
クライズ公爵はアーサーにも好意的だったので、よく覚えている。きっと魔法使いに抵抗がないのだろう。
広い庭園の中の、たった一角。それでも深く、終わりのない愛がここにはあった。
「ずっと白い花びらが舞っていると聞いたから、雪みたいに見えるかと思ったんだが……」
「ふふ、充分だよ」
銀色の雪と、その影の青。冷たい景色の中に浮かぶ、鮮やかなオーロラ。あの頃は、それが全てだった。
だけど今は、この国を、深く愛している。生まれた国。希望を失わず、懸命に生きる人々の暮らす国。美しい風景、明るい人々。穏やかな風、古い遺跡、暗い森、乾いた砂漠、朝露にきらめく草原。
そして、そして。
カインを見る。よく磨かれた銅のような美しい赤褐色の髮。黄金の瞳はまるで太陽だ。
「カインは、知っていたのか」
「……知らないよ、なにも」
いつでも、自然にアーサーを気遣ってくれた。彼の真心がなければ、アーサーはもっと虚ろな日々を送っていたかもしれない。
「いつか、雪を見に行きましょう」
子どもの口約束のような気軽さと、騎士の誓いのような厳かさがその声にはあった。
アーサーは返事をしなかった。カインも、アーサーが何も言わないことをわかっていたのだろう。ただ笑って、アーサーの手を取った。
「きっと、あなたとなら……」
そこから先は、カインも言わなかった。アーサーの手を額へ押し抱いて、深く、終わりのない誓いを密やかに胸にしまい込んで。