ランニング・ランデブー トレーニング・ウェアに袖を通すと、肌をむっとした空気が包み込んだ。もう夏か。ゆっくりまばたきすると、うなじにじんわりと熱を感じた。ヘアゴムで髪をポニーテールに束ねて扉を開くと、突然目の前に自分と同程度のガタイの良い男が現れてびくんと心臓が跳ねた。
「わっ」
「わぁ」
反射的に二、三歩ほど後ずさって目を細めると、飛び出してきた男が涼であることをようやく認識できた。涼はちいさく声を上げて細い目を見開き、深幸を凝視する。一応は彼も驚いているようだったので、深幸が扉を開けたタイミングと涼がその前を横切るタイミングが運悪くかち合ってしまったのだと悟った。
「りょ、涼ちんか……びっくりした。ごめんね」
心臓をばくばくさせながら言うと、ふるふると首を振る涼。
「ううん。オレもごめんね。これから、ランニング?」
「そう。夜だけど、天気良いし、ちょっと涼しいだろ? 軽いランニングにはうってつけかなって」
「ふうん」涼は深幸の全身をしげしげと眺めて、にこりと笑った。「オレも行きたい」
また突拍子もない発言だ。涼らしくて、思わずフフっと笑ってしまう。
「えっ、そう? じゃあウェアの予備あるけど、着替える?」
「うん。そうしようかな」
「珍しいね、涼ちんからお誘いなんて」
「ちょうど、外に行こうとしてたから」
「へえ? こんな時間に」
「今日は星がよく見えるから……宇宙と交信ができる」
目を閉じてうっとりと手を合わせる涼を見て、苦笑いをした。未だに返答に困る。
「深幸くんと一緒に星が見れるし、きっと故郷のヒトビトに深幸くんを紹介できる。一石二鳥だ」
「気休め程度だけど、身体も絞れるしね」
「一石三鳥だ〜」
両手を上げて喜ぶ涼。深幸は肩をすくめて「ほら、さっさと着替えちゃいな」と顎をしゃくった。
*
シェアハウス近くの広い公園へ足を運び、簡単にストレッチをしてから涼と示し合わせて走り出した。
夜のしんとした空気が風となって顔やうなじの表面を駆け、一瞬鳥肌が立つような寒さを感じた。しかし数秒もすると内側から熱が広がり、その冷たさも気にならなくなった。
公園には首を直角にしても頭が見えないほど背の高い大きな桜の木があるのだが、今年の花弁はとうに散ってしまい、新緑を湛える葉がさらさらと囁くように擦れ合っていた。ベンチには楽しげに談笑するカップルやぼんやりと空を見つめるサラリーマン風のスーツを着た男性、通路ではスケートボードを持ち出して夜遊びをする学生風の男女のグループ……など。意外にも人が多い。フィルムのように過ぎ去っていく風景を目の端で捉えていくだけでも、そう感じる。
ハッとして、隣に視線を向ける。涼は前を行くわけでもなく、逆に遅れを取るわけでもなく、淡々と深幸と肩を並べていた。
「涼ちん、このペースで大丈夫? つーか、もしアレだったら、ちゃんと自分のペース取ってもらっていいからね?」
「ん? 大丈夫。ちょうどいいよ」
そう。なら、いいけど……と会話を終わらせながら、感心した。涼はヒトに合わせることが苦手なくせに、ちょうどこういう……頭脳や身体のポテンシャルが問われることに関してはひたすらに上手い。こちらが悔しく、虚しくなるほどに。
「……ウェア、ちょうど良いみたいだね」
「うん、ありがとう。こういう時、便利だねぇ」
「俺たち、身長も体格もほとんど変わんねーもんな。だいたいのものはシェアできるんじゃない」
「そうかも? 深幸くんも、何か困ったら言ってね。靴下、貸せるよ」
「靴下だけかよ。つーか、ウェアは自分の買わねーの? こうして一緒にさ、走れるじゃん。涼ちんに似合う、かっこいいやつ選んでやるよ」
「そうだねぇ。それも、いいかも」
「じゃ、今度買い物行こうぜ」
「パンケーキも食べたい。ふわふわで三段重ねの、宇宙船みたいなやつ」
「はいはい」
鍛えるためなのか、太りに行くのか、よくわからないデートになりそうだ。
「き、ら、き、ら、ひ、か、る〜。よ、ぞ、ら、の、ほ、し、よ〜」
公園内を三周したところで、突然涼が歌い出した。世間話でもするような自然な声音だったので、気がつくまで数メートルほど走ってしまった。
「え? なに、どうしたの」
出くわした通行人が訝しげにこちらを見ていることに気がつき、狼狽した。横目を向けて涼に訊ねると、彼は気にも留めない様子で少し上を向いていた。
「楽しいよ」
「いや、お前は楽しいかもしんないけどさ。人いっぱいいるんだけど……」
「あ、言語が違った」
「はぁ?」
「トゥインクル、トゥインクル、リ、トル、スター。ハゥ、アイ、ワン、ダー、ワッ、チュー、アー」
「もー。英語も同じだっての」
走りながらも息を乱さず音程も外さない、その安定感には脱帽ものだが。
「さぁ、深幸くんもご一緒に」
「えー?」
「楽しいよ」
疑わしげに眉を顰めていると、涼はお構いなしにまた同じフレーズを歌い出す。恥ずかしいし、単純に周りの迷惑だろうとも思うが。好きにしている涼を見ていると、もしかして肺活量が鍛えられるのでは? という妙に前向きな見解が湧き上がってきて、小さめの声で涼に合わせてみた。
「……ちょっと気持ちいいかも」
「でしょ〜?」
涼は得意げに笑った。
頭ごなしに否定してしまって少し悪かったかなと思ったが、たまたますれ違ったOL風の若い女性二人組がこちらを見て「何あれ、かわいい〜」とクスクスと笑ったのを横目で認めたので、口を噤んだ。何してんの? 俺。
「ほら、星たちも顔を出しているよ。キラキラして綺麗だね」
走るペースを乱さぬまま、空を指さす涼。つられて、深幸も空を見上げる。
木々の間、開けた空間に、優しくか細い光が点々と広がっている。大小の粒も心なしかはっきりしていて、まるで札幌で見る空のよう。
「ホントだ。マジで良い日に外出たな、今日」
「オレたちの声に誘われてきたんだね」
深幸の感想に対して、微妙にズレた発言をする涼。
「そうかぁ?」
「気づいてくれたんだよ。だから、夜でも転ばないように照らしてくれる」
後で深幸くんを紹介してあげるね。と空に向かって手を振る涼を横目に、明るいのは街灯のせいじゃないのかなぁと肩をすくめた。涼に気づかれないように。