めちゃくちゃ寒い日の鯉月 鍋をぐるりとかき混ぜてみれば、おたまにぶつかる手応えで、具材がほどよく煮えているのがわかった。じゃがいも、人参、玉ねぎ、鶏肉、材料は極めてシンプルで、隠し味にすりおろしたニンニクが入っている。シチューのルウを投入し、あとは仕上げだけだ。
鍋に蓋をしたところで、玄関のドアが開いた音がした。
引き続いてごそごそと靴を脱ぐ音がする。仕上げ――もとい、鯉登が帰ってきたのだ。
「ただいま……」
「おかえりなさい」
弱々しく帰宅を告げ、部屋に入ってきた鯉登は買い物袋をテーブルに置いた。袋の中身を受け取ろうと月島が近付いていくと、鯉登が見せつけるように自分の両手を持ち上げた。指先が赤らんでいる。
「さ、さぶい……つきしま……」
震えながら両腕を伸ばしてヨチヨチと歩いてくる姿はまるでゾンビである。もたもたと手で空を掻いて、月島を求めているらしい。
「はいはい……」
とりあえず月島は、買い物袋については一旦置いておいて、ハグ待ちのゾンビをどうにかすることにした。といってもすることは簡単な――精神的にはともかく動作としては単純な――ことで、伸ばした腕の中へ入っていけば後は向こうが勝手に抱き寄せようとしてくる。この時も、がたがたと震えながら、鯉登の腕は寄ってきた月島の身体にぎゅっと巻き付いた。
「さむ……さむかったぁ……」
「はいはいはい」
月島は両手で鯉登の背中をごしごしとさすってやりながら、ちらりと横目で顔を盗み見た。指と同様、鼻の頭が赤くなっている。身体も震えていることだし、早く食事にしてやるのがいいだろう。
そう月島が考えていると、突然ひょいと自分の身体が持ち上げられた。
「!?」
「さむい……さむい……」
ぶつぶつ言いながら、鯉登が月島を抱え上げていた。
「何……なんですか急に」
「座る……」
「下りますよ?」
「お前は私をあっためんか……!」
困惑する月島を抱えたまま、鯉登はのそのそ歩いてリビングのソファへ到達すると腰を下ろした。必然的に、膝の上に月島を座らせる状態になる。座っても鯉登は腕を解かず、仕方なく跨ったままで鯉登の背中をさすっている月島の頬に、自分の頬を擦り寄せた。
「つめたッ」
ぴとっと頬をくっつけられた月島が思わず声を上げて顔を引いた。体温を感じられないほど鯉登の肌の表面は冷え切っている。鯉登が、む、と大いに拗ねたような顔になった。
「うわ、本当に寒かったんですね、外」
「そうだ……もう手の感覚もない……」
「手袋持っていかなかったんですか?あの高そうなやつ」
確か黒っぽい皮手袋を持っていたはずである。月島から見ると薄手で頼りない気がするのだが実際はとても温かいらしく、きっと質の良い高級品なのだろうと思っていた。というより鯉登の私物はどれも一般人目線からはお高いものばかりなのである。当の鯉登はというと「そんなに高いものじゃない」と言うのだが、月島はあまりその言葉を信じていなかった。
「急いでいたから、持っていくのを忘れたんだ……」
もごもごと説明して、すんと鯉登が鼻をすすった。手が悴んでいて、服越しでは月島の背中の体温がなかなか感じられない。少し毛玉のついた月島のセーターを一生懸命にさすって暖を取ろうとした。
「まったく……何やってるんですか」
月島が呆れたようにため息をついたので、鯉登の手が止まった。月島だってちょいちょい財布を忘れるくせしてこの態度である。鯉登の口が、不機嫌そうにキュッとへの字に曲がる。
あまりの寒さで少々神経が過敏になっていたこともあり、月島の反応は少し鯉登の気に障った。止まっていた手を、そうっと下ろす。
「慌てるからそういうことに――ッい……」
ぞわり。
唐突な寒気に、月島は身体をびくりと大きく震わせた。まるで背中に氷でも突っ込まれたようだった。氷かと思ったのは鯉登の凍えた両手で、ずぼっと服の下から侵入してきたそれが、背中にべったり押し当てられていた。
「つめっ……!」
「やはり人肌で温まるのが一番だな。なあ、月島ぁ?」
もこもこしたセーターに隠れた身体は筋肉質で、発される熱はじんわりと鯉登の指先に血を通わせた。冷え切っていた鯉登の手には月島の体温は熱いくらいだった。
「ちょ、出してください!」
「手が止まってるぞ……?」
「あっ……つっ……ッ」
背中をするすると撫で回すと、月島は鯉登にしがみついて身体を強張らせた。固くなった肢体を確かめるように、隆起している肩甲骨のふくらみや、脇腹のラインをなぞってやるたび、びくっと月島の身体が反応をみせて、小さな唸り声が漏れた。
「く……うぅ……」
ますます自分に縋り付き、堪らえようと頑張る月島の様子を見て、ようやく鯉登は溜飲を下げた。というより、むしろ愉快な気分になってきた。
ひょいとうなじの下に片手を当ててやると、亀のように月島が首を縮めた。
「ひ、ぁ」
喘ぎ声に似た悲鳴がこぼれて、鯉登の耳を擽る。にい、と鯉登は思わず口元が緩んだ。もう片手を腰に回すと、月島が声を飲み込もうとして、鯉登の肩口に顔をうずめた。
「私がどれだけ寒い思いをしたか、少しはわかってくれたか……?」
「わ……わかりましたから……」
少しでも鯉登の冷たい手から逃れようとして、逆に月島はもぞもぞと鯉登に身体を押し付けた。掴んだ鯉登の服をぎゅうっと引っ張る。
「はやく……」
「…………」
押し殺したような月島の囁き声が、鯉登には酷く艶めかしく響いた。
――これは……なんというか……。
うなじに触れた指を、鯉登はゆっくりと下ろし始めた。月島がやや安心したように肩の力を抜く。月島の背骨に沿って、その凹凸がどこまで続いているのかを確かめるように、鯉登の指先はそろそろと下へ向かい、服の外に出るかと思いきや、するっと月島の下着の中に入ろうとした。
「ストップ!」
鋭い月島の声に、鯉登はよく訓練された犬のようにピタリと動きを止めた。ゆらっと顔を上げた月島が鯉登を睨む。
「何をしようとしてるんですか……」
「……いや……だって……」
実に不本意そうに鯉登が口籠った。膝の上で縋り付かれて喘がれれば、そういうことを意識するなと言う方が無理な話ではないだろうか?しかし、自分に取り縋っていた月島にその自覚はないらしい。
「出してくださいって言いましたよね?」
「ここでその台詞は逆効果だぞ月島ァ……」
「アッ、こら!」
なおも押し入ろうとする腕を月島が捕まえた。しかし腰をしっかりと抱かれた状態なので動きにくく、いかんせん分が悪い。負けまいとして月島が深く腰を落とすと、何やら硬いものが尾てい骨の辺りに当たった。何が当たっているのか、それは己も男なので月島にもわかる。それゆえ余計に焦った。刹那、鯉登の寄越した目線が煽るように細まる。つつう、と鯉登の指先が肌の上を滑って、寒さのせいではなく、月島の肌が粟立った。咄嗟に月島は叫んだ。
「シチュー!」
「は?」
鯉登が間の抜けた声を出した。
「シチュー!食べるんでしょう!」
「……あ」
思い出した、という風に顔を上げた鯉登だったが、未練がましげに月島の顔を見た。
「後にしないか?」
「なんのために寒い思いしてきたんですか」
鯉登の手をぐぐぐと押しやりながら月島が言い返した。寒い日だから、生クリームたっぷりのクリーミーなシチューが食べたい、というリクエストが鯉登からあり、生クリームなんて常備してませんと月島が一度は却下したのだが、それなら自分が買ってくると言って鯉登が家を出たのが1時間程前のことだった。
寒空の下、わざわざ材料を買いに出向くほど食べたいのなら……と月島もリクエストを聞き入れ、シチューを作って帰りを待っていたのである。シチューを完成させ、食す、という明確な目的のために我々は動いていたはずなのだ。
「うっ……しかし……」
「じゃがいもほくほくですよ」
「うう……」
「ごろごろお肉いっぱいにしました」
「ううう……」
「あなたが食べたいと言うから作ったんですよ?」
駄目押しの一言に、うぐ、と鯉登が返答に窮して呻いた。台所から漂う優しいシチューの匂いがまた食欲を誘う。確かに、リクエストしたのは自分だし、月島のシチューが食べたい気持ちはやまやまなのだが、と鯉登の内なる天秤が揺れる。
「私のこの昂りはどうすれば……」
「素数でも数えたらどうですか」
「むう、そういえば6部もアニメになったな」
「さあさあ、もう十分温まったでしょう」
月島の言うとおり、いつの間にか鯉登の手はすっかり温まっていた。手だけでなく、身体もぽかぽかしている気がする。渋々服の中から手を抜き出して、ぐーぱーと開いたり閉じたりしてみて、その手で鯉登は月島の両肩を掴んで引き寄せた。近づいた月島の頬に、ぺと、と自分の頬をくっつける。
「?」
頬を押し当てられた月島は不思議そうな顔で目を瞬いている。おとなしくされるがまま、今度は逃げようとはしない。先程顔を背けられたショックが多少慰められた。今となっては、月島の頬のほうがぬるいくらいに感じる。鯉登もようやく納得すると月島を解放した。
「仕方ない、月島は食後のデザートにする」
「デ」
絶句した月島が、はあ、とため息をついて立ち上がった。続いて鯉登がソファから立ち上がりながら、唐突にぱっと顔を輝かせた。デザートにはクリームがつきものである。
「そうだ!月島、余った生クリームを泡立ててくれ!」
「はあ……?」
月島の顔に怪訝な色が浮かんだが、鯉登のわくわくしている様子から意図を察したのか、さっと表情が物騒なものに置き換わった。
「……食べ物で遊ぶのは感心しませんが」
さっきまで喘いでいたとは思えない、地を這うようなドスの利いた声である。だが、鯉登は動じない。月島の肩を抱くと、にや、と唇の端を持ち上げた。
「全部美味しくいただくからいいだろう?」
憎たらしい笑みすら様になる。顔が良いとは本当に得なことだと、月島は忌々しげに目を細めた。
「……味の保証しませんけど」
「味ならよく知ってる」
月島は無言のまま、鯉登の脇腹に肘鉄砲を食らわせた。