201話手鏡ネタ / 鯉月(鯉→→→→→←月) 狙撃によって砕かれた手鏡の欠片をひとつ、億劫そうに屈んでつまみ上げた月島に、背後から鯉登が尋ねた。
「月島、さっきの顔はなんだ」
「さっきの……?」
月島は一瞬思い出そうとして斜め上に視線をやった。手鏡を貸せと言われた時のことだろうか、と思いながら立ち上がる。
「申し訳ありません、私は手鏡なんて持ち歩きませんので」
「違う」
聞きたいことが噛み合わないことに、鯉登が若干の苛立ちを見せた。
「汚い顔だと言った時だ。妙な目をしただろう」
「妙な目、ですか」
鯉登が「汚い顔しおって」と怒鳴った時のことである。
腹を立てるでもなく、恐縮するでもなく、月島の顔にほんの一瞬、何か奇妙な感情が浮かんだのを鯉登は見逃さなかった。懐かしむような、憫笑するような、それは説明し難い表情だった。
ただ、鯉登はその目の奥に潜む何かを不快に感じたのだ。
鏡の破片を裏向けたり傾けたりしながら、月島が微かに首を傾げた。
「……昔、別の人間にも『汚い顔だ』と言われたのを思い出しただけです」
「なんだと 無礼な奴だな!」
「いや、さっき貴方が言ったことですけど……」
「誰だそいつは!」
眉間に皺を寄せて目を細めた月島は、やはり面倒くさそうに顔を背けながらも口を開いた。
「まだ新兵だった頃の話ですが……。ある晩、しこたま酔っ払った色狂いの上官に組み敷かれたことがあるんです。その時に言われました」
「……なに?」
ざっと血の気が引くように寒気を覚えて、鯉登の声が低くなる。月島は目を見開いている鯉登をちらりと一瞥して、淡々と言葉を続けた。
「いえ、それで萎えたらしく何もされませんでしたので。お蔭で命拾いしたという話です、これは」
「……誰だ、その上官とやらは」
先程とはまるで違う硬い声で同じ問いをぶつける鯉登に対し、月島の声には相変わらず抑揚がない。
「もう死にました。その夜の、次の次の日の作戦で」
猛烈な勢いで湧き上がった怒りをぶつける相手を失い、鯉登が唸るように息を吐いた。それでは、あの月島の目は、自分を襲おうとした穢らわしい上官を思い出した時のものだというのか。そんな目を自分に向けられたのかと思うと、鯉登は怒りよりも屈辱に思わず歯ぎしりしそうになった。
「……そんなつもりで言ったのじゃない」
「わかっていますよ」
絞り出すように訴える鯉登の態度が意外だったのか、月島が両眉を心なしか持ち上げた。
勢いで口にしただけで、別に醜いという意味で言ったのではないことくらい、月島は理解しているらしい。状況も相手もまるで違うのに、比較するのが土台おかしいことであるとしか思っていないようだった。むしろ、何をそんなに険しい顔をするのか、とでも言いたげである。
あの妙な目も、別に鯉登に向けたものではなく、あの切迫した場面でくだらない出来事を思い出した自分にただ呆れただけのようだ。
まるで他人事のような、感情の現れない目に、鯉登は胸の奥がチリチリと焦げるような痛みを感じた。
杉元たちの通訳を求める声を聞いて、月島が踵を返して歩き出す。
「……いいや。お前はわかっていない」
遠くなる背中に向かって、届かないと知りながら鯉登は呟いていた。
今、自分の中でのたくっているこの憎しみが、震えるほどの妬ましさが、どれほどのものか。それがどういった感情の動きから生まれてきたのかを、この部下は少しもわかっていない。
やり場のない思いを抱えて、鯉登は足元に散乱する鏡の破片を見下ろした。曇り空を背負っている、疎ましげな目をした男と目が合った。