百年もたてばそう(くわぶぜ) さらさらと糸を引くような細かな雨は終わりゆく夏を感じさせた。ここ数日冷房のいらない日が続いている。あんなにも異常気象ともいわれるような酷暑を皆が恨んでいたというのに、それが過ぎ去ってしまった今は少し物悲しいと豊前は思う。そもそも豊前は夏が嫌いではない。どちらかと言えば外で走ることができない秋雨の方が苦手である。
昨夜から続く長雨が音を閉じ込めているかのように本丸は静かだった。いつもなら中庭で短刀たちがはしゃぎ、畑では当番のものが汗を流し、遠征や出陣で賑やかいというのに、雨で外出はできず審神者が会議で不在というそれだけのことでこの場所はこんなにも静寂に包まれる。
パサリ、と紙のめくれる音がした。二人部屋のこの部屋にいるのは勿論豊前の同室者である桑名だ。積み上げられた本を一冊、また一冊と消化していく姿は雨の日や夜には見慣れたものである。
桑名江という刀はよく本を読む刀だ、というと驚く刀が割と存在する。それは多分畑にいるこの刀しか見たことがないせいだろう。戦いよりも朝から晩まで畑を耕すことを好み、大地と語り、野菜を愛する。そんな刀を不思議ちゃんだと勘違いするかもしれない。けれども桑名は存外に理知的である。戦場に出れば地形を読み、風向きを読む。農業は森羅万象につながる学問だとはよく言ったものだ。こうやって畑に出るとき以外は様々な知識を吸収しようとする。
雨は止まない。止む気配もない。
静かな部屋で豊前はごろりと寝返りを打つ。今日はなんだか何か腹の奥がざわついている。
「豊前、なんだか暇そうだね」
本を読んでいた桑名が沈んでいたクッションから体を起こした。
「暇。外に走りにいけねぇし」
「本でも読む?」
「いや、あんま得意じゃねぇからいい」
桑名が再びクッションに沈み込む。どうにも面白くない原因はそれだ。先日貯めていたお金で購入したという刀をダメにするクッションは今現在ダメにはしていないが桑名を占領している。いつもならこちらの膝を求めて頭をのせてはこちらの膝がしびれるまで離れないというのになんだこれは酷く面白くない。
つまるところ今現在、豊前はクッションに対して嫉妬をしている。
「もしかして機嫌が悪い?」
桑名がクッションに体を沈めたまま問いかける。
「割と」
「それって僕のせい?」
「桑名に関係するけど桑名が悪いわけじゃねぇ」
「珍しく回りくどい言い方するね」
少しばかりの沈黙のあと、丁寧に栞が挟まれて本が閉じられる。それからごろごろと転がるように移動して桑名が豊前の横に寝転んだ。
「不機嫌の理由は言えん?」
頬を柔らかく掠めるように桑名のふしだった手が触れる。さらさらと零れ落ちる前髪の隙間から覗く黄金色の瞳。桑名を膝枕してその色を見下ろすのが豊前は好きだった。
「……昨日の夜からあのくっしょんばっかなんかかって、俺の膝よりそっちがいいん?」
へ?と間抜けな声がした。頬を撫でていた掌がぴたりと止まって、驚いたように大きく見開かれた瞳がやがてゆっくりと細められた。
「なんなん?豊前はくっしょんに嫉妬してたん?」
「わりぃかよ」
「全然」
豊前起きて、と肩をゆすられる。しぶしぶと起き上がって座り込んだ膝の上に乗せられた丸い頭。ずっしりと重いその形は豊前の膝によくなじむ。
「いっつも豊前に負担かけてないかなってあのくっしょん買ったけど、やっぱ豊前の膝が一番いい」
「適当なこと言うなちゃ」
「本心だよ。そんなことよりモノに嫉妬するなんて豊前も可愛いとこあるね」
「そもそも俺たちはモノだし、モノに嫉妬すんのは当たり前だろ」
「それもそうだね。人の身に馴染みすぎて忘れてたや」
「百年もたちゃああいつだって人の形をとるかもしんねぇし」
「くっしょんの付喪神かぁ」
あのくっしょんは松井にでもあげようかな、と呟く桑名が瞳を閉じる。すぅと穏やかな寝息を立てて意識を落としていく恋刀の頭を愛しくなであげる。
雨はまだまだ止まないようだ。