サマースクール真夏の空には大きな入道雲が、それこそ驚きの白さで立ち上っていた。
壁のようにそびえる青の山々より高い雲。
揺れる視界の中の鮮やかな色彩。現実味が無いほど綺麗だった。
高速を降りたワゴン車は山の中の道をひたすら走っていく。
こんな場所に本当に人間が生きていけるのかと不思議になるほど何も無い山奥。カーブを何度も越えて行くうちに、もうどうにでもなればいいと瞼を下ろした。どこに連れて行かれようが一緒だ。
松野千冬は今年の春、高校へと入学した。母親が高校くらいは卒業しなさいと繰り返すから、入れる高校へと進学したのだが。並み居る先輩達から何故か異様に気に入られて、ちょっかいを出し続けられた。悪い意味で。
夏休みに入る二週間前の事だ。
とある先輩から呼び出しがあった。
別にアイスを一緒に食べないかと言う誘いでも、プールに遊びに行かないかと言う誘いでも無かった。
面倒くさいとは思いながらも、律儀に出向くと拳で話し合おうと持ちかけられ、千冬は一人で先輩方と話し合いをした。
千冬は強かった。本当に強かったので、拳での話し合いを無事納めて、先輩に土下座させ一件落着となる筈だった。
担任にチクられなければ。
どう考えても呼び出したのは先輩方だし、自分は話し合いに応じただけです。そう生徒指導室に呼び出されて答えても先輩の親御さんが警察に相談すると吠えてるらしく、千冬が過剰防衛だったと攻められた。
歯の二三本、針の数十本くらいの怪我で何言ってんだとシラケたけれど、母親まで学校に呼び出され、話し合いは夏休みにまで及んだ。
「松野くん、君に紹介したい学校があるんだよ」
生徒指導の教師が、パンフレットを差し出したのは夏休みの三日目の事だ。
暑い盛りに学校になんか行きたくなかったけれど、母親に泣かれれば行か無い訳にはいかなかった。
「とっても環境のいい場所で。どうかな?二学期をそのフリースクールで過ごしてみるのは?」
何言ってんだコイツとチラリと見遣った先に、そのパンフレットはあった。
森の学校。びっくりするくらい綺麗な緑の木々の写真の表紙にそう書かれていた。
所謂、不良少年の更生施設。
事実上の停学処分だった。
「松野くん着いたよ」
運転していた男にそう声を掛けられて、千冬は瞼を開いた。いつの間にか眠って仕舞ったらしい。
じりじりと蝉の声が車の外に響いている。まだ少しぼんやりする頭でワゴン車の後ろから外に降りると、途端に夏の日差しの暑さに襲われた。
「あつっ…」
思わず呟くけれど、いつもと何かが違う。あの東京で感じていたまとわりつくような湿度と、アスファルトから立ち上る熱気が無い。晴れ渡った青空。辺りを見回すと見渡す限りの田んぼ、そして緑が輝くような山が辺りを取り囲んでいた。
清廉な風がそよぐ。暑いけれど、田んぼの緑を揺らして渡ってくる風は温度が低い。
はっきり言ってド田舎だった。容赦が無いほど、どこにも人家が見当たらない。
唯一の建物は、千冬の背後に佇む古い学校の校舎らしき建物だ。
「さあ、着いておいで」
施設の職員だと言う人の良さそうな男、南の声に従って大きめのリュックと、スポーツバッグに入れた荷物を持って建物に入ると見覚えのあるような、学校の靴箱が並んだ玄関だった。
「ここは、廃校になった学校を改装して再利用してるんだ。元は村立の小学校」
「ソンリツ?」
「ああ。ここは戸倉村って言う村なんだ。だから、村立ね」
「村なんて、まだあったんだ」
「ははは、そうだよ。昔話の中だけじゃなくて、現代の日本にも村は存在しているんだよ」
知らなかった。
明治時代に村は絶滅しているんだと勝手に思っていた千冬は、幼い頃テレビで見ていた昔話のアニメを思い出す。茅葺き屋根の家。井戸があって、畑を耕すじいさんとばあさんが暮らしていて…。それが千冬野の乏しい村のイメージだ。
面食らいながら南に指導されて、持参した上靴に履き替える。君の靴箱はここだよっと教えられた靴箱には『松野千冬』と名札が貼られていた。
「右に行くと、これから生活する寮と職員室だよ。左に食堂と、風呂、保健室、図書館がある。まずは学園長先生に挨拶して、先生方にもご挨拶しようか」
「……」
挨拶なんて面倒だったけれど、黙って南の後ろについて行く。普通だったら返事は?なんて怒られるだろう場面でも慣れっこなのか彼は何も言わなかった。こんな態度にいちいち腹を立てていたら身が持たないのだろう。自分が言うのもなんだけれど、けっこう緩い。
「先生、学園長先生は?」
ふと廊下の奥の食堂らしき場所から出てきた人物に、南は声を掛ける。
「裏で薪割りしてるよ」
「そうですか」
「新入生?」
「はい、松野くんです。松野くんこちらは食事と菜園担当の矢野先生です」
「よろしく。カッコイイ髪型ね」
トサカのように逆立てた千冬のリーゼントを言っているのだろう。にこやかに笑った矢野は六十代前半だろうか。小柄でふくよか。赤いバンダナの三角巾と、ウサギのアップリケの付いた赤いエプロンをつけていた。絵に描いたような田舎のおばあちゃんだ。
「お昼ご飯はヤマメの甘露煮だよ。楽しみにしてて」
「ありがとうございます」
南は礼を言って通り過ぎる、その後ろで千冬はじろりと矢野を睨んだ。
東京ではさっと目を反らして誰もが無言で通り過ぎる。けれど、ここではぷぷっと笑われた。
「さすが、東京の子は違うねぇ」
まるで子供扱いだ。チッと舌打ちする千冬をまるで気にしていない矢野は鼻歌を歌いながら玄関の方へと消えていった。
「ここが職員室ね。自由に入っていいよ。戸もいつも開いてるし」
「……」
変な更正施設だ。全体的に本当に緩い。もっと、こう…コンクリートで出来た建物で、鉄格子でも嵌められた窓があって、警察みたいに背筋がやたらまっすぐな職員が出てくるのかと思っていた。
「ただいまー」
南がそう職員室に入りながら声を掛けるとおかえりと言わんばかりの猫の鳴き声が聞こえた。どこだろうと咄嗟に見回すと足下に駆け付けてきた三毛猫がいた。ますます緩い雰囲気が漂い出す。
「ただいま、ミケ」
名前は見た目のままのミケらしいその猫は千冬を見上げるともう一つニャーンと鳴いた。自宅で猫を飼っている千冬はひっそりと胸の内だけで喜ぶ。でも表には出さない。ちらっとミケの美人な顔立ちを見て、なんでも無い風に目を反らした。あとでめちゃくちゃ撫でようと心に誓いながら。
「岩手先生。今日から入所する、松野くんです」
「……」
紹介されて思わず無言で困惑する。目の前の職員はパタパタと団扇で自分を仰ぎながらこちらを見下ろしている。ジャージに白いTシャツ。それを肩までたくし上げているが、むき出しになった腕の太さにぞっとした。
鋭い眼光。巌のような体躯。テレビで見た、ラガーマンに似ている気がする。日本の男子高校生の平均身長よりも少しだけ下回っている身長の千冬より、随分大きな人だった。横にも縦にも。
関わり合いにならない方が身のためだ。コンマ数秒で判断してゴクリと生唾を飲み込むと、頷く程度に頭を下げた。岩手は吊り上がった小さな目で千冬を上から下まで見て、低い声で「よろしく」と呟いた。
「岩手先生は元ラガーマンでね。とってもパワーがあるから農園作業も間伐も、草刈りもなんでもやって下さる凄い方なんだよ。とても器用でこの施設の修繕も請け負って下さっているし。頼りになる先生だから松野くんも困った事があったら相談して下さい」
南の紹介を聞きながらも岩手は表情を変えない。じっとこちらを見ている。コイツを倒さないと、この施設からは逃亡は出来ないのかとウンザリした。詰んだ。こんな化け物とやり合うくらいなら大人しくしていた方がいい。
「さて、最後になりましたが、僕はこの施設の経理や事務など請け負ってます。教員の免許も持っているので、学習の指導もできるので気軽に相談して下さい」
「え、これで終わり?」
「はい。後は学園長先生ですが、裏で薪を作っているようなので君の部屋に荷物を置いてからそちらに向かいましょうか」
岩手の殺気混じりの視線を感じながら南に従って職員室を出る。
「寮は基本二人部屋です。ここの施設の定員は12人ですが、現在は6人が在籍中です。松野くんで7人目ですね。今は夏休みで親御さんの元に帰っている子がほとんどで君の同室者の子だけがこの寮にいます」
説明を聞きながら古い廊下を歩いて行くと階段があった。木造の階段は昔の学校の階段をそのまま利用しているようで一段登る度に微かに軋んだ音がする。それでもぴかぴかに磨き上げられている所為で余り古さを感じない。
「私たち教員はここの一階。君たちは二階が居室になります。夜中でも何かあったら来て下さい」
古い学校の廊下。窓からは小さな校庭が見えた。バスケットボールのゴールが置き去りにされたように佇んでいる。校庭の裏手は山になっていて、片隅には畑らしきものがあった。
「洗面所とトイレは共用です。松野くんの部屋はここです」
教室のドアを開くとベッドと小さな整理ダンス。それと机があった。面白かったのは黒板が壁にあったこと。教室の中にそのまま住んでいるような感覚だ。そして教室の引き戸の前側が千冬の割り当てで、後ろの扉から入る方が同室者の部屋になっていた。間仕切りは白いアコーディオンカーテンだった。これじゃあ音は筒抜けだろう。プライバシーなんてあって無いようなものだ。
「これ、同室者うるさくない?」
「お互いに気を付ければ大丈夫ですよ。松野くんの同室者の子はいい子ですから大丈夫。仲良くなれますよ」
「マジかよ…知らねーヤツと同じ部屋で寝るとか、ありえないけど」
荷物を机の上に置きながら文句を言っても南は聞こえないふりだ。
くそっと心の中で悪態をつく。満員じゃ無いなら空き部屋もあったろうになんでこの部屋なんだ。
「一人部屋だと、何かと見えるとか聞こえるみたいな相談が多くてですね。二人部屋なら気のせいで済む事も多いし、慰め合えるでしょ?」
「は?」
「古い校舎ですから、色々住み着いてるものも多いので。なるべく相部屋で暮らして貰ってます」
何を言ってるか理解の追いつかない千冬に、行きますよと告げて南は部屋を出て行ってしまう。開けてあった窓から、その時一際爽やかで冷たい風が吹き込んで、古い窓枠を軋ませた。
「…ぅえ…」
無いはずの視線を感じて振り返ると、日よけのカーテンがさわさわとざわめいている。まさか、と思ったちょうどその時、黒い生き物がベッドの下から飛び出した。
「うわああああああっ!!!!!!」
自分でもよくもそんなに大きな声が出たものだと感心するほどの叫び声を上げて、ついでに飛び上がって足を滑らせ盛大に尻餅をついた千冬は床にひっくり返った。
「クロ!!」
にゃーん。
南の足下をくるっと回って鳴くと黒猫はチリリンと鈴を響かせて一階へと駆け下りて行ってしまった。
見慣れない千冬に驚いたのだろう。
「大丈夫ですか、松野くん」
「…ここ、猫何匹いんの?」
「クロとミケだけです。後は野良鶏のトリスケと、柴犬のポチが庭にいますけれど」
「……解った」
猫のした事だ、怒る気は無いけれどかっこ悪すぎる。
乱れたリーゼントをかき上げながらなるべく何でも無い風に立ち上がって、部屋を出る。後でクロも撫でくり回してやろうと心に誓って。
つーか緩い。緩すぎる。大丈夫なのかこの施設。なんだこれ?フリースクールがフリーすぎる。
「ポチは学園長先生と一緒だと思います。裏庭に行きましょうか」
階段を降りて、裏口から外用の共用スリッパで外に出るとずらりと薪が重なって並んでいた。それぞれ屋根の付いた棚に入っていて、なんでこんなに薪を貯めているんだと困惑するほどの量だ。
これでまだ薪を作っているのかと見回すと校舎の日陰で大量の薪を棚に積み上げている男が見えた。
「先生、松野くんが来ましたよ」
南が声を掛けると案外若い男がこちらを振り返った。老人を勝手に思い浮かべていた千冬は驚く。
その人は金髪に碧眼の外国人だったからだ。
「いらっしゃい。松野くん」
そしてその口から出た言葉は完璧な日本語で二度驚く。
「今日からよろしくね。私はキミ・アイネンだよ」
「先生、場地くんは一緒じゃなかったんですね?」
「ああ、場地くんはずっと図書室で手紙を書いてるよ」
「ああ、そうだったんですね。てっきりこちらにいるものだと」
「彼の大切な時間だからね。誘わなかったんだ」
情報量が多すぎてもう頭が追いつかない千冬は投げやりに積み上げられた薪を眺めた。そう言えば柴犬はどこに居るのだろうと思いながら。すると暑そうに舌を出してうろうろとする黒柴が一匹。後ろ足を引き吊りながらキミ学長の足下に歩いてきた。そんなポチの頭を優しく撫でて、彼は千冬に汗だくの顔で笑いかける。
よくみれば相当な美形で、モデルでもやってるんだろうかというような顔面の仕上がり具合だった。
「もう少しで終わるから。昼ご飯はみんなで食べよう。場地くんを呼んできてくれる?」
「っす…」
もう訳が解らない。頭痛がする。逆らう気も起きない千冬は素直に頷いた。
「場地くんは奥の図書室にいるみたいです」
そう南に告げられて、千冬は教えられた図書室に向かった。奥にある図書室は学習室でもあるらしいから静かな場所だった。軋む木の廊下を歩く音が響く。夏の蝉の声が相変わらずうるさいくらいに聞こえていたけれど、その辺りだけ少し気温が低い。日陰になっている所為だろうと思うことにして……そう言えば、この学校の中にはクーラーが無い事に気が付いた。
東京は今の季節、クーラーがなければ命の危険を感じるくらいには暑い。部屋を出れば一瞬で汗が吹き出す感覚をここでは感じないのだ。少し標高が高い場所にあると車の中で南が言っていたっけ。だからこんなに湿度が低くて、涼しい風が窓から入ってくるのだろう。避暑地ってこんな感じの場所なんだろう。余りにも縁遠くて知らなかった。
そんな事を考えながら図書館の前で立ち止まる。
そう言えば初対面の人間にどう呼びかければいいんだろう。
引き戸を開けて中を見回すと、こちらに背中を向けて座る男の姿があった。
アイツかと思わず背筋に力を込める。
初対面で舐められたらこの先の力関係が決まる。
「おい…」
低い声で呼びかけても返事が無い。
何かブツブツと言いながら背中を丸めて一心不乱に書き込んでいる。
つかつかと歩み寄って、向かいの席に乱暴に座ると男はようやく顔を上げた。
「誰?」
アホほどダサい眼鏡に、長くて黒い髪をピシッとキツく後ろで結んでいた。漫画に出てくるようなガリ勉スタイル。これが同室者かよ、と千冬はまたウンザリする。積み上がった辞書と、縦書きの便箋をちらっっと見遣って思わず声を出してしまった。
「おい、ガリ勉」
「あ?」
「ここ、これ、何?」
「は?」
「トラ」
「は?」
「トラだよ。動物園にいる」
「ちげーよ」
ガリ勉男が持っていた鉛筆を奪い取って、便箋の端に『虎』と書き込む。
「トラはこうだろ」
「おお、マジかー」
「っつーか、字汚ぇな」
「うっせー、ほっとけ。……そう言えば、誰?」
「松野千冬。今日から、同室者」
「ああ、先生が言ってた」
「お前は?」
「場地圭介」
「メシだから来いってよ」
「おお、そんな時間かよ。じゃあ行こうぜ」
急いで立ち上がる姿を見て、案外すらりと背が高いヤツだと思った。分厚い眼鏡の奥にアンバーの切れ長の目が見えた気がしたけれど意識の外に追いやった。別に男の顔になんて興味は無い。場地はジーンズに黒いTシャツと言うシンプルな格好をしていたけれど。引き締まった体つきをしている事は解った。
「なあ、お前何年?」
「は?なんでだよ」
図書室から食堂へと続く廊下を並んで歩きながら場地が千冬に問いかける。
「タメ?」
「一年」
「じゃ、タメだ。オレも一年。でも本当は二年」
「どう言う事だよ」
「ダブってるっつー話。だからオレの方が年上な」
にっと笑う場地の唇を少しだけいびつに押し上げる八重歯が、狼の牙みたいだった。人なつっこそうな笑みだった。
「んな事でマウントとんなよ。だせぇ」
言いながら食堂の入り口を潜ると美味そうな匂いがする。
大きなテーブルには大皿がいくつも並び、味噌汁と、白いご飯がよそわれて並べられていた。
随分久しぶりに食事らしい食事の景色を見た気がした。
母子家庭の食事は言わずもがなだ。
でも文句なんて絶対言わない。母親がどれだけ苦労して自分を食わせて来たか知っているからだ。
団地の狭いキッチンに用意されていた食事を一人でとることが千冬の日常だった。
それが当たり前で、仕方の無いことで、普通だって思ってた。
「あ、ヤマメの甘露煮」
後ろから入ってきた場地が嬉しそうに声を上げる。
「昨日場地くんが釣ったの煮ておいたよ」
「学園長先生、麦茶どうぞ」
「ああ、すみません」
騒がしい食堂に誘われるように猫二匹が廊下からこちらを伺っている。キミ学長の足下にはポチが大人しく伏せていた。どこに座ればいいのか迷っていると、場地がこっちだと手招きしてくれた。茶碗いっぱいに白米を盛り付けてくれた矢野がニコニコと笑う。
「今日は松野くんが初めて来るって言うから張り切ったのよ。沢山食べてね。これが茄子焼いたヤツ、こっちは冷やしトマト、キュウリは味噌マヨで食べて。夕顔はそぼろあんにしといたよ。さっき言ったヤマメの甘露煮も美味しいのよ。味噌汁はミョウガと豆腐ね」
「矢野先生のメシはうめーぞ」
「場地くんは沢山食べてくれるから作りがいがあるわ~」
「皆、揃ったかな?じゃあ、手を合わせようか」
テーブルの端に座ったキミの言葉に皆が手を合わせる。
「いただきます」
『いただきます』
不良少年の更正施設。
大きなテーブルで全員でいただきますと手を合わせて食事を始めると千冬の頭の片隅にこびりついていた言葉は薄れていく。田舎の親戚の家に遊びに帰ったような、そんな雰囲気だった。