ドライヌ プランツドールパロ「うさんくせー…」
どこかエキゾチックな旧市街の町並み。ひっそりと佇んだ古いビルを見上げて、背の高い男は嫌そうに呻いた。石畳の凹凸に降り出した雨が勢いよく跳ね返っている。煩わしい。ただでさえ雨は嫌いなのに。
「面白そうだろ?」
隣に佇んだ男は、もう一人の長身の男より幾分背が低い。黒い髪と暗い色のスーツ姿。センス良く着こなしているけれど一般人の雰囲気では無かった。黒いロングトレンチを羽織った長身の男もそれは同じだったけれど。
重い鉄製の扉を軋ませた音と一緒に押し開く。
中に入れば予想して居た通り、古い道具の匂いがした。
なにせそこは、古い骨董店だったからだ。
数日前、この骨董店を偶然訪れた三ツ谷は美しい刺繍のグローブを見つけた。花嫁の為に作られた、アンティークなそれを見た途端、思い浮かべたの歳の離れた妹の顔だった。
デザインの道は随分昔に諦めていた。けれど、彼女達の為に自分の手仕事で何かを残してやりたいと常々思っていたのだ。
明るい太陽の下を歩けない身分に成り下がった自分に何かあった時、彼女達に何か残してやれたらと…。
購入したグローブの刺繍のデザインを取り入れたマリアベールを一つ作り終えて、今度はもう一人の妹のため違う刺繍ののチーフを探そうと、もう一度この店を訪れる事を決めていた。
だから港町の老舗ホテルでの会合の後、古くからの友人である龍宮寺を誘って来たのである。
足を踏み入れれば、しんっと静まりかえった店の中には、骨董品が溢れかえっていた。
温度が急に下がる。
それはこの場所の気配の所為かもしれないと、龍宮寺は目を細めた。明らかに空気が、この店に入ったときから変わっている。
薄暗い店の中には古今東西の骨董品が複雑に、そしてぎっしりと並べられている。乱雑とも言える滅茶苦茶さだ。銀食器が積み重なり、東洋の壺があり、どこかの部族の大きな仮面が立てかけられていた。
混沌とした店を見回すだけで目眩がしそうだ。
堆く重ねられている品物にあきれかえるどころか、半ば感心すらしながら眺めているとふと店の中央の揺り椅子に座る男が居ることに気が付いた。
「いらっしゃい」
一瞬老人かと見まごう白髪の男だった。けれど、その声もサングラスをかけた顔立ちも若い男のそれだった。店の薄暗がりに溶け込むような、黒い服を着ている。
いらっしゃいと言う割に別に接客をしようと言うつもりはないようだ。
膝の上にのせた本から目を話す様子は無い。
「どうも…適当に見せてもらうよ…」
「どうぞ。ごゆっくり」
男が頷くのを見て、三ツ谷は壁際に置いてある和箪笥の引き出しを覗き込んだ。
中に入っていたのは中世ヨーロッパの職人が生み出した繊細なレースの品々だった。
「わりぃ…ちょっと、時間かかるかも…」
「ああ、別にいい…」
慎重に持ち上げて品定めを始める三ツ谷の真剣な横顔に内心だけで肩を竦めると、龍宮寺は店の中を見回す。
決して狭くは無くても広くは無い店内。高い天井からぶら下がるアールヌーヴォー調のシャンデリアが照らす淡い光りの中で、時間潰しに…と、自分も並べられた品々を眺める。
あまり骨董品に興味があるわけでは無いが、海外の見慣れない古い道具は物珍しかった。
三ツ谷の用事が済むまでだと自分に言い聞かせて龍宮寺は目の前にある銀の食器を手に取った。
どれくらい時が過ぎただろう。
まだレースの品定めに夢中の三ツ谷を横目で確認して、銀のトレーに並んだペーパーナイフを見ていると、ふいに扉が開いた小部屋がある事に気が付いた。続きになっていると言う事はそこにも何かがおかれているのだろうか。
興味が湧いて、足を向ける。
雨音が微かに響いている静かな店内に、革靴の靴底が高い音を立てる。
何故か少し緊張している。
幼い頃に悪友達と廃墟に忍び込んでやった肝試し。
あのかび臭いような、埃っぽい匂いが鼻の奥に蘇る。
この場所の気配は、あの廃墟に似ているのだと今更気が付いた。
ゆっくりと開け放たれた入り口に立つ。
そこにあったのは薄暗い店より更に暗い、窓の無い部屋だった。
棚に置かれたアンティークのランプが弱い光で部屋を照らしていた。薄暗さに目を凝らしてみれば、次の瞬間ぎょっとする。
そこは人形の部屋だった。
部屋一面に無数の人形達が整然と並び、ガラス玉の目にランプの光が反射して白く光っている。
そして、その人形達を背にこちら側を向いて椅子に座る、人間と変わらぬ大きの人形らしきものが一体。
たぶん人形なのだろう。ベールのような白い布で覆われていて、輪郭だけが闇の中に浮かんでいた。
余りの異様さに喉が鳴る。
( 人形…だよな… )
「ご興味がおありですか?」
急にすぐ近くで声がした。思わず肩を跳ね上げる。訝しむ事に意識が向いていたにせよ、近付く気配を全く感じなかったのに。
隣に佇んで微笑んでいたのはあの揺り椅子に座っていたこの店の主だった。
「どうぞ、近くでご覧下さい」
わざとらしいほどの慇懃さで長身の店主は小部屋の中へと誘う。
断ろうと思った。興味は無いと。
けれど、足は勝手に小部屋に踏み込んだ。
大きな人形が座る椅子の前で店主は龍宮寺に笑いかける。
「プランツドール。美しいでしょう?」
白い布だと思っていたものは紗で出来ていてベールのようだった。近付くとその人形の容貌が透けて見えてくる。
見てはいけないものだと、直感で思った。だから、目を逸らした。理屈なんかない。
「さあ…」
店主が促す言葉に、首を振る。
「オレは別に人形が欲しい訳じゃねぇ」
「ええ、知っていますよ」
「だから、必要ない」
言い放って、どこか胸の奥のあたりが痛くなった。
落ち着けと自分に言い聞かせて、こめかみを押さえる。
おかしい。何かがおかしい。
騒ぎ立てる。本能が告げる。
理屈なんかないのに、視線を逸らし、口を突いて出た拒絶に胸を痛くする。
導かれるように、紗の布越しに人形を視線が向く。
何かがおかしい。けれど、抗えない。
「この人形は主を選びます。そして本当に必要の無い人間ならば、お客様はこの人形を見つけられなかったはず…」
店主の声を上の空で聞きながら引き寄せられる。
薄闇に慣れ始めた目に映るその姿。
白い芙蓉の刺繍のある見事な長袍に身を包んだしなやかな身体。堅く瞼を閉ざした、まだあどけなさを残した顔。それは文句の付けようが無い、まるで宗教画の天使のように美しい容貌だった。
「あなたが主であるのなら、この人形は目を覚ますでしょう…」
「……」
手を伸ばしベールをめくった。
あらわになる息を呑むような美しさと、痛々しさ。
長く生え揃う睫が影を落とす、まろい頬の辺りは陶器のような滑らかさだったのに、歪な痣が額から左目まで張り付いている事に気がついた。
「この傷は?」
「とある火事で…受けた傷です。それでも愛情を受け、この人形も幸せに暮らしていた時期もあったのですが…、その主とも死別してしまった。それ以来、この人形は心を閉ざしてしまいました。…もう随分、一人きりでここに座っています」
喪失。
その言葉を思い浮かべると共に、龍宮寺の胸を射通すような痛みが走って目を伏せた。
もう随分昔、自分も愛する人を失った事があるからだ。
ああ、自分がこの人形の元に辿り着いたのはその所為だ。
この人形の辺りに漂う喪失の悲しみに、自分は共鳴したのだ。
深い、深い、地底の湖の底に沈んでいくような悲しみ。
慟哭の刻はもう通り過ぎてしまったから。
後は思い出を抱いて、深く沈んでいくだけ…。
「ああ…ほら、ごらんなさい…」
店主のため息のような呟きに目を上げる。
人形の長い睫が微かに瞬いた。
奇跡のように。
薄い羽の蝶が、朝露に濡れながら羽ばたく瞬間を待つように龍宮寺はただ息を殺してその瞬間を見守った。
「……っ」
長い睫に覆われた色の薄い青の大きな瞳が、どこか重たげな瞼の下から現れる。
こちらをまっすぐに見つめてくる視線に息を呑んだ。
春の朝に見つけた薄い氷のように、脆くてすぐに壊れてしまいそうな繊細さで人形はそこに息づいた。
なんと美しい観用人形。
けれど。
「……おい、なにガンくれてんだテメー…」
人形が初めて発した声はうなり声のように低く。到底その美しい唇から紡がれた言葉とは思えない『ご挨拶』だった。
一瞬呆けた龍宮寺は、次の瞬間盛大に吹き出し、大声を上げて笑った。
「ドラケン?どうした?」
声を聞きつけて三ツ谷が不思議そうに部屋に入ってきても、なかなか龍宮寺の笑いは止まらなかった。
「いや、ちょ…、面白すぎ…だ…ろ…あはははははっ!!」
「うお!?なにこの人形、めちゃくちゃ綺麗じゃん!」
「うるせーっ」
「しゃべった!?」
店主はそっと微笑んで人形と、人形が選んだ主を見ていた。