人魚の恋デザインが好きだ。
何かをこの何も無い手から作り出す喜びは何ものにも代えがたい。
天職だ…なんておこがましいから、せめて『好きこそものの上手なれ…故の職業』位は言い張りたい。
懸命に、誠実に、仕事をこなしていく。
いつかアトリエを持って、自立してブランドを立ち上げるのが夢。
三ツ谷孝の毎日はめまぐるしく走り続ける事で前へ、前へと進む。
努力して手に入るものならば、努力を惜しんでどうする?
それこそ呆れるほど。山のようにある。
だからデザインの専門学校のツテで雇って貰ったデザイナーのアシスタントとして懸命に働く毎日を送っていた。
毎日が死ぬほど充実して、死ぬほど忙しかった。
どう足掻いたって、背伸びしたって、手に入らないものはこの世の中に沢山ある。
それを痛いほど、知っている。
心はあの冬の朝に置き去りにしてきたから。
その日、とある企業のコンペで見事に賞を勝ち取った三ツ谷は、専門学校時代の友人達と打ち上げに繰り出していた。安いが売りの下町の居酒屋に集まってくれた気の置けない面々との盛大な祝賀会だった。
「やっぱ三ツ谷くんは凄い!」
「いや、持ち上げすぎ」
「そんな事無いわよぉ。準グランプリとの差がありすぎて、なんなのって感じだったもん」
正面に座った友人からおかわりのジョッキを受け取りながら困ったように笑う。そんな三ツ谷の隣の席でシナを作りながら頬杖を付いたのは専門学校時代からの友人、若葉ちゃん。性別は本人曰く妖精さん。黙ってればどこのマッスル野郎だと突っ込みを入れたくなるほどの体格を持っている。
彼、いや…彼女…?にはよく自分の服を着るモデルのヘアメイクを担当してもらった。今やメキメキと腕を上げてメイクアップアーティストの道を着々と歩んでいる実力者だ。
けれど、その心根の優しさと、愛嬌で今でも同級生達とは気易い間柄だ。勿論、三ツ谷とも良好な友人関係を続けていた。
そんな若葉ちゃんは可愛らしい色合いのアルコールが入ったグラスを持ち上げながら三ツ谷の顔を覗き込む。
「ねぇ、今度アタシのポートフィリオの手伝いしてくれない?」
若葉ちゃんの分厚い唇のつやつやのリップグロスが光ってる。相変わらず完璧なメイクだなーなんて感心しながら三ツ谷は勿論と、頷いた。
若葉ちゃんのポートフィリオなら、メイクされるモデルのスタイリングあたりだろうかと思ったのだ。
「いいよ。若葉ちゃんには世話になったし。何を手伝えばいい?」
「あのね…三ツ谷くんにメイクさせてほしいのっ♡」
「は?」
思わず上げた間抜けな声に若葉ちゃんは微笑む。
「アタシ、前から思ってたのよ。三ツ谷くんが女の子になったらカワイイだろうなって」
「いや、さすがに無理があんだろ…」
「まっ!!やっぱり解ってないのね、自分の魅力にっ!!」
「わ、若葉ちゃん酔ってる?」
「酔ってないわよ!」
そう言って綺麗なネイルアートを施された長い爪のごつい手に、三ツ谷の細い顎が捕まえられる。
「こーんなカワイイ顔してるのに、勿体ない!!お肌綺麗だし、顔小さいし、目だってこんなぱっちり!」
「え…ぇええ…いや、ウソでしょ?」
「お願い!メイクさせて!!それでアタシとデートしてっ!!」
「いや無理!!ってかそれポートフィリオカンケー無いじゃん!!」
ダメダメと首を振っても若葉ちゃんの剣幕は治まらない。鼻息も荒い。本気だ。そう慄く三ツ谷の隣に座った服飾専門の友人達も身を乗り出してくる。
「若葉ちゃんなに、面白い話してるの!!?」
「いーなー、アタシも混ぜてよぉ!!」
「わーっ!いいから皆、煽るなってっ!!」
結構本気の怒鳴り声も酔っ払いのテンションには届かず、あれよあれよという間に三ツ谷の女装計画は始まってしまった。
本人の同意は全然ナシだ。
ビールのジョッキの泡が無くなっていくのを三ツ谷は何も出来ずに見ているだけしか出来なかった。
■
「…なんでこーなったんだっけ・・・?」
気が付けば数日後には三ツ谷の洋服は完成していて、若葉ちゃんの仕事場の鏡の前に座らされていた。曰く、今日は皆にお披露目する前の試着テストとデートだそうだ。
背後にはトルソーに着せられたワンピース。三ツ谷に合わせて既製品を手直ししたと聞いた。柔らかくふんわりとした素材で出来ていて、三ツ谷の目から見ても男の骨の太さを上手く誤魔化せるように、よく考えられた作りになっていた。悪ふざけもセミプロの手にかかるとこうなるのか…なんて現実逃避し始めた頭の中で他人事みたいに感心する。
でも、いくら何でも男だってバレバレだろっと心の中だけで自分に突っ込まずにはいられない。
( まあ…ギャグだし。ニューハーフって事で…いけんだろ? )
なんて半ば面倒くさくなった三ツ谷は最後には開き直る。
よってたかって面白がってるとしか思えない女装計画は、本日、目の前の若葉ちゃんのメイクによって完成するようだ。
上手くいけばビフォーとアフターの写真を並べ、若葉ちゃんのポートフィリオの一角に加わるらしい。
「じゃ、始めるわねっ!」
化粧品がぎっしり乗ったカートを引き寄せて、気合い充分の若葉ちゃんが何本もある化粧品の中から数本を選び出す。肌の下地を作ってくらしい。途中、男性もスキンケアは必要だと力説されながら顔中に色々なものを塗りたくられた。
早くもウンザリしそうな三ツ谷に向かって、ファンデーションが容赦なくたたきつけられる。
「ごめん。ずっと目を閉じたままだと寝るかも…」
「疲れてる?そう言えばいつもよりお肌が荒れてるわネ」
「ちょっとね…」
マッチョな割に繊細な指先でメイクされるのはこそばゆくもあったけれど心地よかった。
眠気が増す。今夜は完全にオフにして若葉ちゃんのリクエストに応える為に昨日徹夜で仕事を片付けた所為だ。
最近、いくらなんでも根を詰めすぎた仕事の息抜きには丁度良かった。これくらいトんだ企画でもやらないと頭を空っぽに出来ないだろう。
もうこうなったら楽しむしか無いと三ツ谷は腹をくくる。
東卍のメンバーには絶対見られたくないけれど…。
「これリクライニングになってる椅子だから倒して寝てていいよ、できあがったら起こすネ」
「マジで?サンキュ…」
ゆっくりと倒されたメイク椅子に体を預けるともう睡魔に勝てなくなる。
いつ寝たのかも解らないほど、三ツ谷はすぐに眠りに落ちてしまった。
「三ツ谷クン、乗って乗って!」
ぎこちない足取りで手を引かれ、若葉ちゃんの仕事場のマンションから連れ出された。表の通りには高級セダンが待っていて、そこから降り立った人の良さそうな男性が後部座席のドアを開けてくれる。
どうやらこの男性が若葉ちゃんの彼氏らしい。
「どうぞ」
歳の頃は四十代後半だろうか。
若葉ちゃんと並んでも遜色ないほど厚みのある体躯の大柄な彼を見てそう言えば、記憶の中の彼もこれくらいの身長だったなんて懐かしく思い出す。
そう懐かしい。
随分昔に、勝手に好きになって勝手に別れを告げた人。
三ツ谷の唯一だった彼。今頃、どこで何をしているのだろう。
今はモデル業を始め、頻繁に連絡を取っている実の弟からも彼の動向を知ることを出来ないのは、まだ彼らが決別をしているからだ。
記憶の淀みをかき回しそうになっていた三ツ谷のすぐ隣に乗り込んだ若葉ちゃんにはっと我に返る。運転席でシートベルトを締める彼氏は感心したように話しかけてきた。
「本当に男性なの?凄いね、やっぱり若葉のメイクは」
「でしょ?でも、素材がいいからヨ。三ツ谷クン本当に美人だモン」
「いや、若葉ちゃん持ち上げすぎだし…」
数時間前、メイクの完了を告げる声で目を覚ますと鏡の中には別人がいた。
綺麗にメイクされた、どうみても女性のような顔。決して盛られた厚化粧ではないのに、三ツ谷の魅力を存分に生かした上品な仕上がりだった。最後に被せられたウィッグは背中まで届く薄茶色のロングヘア。用意されたシフォンの薄紫のワンピースを身につければ、その昔、バイクを唸らせて黒い特攻服に身を包んでいた不良をやっていたとは到底思えない美女が出来あがった。
「ほらぁ、だから言ったじゃない!」
厚い胸板の前で小さく可愛らしい拍手をした若葉ちゃんは三ツ谷の肩を抱く。
「アタシの目に狂いはなかったワ」
「若葉ちゃんのメイクを信用してなかった…マジごめん。でもここまで変わる?」
素直に感心して自分の姿を鏡の中に覗き込む。
手を上げて、体を捻り、本当に自分なのかと確かめるけれど、そこにいたのは間違いなく自分のようだった。
「じゃあ、これに着替えてね。背中のファスナー上げられなかったら呼んでネ」
「う、ああ…うん…」
渡された女物のキャミソールにはしっかりとバストのパットが入っていて若干引く。一緒に渡された真新しいパッケージ入りのストッキング。コレどうやって履くんだっけ?
疑問と葛藤を繰り返し、なんとか身に纏って鏡の前でチェックする。おずおずとした足取りで若葉ちゃんの前に姿を見せると飛び上がって褒めちぎられた。
本当に、『彼女』の無邪気さは天才的だ。
「うわあぁぁ!!ホントに美人!凄いワ!!」
「ははは…アリガト…」
複雑な心境で笑って見せる三ツ谷は若葉ちゃんもまたドレスアップしている事に気が付いた。
「若葉ちゃん…マジで外出るの?」
「そうよ!せっかくだモン、ディナー行こうよ!彼氏がね、新しくオープンしたお店に連れて行ってくれるって!!」
そう言えば前に一度聞いたことがある。年上の彼は実業家で、都内に何件も飲食店を経営していると。
「いや、若葉ちゃん…」
「実は彼氏がオーナーと知り合いでぇ、席もリザーブしてくれるって♡」
うふっとハートをこしらえながら嬉しそうに微笑む若葉ちゃんに逆らえるはずも無く。
三ツ谷は渋々、若葉ちゃんのデートに付き合う事にした。
■
「ココよ!早く入ろうっ」
「あ、まって…ゆっくり…転びそう…っ」
嬉しそうな若葉ちゃんと一緒に履き慣れないヒールで階段をそろりそろりと地下の店内に降りていくと目に飛び込んできたのは壁一面の青い光りだった。
「わぁ…」
咄嗟に声が出て、慌てて口を塞ぐ。男だとバレないようになるべく声を出したく無かったのに。それくらい驚いた。
それは見上げるほど巨大な水槽だった。色とりどりの熱帯魚が泳ぎ回り、その群れを横切っていく大きなサメまでいる。。
思わず見とれるほど見事なアクアリウムだ。
「凄いよネ、いいお店でしょ?」
「うん…」
若葉ちゃんの言葉に頷いて思わずぼんやりと見とれていると、背後で声がした。
「いらっしゃいませ」
艶のあるテノール。
店員だろうか。
「ああ、丁度良かった。久しぶり」
「お待ちしていました。お久しぶりです…」
振り返ると、長身のスーツ姿の男が若葉ちゃんの彼氏を出迎えていた。
見覚えのある輪郭。
記憶の中にいる彼を形作る、その姿。
息が止まった。
水の中に飛び込んだように。
「あ…」
その長身の男がこちらを見た。
薄明かりの店内。
彫刻のように整った男の顔。金色に光る目と襟元から微かに見える、特徴的なタトゥー。
ぎゅっと心臓が痺れて戦慄く。
このまま溺れて、息も出来ずに死んでしまいたいと、三ツ谷は真剣に願った。
出来るのなら。
出来たのなら。
この場で死んでしまいたい…。
けれど、そんな祈りは通じるはずも無く。
逃げ出すことを選んで視線を外すと三ツ谷は若葉ちゃんに耳打ちした。
『オレ、帰る』
「えっ、ダメよぉ!!一杯飲むって約束じゃないっ!!」
『でも…』
どうしても帰らなきゃならないと告げようとすると彼氏は柔らかく店員に声をかけた。
「彼女達を席に案内してくれ。僕はオーナーと話があるから…、若葉、ごめんね。先に始めてて」
「うん、解った♡」
若葉ちゃんの彼氏が大寿を伴ってカウンター席に歩いていく。その姿にがっくりと全身の力が抜けた。
(助かった…)
「こちらにどうぞ」
「ハーイ!」
別の店員が二人を席に案内してくれる。
なんとか切り抜けた。
心底ほっとした三ツ谷は若葉ちゃんと共に水槽が一番よく見えるフロアの中央の席に案内された。リザーブの札をさりげなく片付けた店員がにこやかにメニューを差し出してくれる。
「なかなか予約取れないんだって。オープンしたてなのに凄い人気なのよ」
洗練された店内。アクアリウムに泳ぐ魚たちがゆらゆらと店の光りを揺らしている。
確かに、見回せばほとんど席が埋まっている。落ち着いた店内の装飾も相まって、客層はいいようだ。
「あの人がオーナー?」
「うん。そうヨ。彼氏の知り合いで、オープンするとき色々相談に乗ったらしいんだけど……あーん…いつ見ても素敵なオーナーねぇ…ちょっと危険な香りがするの。そこがまた痺れちゃう」
若葉ちゃんの彼氏と太寿はカウンターの席に二人で並んでなにやら話し込んでいるようだ。
そう言えば、昔、早くに起業したいと言っていた。彼は目標を着々と実現しているのだ。まさかこんなに早くに店を持つとは想像もしていなかった。
(やっぱり、住む世界が違う人だった…)
「若葉ちゃん、やっぱ、帰るよ…」
コソッと耳打ちして立ち上がる。
「三ツ谷クン?」
心配そうに首を傾げた若葉ちゃんに心の中で謝る。
でも今更…、しかもこんな格好で万が一、太寿に気が付かれたら…。それだけは絶対に嫌だった。悪ふざけだったなんて言い訳もしたくない。さっさと太寿が自分を認識する前に帰らなければ。
殴り合ってた相手だった。それから、偶然と必然を重ねて友達になった。
想いを寄せていた。密やかに。
その想いが例え適わなくても良かった。
この気持ちさえ気が付かないで欲しいと願った。
だから自分からもう逢わないと告げたのだ。
なのにこんな最悪な形で、再会なんてしたくない。絶対に。
「ごめん。借りた洋服とか、アクセサリーはまた今度返す」
言い残して、借りたハンドバッグを抱えると逃げるようには歩き出す。
この店を出るためには太寿達が座るカウンターの後ろを通り過ぎなければいけなかった。
下を向き、なるべく目立たないように…。
緊張で足がもつれそうだ。
履き慣れないハイヒール。これほどまでに歩きにくい靴をどうして女性は平気な顔をして履いているのだろう。
もうすぐカウンターを通り抜けられる。
ちらっと見遣ると話に夢中の二人はこちらに気が付かないようだ。
これならば上手く逃げ出せそうだ。
薄暗い店内で良かった。適度なざわめきも、この不器用な歩き方の靴音を消し去ってくれる。
もうすぐ…。
「あれ、どうしたの?」
若葉ちゃんの彼氏の声が三ツ谷の背中を呼び止める。
会釈だけでもして、すぐに切り抜けようとして振り返ると太寿がこちらをじっと凝視していた。鋭い眼光。
ヤバイと顔が引きつる。
咄嗟に背けた視線。
きっと不自然だった。
どっと冷や汗が吹き出る。
(逃げなきゃ…)
焦ってすぐに出口へ向かおうと歩き出す。
けれど三ツ谷の死角から出てきた、丁度通りかかった店員が捧げ持ったトレーに体がぶつかってしまった。ガチャンと甲高い音がしてトレーに乗ったワイングラスが倒れ、冷たい白ワインが肩から降りかかってしまった。
「!!?」
三ツ谷は驚いた拍子にぐらっと足下がバランスを崩した。慣れないヒールの所為だ。いけないと思う暇も無く体が傾く。
間違いなく転ぶと悟った瞬間、その腕は大きな厳つい手にがっしりと捕まえられた。
「大丈夫ですか?」
転ぶことは避けられた。それでも床に膝をついてしまった三ツ谷は俯いたまま首を振った。
重厚なテノールがすぐ近くで聞こえて、全てが終わったと暗闇に落ちる錯覚に陥った。
ぶつかってしまった店員の謝罪も上手く理解できない。
絶望。
絶対にバレる。
こんな格好をして、どうやって再会の挨拶をしたらいい?
勝手に好きになって、勝手に離れた。
『もう逢わないよ…』
驚いたように目を見開いた太寿の顔。
笑顔で告げた。幸せになって欲しいから。
指先が痺れるほど寒かった冬の朝。
好きだと悟った時から、別れを告げようと決めていた。
こんな気持ちを太寿に知られたくなかったから。
のろのろと見上げる。
相変わらず笑えるくらいの凶悪な顔。
けれど自分と逢わない年月を経た、大人の翳りを纏った顔だった。
クレープを上手に食べれなかったあの頃はもう過ぎ去ってしまった。
『太寿くん…』
あの頃のように名前を呼ぼうとして失敗した。涙があふれそうで、喉が震えたから。
まだ好きだと、そう自覚したら言葉にならない痛みが胸を貫いた。
いっそこのまま、心臓が止まればいいのにと思った。
「怪我は…?」
大人のような顔をして他人のようにそう問われる。大寿なのに大寿じゃないみたいだ。違和感を感じながら、黙って首を振った。すると太寿は自分の胸元からつかみ出したチーフで三ツ谷のワインで濡れてしまった服を丁寧に拭いてくれた。
「冷たくはありませんか?」
こちらに問いかけながら、自分の首に掛かっていたストールで三ツ谷の肩を包んでくれる。
「立てますか?」
頷いて立ち上がろうとすると、自然な仕草で腕と背中を支えられる。
そうしてようやくしっかりと立つことができた。けれど顔は相変わらずまともに上げることができなかった。体を離そうとするのと太寿の逞しい腕が三ツ谷の腰を抱くのは同時だった。
「席までお送りします」
エスコートの見本のような振る舞いに一瞬呆ける。こんなことできる男だったなんて知らなかった。
ざわめいていたフロアが大寿が舞い戻った事で息を潜めるように静かになる。
悠々とその中央を進む。まるで王の帰還を見守るようだ。そうだ、間違いなく太寿はこの場所を統べる者だった。容赦の無い圧倒的存在感。そんな男の隣にいる自分は滑稽で、愚者以外の何物でも無い。その余りの恐ろしさに顔が上げられない三ツ谷は、席に辿り着くまでじっと下を向いていた。
処刑場へと引きずられていく囚人のように。
けれど、太寿の壊れ物を扱うようなエスコートは当然、呆気ないほどすぐに終わりを告げた。
若葉ちゃんがおろおろとして席で迎えてくれる。
「どうしたの、大丈夫…?」
「……」
問いかけられ、頷くと静かに席に座った。太寿はそれを見届けて、お詫びに飲み物を席に届けるから何でも好きなものを頼んで欲しいと若葉ちゃんに告げていた。
「では、ごゆっくり…」
礼をしてまたゆったりとした足取りで去って行く。その背中をそっと見送った。
入れ違いに、若葉ちゃんの彼氏が席に戻って来て二人で三ツ谷の顔を心配そうに覗き込んだ。
「どうしたの、…体調悪かった?」
「ううん…違うんだ…ごめんなさい…心配かけて」
「三ツ谷クン…?」
「……もう大丈夫。飲もうか」
カウンターの向こうにあるスタッフルームへと消えていく太寿の背中が見える。それでようやくほっと息をついた。
この店オリジナルだと薦められたブルーのカクテルは、ブルーキュラソーの効いた爽やかな口当たりだった。『ブルーマーメイド』と言うらしい。レシピは誰の考案か、聞きそびれた。
グラスを置き若葉ちゃんと彼氏の楽し気な会話に頷きながら、水槽を見上げる。運ばれる料理は洗練された盛り付けと味だった。
間違いなくこの店は成功するだろう。業界で話題になっていると若葉ちゃんの彼が言うのはウソではなさそうだった。
太寿はあれから店に姿を見せなかった。もう帰ってしまったようだ。
ざわめく店内でずっと気配を探っていた。
自分の肩に太寿のストールが残されている事に気が付いたからだ。
指先で上質なシルクでできたストールを辿れば深みのあるフレグランスが包み込むように香ってくる。
まったく、上質な大人の男になってしまったものだ。
あの日々は遠い昔になってしまった。
自分をエスコートしてくれた仕草は様になっていた。
きっと太寿にも大切な人が出来たのだろう。
ちくんと胸に針が刺さった痛みを感じた。
最初っから、身分違いの恋だって知っていたのに。
ヒールを履いた足の爪先に視線が落ちる。
履き慣れない華奢な靴の所為で少し痺れてる。
きっと席から立ったらまともに歩けないだろう。
青い水槽を見上げて深海の宮殿みたいな店の中。
ふいに妹達に読んでやった絵本の人魚姫の物語が過って、バカみたいだって気が付いて……そんな自分に苦笑いした。
あんな凶悪な王子様なんていない。
こんな惨めな人魚姫もいない。
自由に泳ぎ回れる尾びれの代わりに貰ったヒールを履いた足。
どうせ適わない恋。
泡になってしまっても、もう一度海に帰りたい。
海の底に沈めば、もう彼の事なんて忘れられるのに。
打ち上げられた人魚のように。