紅い涙 俺に弟が出来た。母は違うが、父は同じ。俺とは違って、ツノが生えていない。
「父上、こいつツノがない」
「この子の母君は人間だからな。鬼の血が強いお前と違って、こちらは人間の血が強い。ツノは生えないぞ」
父上もツノはないが、片方は俺と同じ目の色だ。弟と呼ばれたそれが目を開けると、人間族と同じく蒼い眼が見えた。
「こいつ、同じ生き物には見えない…」
「こらこら紅蓮。お前とこの子は我ら鬼人族の希望なんだ。全ての種族が手を取り合って作る未来、私に見せてくれ」
「…分からないけど、父上がそれを望むなら」
弟は俺に笑いかけて手を伸ばす。小さな手は俺の指を握った。それはあたたかくて、ずっと触れていたいと思ってしまった。
弟、蒼生が生まれて数年。足取りもはっきりしてきた頃から俺たちは父上の指導のもと、武芸を高め合ってきた。物心がつく頃にもう一人、人間の弟が生まれたことで蒼生はすっかり張り切って稽古に明け暮れる日々を送る。
俺はあまり武芸の才能はないらしい。蒼生よりも体は大きく有利なはずなのに、あと一歩のところでいつも勝てない。父上に秘訣を聞いても、それをものに出来る蒼生と、なかなか手に馴染めない俺がいた。
「父上と叢雲が強いのは当たり前だけど、紅蓮、お前も強いな!まだまだ鍛錬が必要だ」
蒼生はそう言う。いつも俺を負かしているのに、どうしてそういう言葉が出てくるのか分からなかった。
「(俺はお前に勝てない。いつもそうだ)」
どうして、お前は俺を強いと言う?お前のほうが強いのに。
「紅蓮は頭もいい。俺は政はからっきしだし、お前が父上の跡を継いで、俺は叢雲たちのように紅蓮を支えたいんだ」
どうして、お前は俺を持ち上げる。まわりはお前が父上の後継者に相応しいと誉めそやしているのに。
「紅蓮と一緒なら、この世界を変えられるって、俺は信じているぜ」
どうして、どうして、蒼生、どうしてお前は…。
「ああ、俺もそう思う」
伸ばされた手を掴む。このまま引きずり倒して、そんなことはないと泣いて泣いて、そうできたら楽だったのかもしれない。俺は、弱い…。
俺の母上は、近頃はお体の調子が悪いと言って床に臥せっているらしく、お部屋に籠りきりになっている。心配だから直接お会いしたいが、母上の側近である不知火がそれを許してはくれなかった。
自分の母上とさえも顔を合わせてお話ができない。母上は高貴な身分だから仕方ないが、蒼生のところはそうではないみたいだ。蒼生の母君は幼い頃はよく蒼生の稽古を見守っていて、誰にでもわけ隔てなく、鬼族の俺にも優しくしてくれていた。
父上は同じなのに、どうして母上はこうも違うのか。幼心に蒼生の母君に尋ねたことがあったが、あの人は少し困ったように眉を下げて、頭を撫でてくれた。
『子を愛おしく思わない親はいませんよ』
親が子にかける愛情の度合いはそれぞれだと、そう言い聞かせてくれた。
母上と少しお話がしたい。そう思って母上の邸に出向いてみた。お部屋の表には不知火はおらず、御簾越しに声をお掛けしてみた。しばらくの沈黙のすえに、か細い声が返ってきた。
「母上、ただ今戻りました」
「…紅蓮ですか?」
「はい。突然訪ねてしまい申し訳ありません」
「良いですよ。今日は少し体調が良いから。少しお話でもしましょうか?」
細かい目の向こう側で、起き上がるようなしぐさが影として見えた。
「母上、起き上がらずとも。楽な体勢で結構ですので」
「そうですか…気が利く子ね。本日は鬼人族の御邸へと言ったそうね?貴方の父君のご様子はいかがかしら…」
「はい。変わらず。今日も私と弟の稽古をつけてくださいました」
「弟…貴方は未だに人間と仲良くしているのですか…?」
母の声色に怒気が混じる。しまった、この方の前で人間の話をしてしまうなど。俺はなんて失敗をしてしまったんだ。
「父君はこちらにまったくお姿をお見せしてくれないのを、貴方も知っているでしょう?こちらへ来ないばかりか、人間の女のそばにばかり寄り添って…所詮、弱きもののほうが愛おしいのね。貴方だって、あの人から見たら弱くて愛らしいもの。純潔の鬼ではない、半端者だから」
「……、申し訳ありません」
「早く父上に認められて、一族を統べる者へおなりなさい。貴方にはそれしかないのだから」
「深く、心に刻んでおきます…」
御簾越しに深々と頭を下げる。母上は一切こちらを見ない。俺のことなど、誰も見ていない。顔を上げると、不知火が退くように促してきた。
「紅蓮様、これ以上は御母君様のお体に差し障ります。お引きください」
「…それでは失礼いたします」
もう一度頭を下げて、母の御前から出ていく。外で待っていた火継は不気味に遠くを見つめていた。
「お戻りになりましたか、紅蓮様」
「今日はもう湯あみをして寝所へ向かう。お前はもう戻れ」
「そうはなりません。いつ何時でも貴方のお傍にいるのがわたくしの使命ですので」
「……一人きりになりたいんだ」
「なりません」
深くため息を吐く。一人きりで感傷にも浸らせてくれない。誰も俺を見ていない、俺の後ろしか見ていない。孤独が俺の中に深く根を張り巡らせて支配する。
いっそ非道になれば?蒼生をだまし討ちでもして、二度と後継者になんてなれないように腕を潰すか?ぐるぐると、あり得ない思考が脳裏を巡る。
その晩、俺は夢を見た。蒼生と手を取り合ってこの世界を統べる夢を。理想が現実になった世界。皆が笑い、喜ぶ世界。
『やっぱり、俺たちでなら世界を変えられた!』
隣に立つ蒼生に柑橘のように爽やかな笑顔を向けられて、俺もつられて微笑む。
『ああ、そうだな』
所詮夢は夢だ。目が覚めて、現実はなにも手に出来ていない。空っぽの両手を握りしめる。虚しさが胸を占拠した。
「一人でも、俺は世界を変えてやる」
俺は夢を見ることをやめた。
「おーい、紅蓮!」
所用があり鬼人族の邸に訪れた。あまり会いたくない人物に早々に顔を合わせてしまう。
「…」
「あれ?聞こえてねえのか?ぐれーん!」
「…聞こえている」
蒼生のまぶしい笑顔が俺を照らす。
「なあ、いま来たのか?あっちで手合わせしようぜ!叢雲が手が空いてるっていうから付き合ってもらうんだ」
「俺はいい。ただのお使いでここに来たからな」
「お使いってなんだよ?」
「母上から父上宛の書状だ」
「紅蓮の母上、病に倒れているって聞いたけど、大丈夫か?」
「医術に心得がある側近がいるから心配は無用だ」
「父上も最近忙しいみたいだし、顔を見にいってやれないと嘆いていたぜ」
「…仕方ない」
「で、その書状を届けたらあとは自由だよな?手紙は偃月に預けてさ、叢雲のところに行こうぜ!」
強引に俺の腕を掴んで走っていく。鍛錬場に連れ去られて、そこには一心不乱に剣を振るう叢雲がいた。
「叢雲!紅蓮を連れてきたぞ!」
「蒼生様に紅蓮様。これはこれは」
「手合わせしてくれ!遠慮はナシな!」
「蒼生様はいいですが、紅蓮様はお父君の許しは…」
「父上はいなかったしいいだろ!あ、これ、偃月に渡してくれ」
蒼生は俺の手に持った書状をひったくり叢雲へ渡した。
「蒼生様はまったく…紅蓮様、これは私がしかとお預かりいたします」
書状を胸元に仕舞うしぐさを見せる。今すぐにでも父上へお届けしてほしいが、蒼生が言うには父上はいないようだ。叢雲もすぐには届けないところを見ると本当なのだろう。
母上の書状には何が書いてあるかは分からない。先日のご様子を見るに、母上の御邸へお顔を見に来ないことへの恨み言が書いてあるのだろうか。自分の母上のことを悪く言うようではないが、病に臥せってから、母上は少しおかしくなってしまったように感じている。心細さから弱くなってしまわれたのか…。
「早く!早く手合わせ、な?!」
幼さ故の素直さが蒼生にはある。天真爛漫なあいつの周りは常に笑顔にあふれていた。
「(俺も、そうなれたらなら…)」
拳を強く握りしめた。爪が食い込むほどに、肉を割き血が溢れる。
「おい、紅蓮!手、血が…!」
ハッと我に返る。握った手を開くとそこは血潮で溢れていた。
「怪我してたのか?痛かっただろ?叢雲、早く傷の手当を」
「御意に」
すばやく俺の前に跪くと体を持ち上げる。叢雲の巨大な体躯はまだ青年にはなりきっていない俺を運ぶのは容易い。俺を抱えながら邸のほうへ駆けていった。そのあとを心配そうな表情でついてくる蒼生。
「紅蓮様、痛かったでしょう。いますぐに治療をいたしますので」
「……すまない」
俺は鬼だからこの程度の傷ならすぐに治癒してしまう。叢雲は分かっているはずなのに、それなのに俺を人間のように、弱きもののように扱う。俺が純潔の鬼ではないが故の哀れみなのか?
「おーい!紅蓮様がお怪我をなされた。すぐに治療の準備を!」
邸に入るやいなや、叢雲は大声で呼びかける。その声に反応した使用人たちがすぐに集まってきた。傷口に水をかけて血を洗い流すと、薬草を傷口に宛てがってから木綿の細布を巻き付けた。
「これでもう安心でしょう。痛みは徐々に引きます。大事をとって、今日のところは手合わせは見送りましょう」
「これくらいの傷、鬼の俺には」
「傷は傷です。さ、蒼生様も今日はご勘弁を。もうじきお父君様がお帰りになられますゆえ」
「仕方ねえな。紅蓮、怪我が治ったらすぐに稽古しような」
残念そうな表情をする蒼生。俺は手合わせをしなくて済んでせいせいしている。程なくて、父上がお帰りになられた。
「紅蓮、蒼生、来ていたのか」
偃月を後ろに連れた父上が現れる。そこへすぐに蒼生は飛び込んでいった。
「父上!おかえりなさい!」
==========================
「貴方の弟君様がお生まれになっていれば…あの御方も少しは心晴れやかに過ごすことが出来たでしょうに…」
母上の側近である不知火はそう言った。俺の弟?俺の弟は蒼生と白波の二人だ。生まれていればなんて、まるで…。
「俺には、もう一人、弟がいたのか…?」
「貴方の御母堂様は、病に臥せる前、紫耀英様の御子を身籠っておりました。しかしご不幸が重なり…この世に産声を上げる前にお亡くなりになられました」
「俺に、生まれてこなかった弟が…」
「それ故に、あの御方は貴方へ期待をかけていた。たった一人の御子息である貴方様を、この鬼族の族長とするために」
俺は母上だけでなく、まだ見ぬ弟も亡くしていたのか。どうして、俺だけがこんな目に遭うんだ。どうして、蒼生はなんの障害もなくのうのうと生きているんだ?
分からない、俺が何をした?ただ、父上と母上の期待に応えたくて、でもそれに応えられない自分がいて、みんないなくなってしまった。
「誰も、俺を…」
「貴方がもっと強ければ、貴方の御母堂様は無念のうちを残したままこの世を去ることはなかったのですよ」
吐き気がした。自分の弱さに。
==========================
一度でも人の血が混ざれば、その胎は汚れてしまう。二度と純潔の鬼は産めない。これは御伽噺だと思っていた。
自分を顧みない夫への復讐心と寂しさから、側近である不知火に身をゆだねてしまった。
呪われた胎に宿りし命は、十月十日を前に死をもってして這い出てくる。御前の身心はぼろ布のように擦り切れてしまっていた。