冷たい温度冷たい温度
「今晩は、眠れそうな気がします。」
夕食後、談話室で晶の膝を枕に、ソファでごろりと寝そべっていたミスラが呟く。晶がその柔らかな髪を梳く度に、目を細める彼はまるで猫のようだ。
今この部屋には、二人しかいない。そのせいかいつもより静けさを感じるが、不思議と気まずさはなかった。もう短くもない時間を共に過ごしているお陰だと、そう思いたい。
晶はミスラの言葉に、視線を賢者の書から動かす。
「それは良かったです。もう部屋に戻りましょうか?」
「俺は別に、ここでも良いですけど。」
「駄目ですよ。ちゃんとお風呂に入って、着替えて寝た方が、絶対気持ちが良いです。」
「面倒だな…。」
魔法一つで、体を綺麗にすることも、着替えることも容易いが、今はそうした気分じゃないらしい。うだうだと晶の膝の上でごねる彼だったが、ようやく身を起こす。
「今日は、ミスラの部屋に行きますから。」
「そうしてください。あなたの部屋は、悪くないですけど、すぐ誰か来そうで落ち着かないんですよ。」
「それはすみません…。」
「さっさと準備して、来てください。」
ミスラの催促に、晶も慌てて書類を片付ける。これは急いで、就寝準備をしなければならない。それじゃ、と立ち去るミスラを見送ると、晶もまた自分の部屋へと帰っていった。
♢
「ミスラ?いますか?」
こんこん、とミスラの部屋のドアを叩く。廊下は静まり返り、部屋の主人は顔を出さない。それほど大きな声ではないものの、気配に敏感な北の魔法使いならば気付くはず。
気が変わって、散歩にでも行ったのだろうか。あるいは、厄災の傷そのものが、奇跡的にも緩和されたのか。
部屋の前でうんうん唸る晶だったが、このまま悩んでいても仕方ない。
くるりと踵を返そうとした、その時。
ーパキンッ。
何かが割れる、音がした。
よくよく耳をすませれば、ガリッと噛み砕く音も続く。それは、扉の向こうからだ。
そっと触れたドアが、まるで晶を迎えるかのように、キィ、と開いていく。
「…ミスラ」
無造作に開かれたカーテンの隙間から、大いなる厄災が顔を覗かせている。
暗闇にも関わらず、晶の目はミスラを捉えていた。溢れる月光に照らされて、彼は窓枠に腰掛けている。ただそれだけなのに、抗い難い魅力を放っていた。その指先がぴくりと動くと、彼はようやく晶の方へと顔を向ける。
「…遅いですよ。」
不機嫌そうに呟き、戸口に突っ立っていた晶をぐいっと引き寄せる。背後で閉まる扉の音で、ようやく晶は現実に引き戻された。
「す、すみませ…うわっ。」
「あぁ、良いですね。温かいと、よく眠れそうです。」
風呂上がりだった為か、いつもよりも高い体温に満足したらしい。そのまますりすりと晶の首元へと、顔を寄せる。
いつものように抱きかかえようとして、晶はふとその口元に目を見遣った。
先程聞こえてきた音の正体について、何故かふと、気になった。
「ミスラ、さっき、何かを食べていましたか?」
「はぁ、マナ石ですけど。」
至極当然のように返された答えに、晶は沈黙した。魔法生物、あるいは、魔法使いの成れの果て。彼らはそれを糧にして、生きている。
それが、ただの人間である晶との、相違点。
返答のない晶に、何を思ったのか。
「あなたも、食べたいんですか?」
「へ?いや、その、人間は食べられないはずなんじゃ…。」
「はぁ、そうでしたね。でも、味見くらいなら、してみます?」
「え、味見…?」
ポケットの方にごそごそと手を遣ると、ミスラは晶の上に覆い被さる。いつの間にか、晶は彼を見上げていた。長い手足はまるで檻のように晶を閉じ込めていて、眼前には端正な顔立ちが迫っている。
その口元には、煌めく石が半分顔を出していた。
「ふぁい、ほうほ。(はい、どうぞ。)」
「あ、待っ…!?」
戸惑う晶の口に、冷たい石が、差し込まれた。
味も匂いもない、ただの異物に、拒否反応を示すのは必然だろう。
だが晶は、舌がその存在を確かめる前に、別の事に意識を持って行かれた。
やわらかな温もりが、唇に当たっている。
本人は味見なんて称しているが、まごう事なきキスだ。マナ石を介して、ミスラの口付けは角度を変えながらも続き、終わらせることができない。5秒、10秒と経った頃から、数えるのをやめた。
やがて唐突に、二人の温度に染まった石は、ミスラの舌に絡め取られる。
パキンッ、と乾いた音が、また響いた。
「味見、できました?」
「…はぁ、もう、十分です…。」
息も絶え絶えにそう呟く晶を、ミスラは常と変わらず気だるげな表情で見下ろした。月光に煌めくマナ石は、もうない。
けれど唇に残った温度は、まだ冷めそうになくて。
真っ赤になる晶を見て、ミスラは至極満足そうに、無邪気に笑った。