二十四節季「大寒」帰宅すると、なにやら張りきった様子、エプロン姿の五条に出迎えられた。
「今日は僕が夕飯作るから、七海はまず、これで一杯どーぞ」
ご丁寧にお猪口と徳利を目の前に用意されたら、冷蔵庫には今日中に食べておきたかった食材があるだとか、すでに開いている酒があるだとか、そんな野暮なことは頭からすっぽり抜けてしまう。
ガラス製の器によって、とおく向こうまで透けて見える純粋な色合いをまず楽しみ、美しい酒へ思わず感嘆の吐息を漏らす。それをキッチンからうっとり眺めてくる五条を透き通る水面越しに眺めながら、舌の上へ見目麗しいそれを流した。
「実家から送られてきたもんだから、きっと美味しいだろうけど……どうかな?」
「大変おいしい良いお酒ですが、本家からということはアナタに飲んでほしかったのでは?」
「いやいや。本家のヤツらが一番に、僕が下戸なの知ってるから。それはまさしく、当主サマがお熱なお酒を嗜まれる恋人サマへ、でしょうよ」
七海だって分かってはいて、五条の本家から送られたとなるとそれだけで相当な箔がついたものを、ぐいと豪快にいってしまった罪悪感から言ったのみ。どうせ飲んでしまうのなら余計な思考は忘れて思い切りいただこう。改めてお猪口へ雫を垂らし、少し辛口の、冷えた酒で喉を潤した。
「あー! もう二杯目にいってる! ダメでしょ、空きっ腹にぐびぐび飲んだら」
「わかってはいますが、なにせ美味しくて。アナタもひと口くらいどうですか」
「いらないよ。そんなに美味しいのなら、その味が分かる七海が全部飲んでやった方が酒も嬉しがるさ」
キッチンからやってきた男は、口ぶりだけで怒って見せ、慈愛のたっぷりこもった目を細く弛ませながら七海の額に唇を落としてくる。まるで子供とお母さんの図で、けれど自分たちは一つしか違わないうえに彼の方が下戸ときた。これには七海の頬も緩み、くすりと鼻から息が零れていく。
「おつまみは、まず出汁巻き卵をどうぞ~」
「この店は随分と景気が良いようですね。大根おろしが山盛りじゃないですか」
「常連さんの顔は覚えてますから。お客さん、出汁巻き卵に大根おろしたっぷり乗っけて食べるの好きデショ」
「よくご存知ですね。そんなことまっで覚えているだなんて、もしかして私のことがお好きで、よく見ている……とか?」
「そりゃあもちろん、だいだいだ~い好きですよ、お客さんのこと」
「公私混同はいけませんが、私も好きですよ、アナタのこと」
「おっ! いいねぇ、じゃあ僕あと一時間で終わりだからさ、それまでいてよ」
普段、冗談を言うなら五条の側が多く、今日は七海から仕掛けたのはなにより、彼の作る出汁巻き卵が七海の好きなおつまみランキングでも上位に食い込む絶品であるおかげ。酒の力添えもあって飛び出した軽口に、五条も乗っかってけらけら高い声を上げた。
「でもこれだけで満足してもらっちゃあ困るな。今日はすごいよ。ゆっくり飲んでな。他のも持ってくるから」
またしても五条は、汗水たらして働いてきた七海の額に唇をよせて。ちう、と親が幼子に送るようなキスをくれる。それがくすぐったいのなんのって。七海はぽっと赤くなる頬をごまかすため、さらに酒をあおった。
五条がキッチンに戻るとパチパチと弾ける音が鳴りだした。これは、七海の舌を唸らせる辛口寄りな日本酒の、最高のお供と言えよう揚げ物の音ではなかろうか。五条の手元を覗き込みたくて立ち上がったのを、くるりと振り返った五条本人に目撃されてしまう。
「あ、はは。オマエほんとに酔ってる? いつもならお行儀よく待ってるのに」
「アナタが私好みのメニューを用意できるのが悪いんです」
「そんなに信用してもらえると腕のふり甲斐があるね。ほら、もうできたから、熱いうちにどうぞ」
出汁巻き卵はほかほか温かいうちに食べきりたく、けれども最後まで取っておきたい、今夜の締めに好物はとっておきたいという子供じみた考えがあった。
五条が湯気の立つ皿を片手にこちらへ来るまでは。
「ッ、天ぷらですか」
「そう。ふきのとうの天ぷらだね」
「あぁ、どうして。アナタ、お酒なんて一滴も飲めないくせに、こう、全てを理解っているんです」
ふわんと鼻をくすぐる良い匂いに七海は眩暈すら感じた。カラリと揚がった衣の奥にみえるうすい緑、ころんとした大きさ、未だちいさくパチパチと熱さを物語る音色を奏でるふきのとうの天ぷらは五個。たったの五個。きらきらと塩をかけられるか、とぷんとつゆに浸かるか、自分たちの未来をわくわくと待っていてくれそうな五個を、惚れ惚れ眺めてしまう。
「このほかに煮物があるよ、大根のお味噌汁もね。ご飯もいま用意してあげる」
どうせ食べるなら温かいものを食べてほしいという思いで、出汁巻き卵と天ぷらは作り立てを用意してくれたのだそう。それからほどなくして根菜が鶏肉のごろごろと入り乱れた煮物、大根は葉まで入った味噌汁に、つやつやの白米が並んで。
「旨い酒で酔わせたうえに、私好みのメニューで満腹にさせて……アナタ、私をどうするつもりですか」
あちこち皿と口の間を忙しく行き来させる箸の合間に尋ねると、すでに夕飯を済ませていたらしい五条はテーブルの向こうで、それはそれは嬉しそうにこちらを見つめる。
「どうするつもりとか、そういうのは、まあ……うん別に。というかそもそも使った食材は全部、実家から送られてきたやつなんだよね。ほら、今日って大寒だろ? 大寒に汲む水、それで仕込んだ酒とか味噌とか、この時期の卵とかって、旨さはもちろん健康を願えるんだってさ。だから、七海にたくさん食べてもらいたかった、ってワケ」
「なるほど、そういうことでしたか」
京都にある五条の本家なら、そういった季節の事柄を強く意識し、当主の健康を願い旬物をどさりと送ってくるのに納得だ。酒については七海を意識したもので、食材はどうぞお二人で、ということなのだろう。
「おいしい?」
「おいしいですよ。食材そのものもですが、私の好みをすべて理解してくれたアナタの腕のおかげさまで。今年始まっていちばんのご馳走ですね」
「あんまり褒めるなよ。調子乗るだろ」
「乗ったらいいじゃないですか」
七海は箸を一旦置き、お猪口をぐいと傾ける傍ら、テーブルの下ではこっそりスリッパを脱いだ。靴下の足先で何をするのかと言うと、向かいに座る男の、優雅に組まれていた足をツ…と撫で上げる。テーブル下であったことにより、五条であってもびくりと肩を飛び上がらせた。
「な、なな、なになに? 大寒ともなると流石の七海も人肌恋しくなるの?」
「アナタが居るから酔ってしまったようです」
『アナタ』という言葉を強調させたことで、五条はどうしようと呟きながら照れた風に首の後ろを掻く。それからおもむろに立ち上がった。
さては、こちらにきて、きっとなにか、されてしまうのだろう。
そう淡い期待を抱いた七海だが、実際には五条は七海の横を素通りする。
「どこへ行くんです」
焦った七海に対して五条は、赤らんだ頬で振り返る。
「大丈夫だよ、ゆっくり食べてな。寝室の暖房を切ってくるだけだから」
あぁ、そういうことか。
五条の言わんとするところを完全に理解した七海は、残しておいた出汁巻き卵に残っていた大根おろしをすべて乗せ、大きなひと口で夕飯を食べきる。
これから二人ともが暑い思いをするのなら、余計に汗をかくだろう暖房は不要だし、満腹であるのは運動を前に都合が良い。風呂は二人で入るのだろうかとは、皿を運びながら考える七海の耳に、浴室の予備暖房を新たに入れる音が届く。
ならば浴室が温まるまで、二人で何をしよう。
皿洗いはすぐに終わってしまうはずだから、いっそ浴室の予備暖房すら無駄になることをしてしまおうか。
やはり酔っているらしい思考回路に呆れた笑いと、ずくりと期待する心が両立して。
「七海」
呼ばれた先で落とされたキスは今度こそ、待ち望んでいた唇へ落とされる。
厳しくなる寒さに反比例、こと二人においては本日も熱く燃えるのです。