昨今の飼い主は愛情が足りない見慣れない部屋の天井が目に映る。
ここは…と脳内を巡回するがぼんやりと生温い液体に浸されているようではっきりしない。
窓を見ると大分高い位置に太陽がいる。
まずい、寝過ごしたとがばりと体を起こすがそのまま横に倒れ込んでしまった。
なぜ、どうして、早くしないと、仕事が、と頭の中がこんがらがっていくがふと昨夜のことを思い出した。
長身に白髪、あの美しい碧眼を包帯で隠した五条悟。
ということは、ここは五条さんの家か…。
くそ…と悪態をつきながらゆっくりと辺りを見回す。バカみたいに広いベッドにモノトーンで揃えられたサイドテーブルとチェスト。その上には薬とゼリーと水。
バッグとスマホが見当たらない。
ベッドからゆっくりと降りて扉を出る。人様の家を勝手に歩き回るのは申し訳ないが扉を一つずつ開け確認していく。リビングのドアを開けると机の上で探しものを見つけた。
スマホを起動し時間を確認する。
十四時過ぎ…
大きくため息をつき上司の番号を呼び出す。
「…七海です。大変申し訳…」
「な、七海っ!今日は休みだな?!有給もあるから10日程ゆっくり休め!」
「あの、」
「いいな!」
一方的に通話を切られてしまった。
これは…五条さんが何かやったな。学生時代から規格外の男だ。うちも多少名の知れた企業なので何処かに伝手でもあったのだろう。
バッグから資料とパソコンを出し殆どまとめておいた業績レポートを最終確認する。それを同僚に謝罪とともに送り、今度は顧客のアポの調整を行う。やはりこちらまで手が回っていなかったようで、電話をかけながらこちらでも謝罪をする。調整完了の旨を上司にメールだけし十五時半。
一段落したところで頭痛を思い出した。疲れなのか視界も少しぼやけている。
置いてあった薬を申し訳ないが貰って鍵を探そう。ポストに入れれば恐らく問題ない。
茹だった頭で考えながら机の上を片しふらふらと寝室へ戻る。
尻もちを着くようにベッドに座り薬を確認。解熱・鎮痛、期限は切れているようだが贅沢は言うまい。ペットボトルの蓋を開けるのもしんどいことに気が付き気が滅入る。また、薬を飲めば喉に違和感を感じ舌打ちしか出てこない。
「……クソが…」
目眩を感じバタリと倒れ込んだ。もういい、少し寝かせてもらおう。
五条さんが帰る前に鍵を見つけて、後日高専宛にでも菓子折を送って…
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ヒュッと息が詰まる心地がして目が覚めた。酷い夢を見たような見ていないような。自分の呼吸と心音がうるさい。じっとりと体にまとわりつくシャツと横になっているはずなのにグラグラする視界。
…今何時だ?と時計を探すも見つけることが出来ないうえに嘔吐をする程ではないが気分が悪い。
這い出るようにベッドから降り壁伝いにトイレを目指す。
時折くずおれそうになる身体を叱咤し何とか便器の前にへたり込んだ。はぁはぁと荒い息を吐きながらも人の家での粗相だけは回避出来ると安堵する。しかし、こんな状態で鍵を探すことも五条さんが帰宅するまでに退散もできるのだろうか。
この間にも末端からどんどん体温が奪われていくうえに、座位を保つのもキツくなってくる。ぐらりと大きな目眩を感じ気がつくと床に倒れ込んでいた。体が言うことをきかない。
こんなに辛いのはいつぶりだろうか。この程度で死ぬわけはないだろうが少し不安になってくる。これ以上他人に迷惑をかけたくないのに。
いよいよ視界も狭まってきた。
…寒い
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ふわりと身体が浮く感覚がした。暖かい何かに包まれているような、子供の頃祖父に抱き上げられ膝の上で絵本を読んでもらった時のことを思い出す。
その暖かさと懐かしさにこのまま深い眠りに戻りたいと思ったが私を呼ぶ声が聞こえた。
瞼が重く脳は光を嫌がるが仕方なく無理やり目を開ける。
…白いイソギンチャク…?
目が霞んでいてよく見えないがうにょうにょ動いて何かを言っている。
それが私を抱き起こして今度は服を剥ぎだした。寒い、勘弁してくれと思っていたが謎のイソギンチャクが暖かくなぜだかとても懐かしい匂いがする。優しく頬を撫でられている内にいつの間にか寝てしまった。
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再び目が覚めると寝室へ戻っていた。最後の記憶は気分が悪くなってトイレで凍えていたところだが…
起き上がっても昼のような酷い目眩はないし気がつけば服も変わっていた。
遅かったか…。
家主が帰って来てしまったようだ。できれば彼が出ているうちに家に帰り菓子折だけを送り付け、お互いまた知らない世界で生きていれば良いと思っていたのに。
あの人が一度懐に入れた人間にはどこまでも甘く、その人が離れていけば追うこともできないまま寂しそうにその背を見ていた。
私はその姿を知っていたのにも関わらず彼から離れてしまった。
いっそもう二度と会いたくないというのが普通なのではないだろうか。
学生の頃はあの人の力が恐ろしかった。圧倒的な差があるにもかかわらず手合わせをさせられ、その際には容赦なく顔面に叩き込まれ口悪く蔑まれる。
しかしあの頃はお互い子供で余裕もなく、彼の親友が彼の元から去った時にはこの人も人間なのかと思ったのに。
私なんて彼の嫌な思い出のひとつかもしれないのに。
「あ、七海起きたの?」
ガチャリとドアが開いて五条さんが入ってきた。
「ごじょ、さ、ん…」
彼の顔を見てしまえば一刻も早くここから出て行きたいと思う。
緊張と熱で声が出しにくい。
「どうした?」
「ごめいわく、おかけして…」
「無理すんな、大丈夫だから。」
冷えピタをべしっと額に貼られた。優しい声にどんどん申し訳なくなっていくが同時に彼の瞳から垣間見得る寂しいという感情が分かってしまい、つい会話を続けてしまった。
「うっ……あ、の…しごとは…?」
「僕の?それともお前の?」
「…どっちも…」
「僕はちゃーんと行ってきました!特級二件と授業2コマ!お前の方は朝チャラい感じの上司から電話が来たから休みます、って言っといたよ。」
五条さんがペットボトルを開けそのまま飲ませてくる。
「っはぁ…ひるま、れんらく、したら…とぉかはやすめと…」
「あぁ。お前有給溜まってて消化しなきゃみたいだったからね。」
やはりこの人が何かしたのか…
それを聞いてこの人の力は物理的にも社会的にも強大で私一人のため何かにその力の一片でも使わせるべきではないとあらためて思った。私なんかに割く彼の労力が勿体ない。彼の寂しさを埋めてやれる人間に私はなれる訳が無い。
「よし、お粥温めてきてあげる!少し寝てな。」