空に誓い3 狼族、五条悟の朝は早い。早すぎるほど早い。
日照時間により変動はあるらしいが、まだ寒さの残る冬の終わりに六時前に起きるのだから、これから春夏と季節が進むと、もっと早起きになるのかもしれない。はじめの頃は悟と一緒に起きようとしていた乙骨憂太も、今は目覚ましが鳴るまでベッドの中で眠るようになった。
そうさせてくれたのは、悟だ。
無理に起きようとすると、ベッドの中で抱きしめられ、もう一度眠るまでずっと頭を撫でられる。そんな風に甘やかされるから、もう無理するのもやめた。
獣族は愛情を求めるなんていうが、どう考えても自分の方が愛情を注がれていると思う。
そんなことを考えながら布団の中で微睡んでいると、ほんの僅かに冷たい風が布団の中に入ってきた。そしてすぐに、温かくて大きな腕に抱きしめられる。
「ん……」
触れられる感触で覚醒が近づき、悟の腕の中で身じろぐ。すると、カチリと小さな音が聞こえた。
前言撤回。ここ数週間、目覚ましの音は一度も聞いてない。
「憂太」
「んー、」
「憂太、朝だよ」
抱きしめられたまま、目覚まし代わりに何度も名前を呼ばれる。寝起きは悪い方ではないつもりだが、悟の体温が心地よくて、いつも目を開けるのが惜しい。
優しく頭を撫でられているのに、ふさふさの尻尾は覚醒を促すようにペシペシと腰の辺りをずっと叩いている。このアンバランスさも心地よい。
「起きないなら、キスするよ」
その言葉に、パチリと目を開けた。
慌てて悟の身体から離れると、彼はふっと眉を寄せる。
「そんなにキスされるの嫌?」
「い、いやじゃ、ない、けど……」
思わず触れるのは左手の薬指の指輪だ。
そんな憂太の姿を見て、悟はふっと息を吐く。
「じゃあ、今日もこっちでいいよ」
そう言って、悟は自らの頬を指さす。これが悟の最大限の譲歩であることを、憂太は知っている。
だから、憂太は一度離れた悟に身体を寄せると、その頬にそっと口付けた。
「……おはよう、悟」
「うん。おはよ、憂太」
最愛の恋人であり、唯一無二の婚約者を亡くして早くも四十九日が過ぎた。悟との生活も三週間目に入り、少しずつではあるが、今の生活に心と身体がついてくるようになってきたと思う。
でも、決して悲しみが消えた訳では無い。今日で四十九日ということもあり、憂太は仕事の休みを取っていた。
良くも悪くも生きている以上時間は過ぎる。そうして、心よりも先に身体が里香の居なくなった現実に順応していく。
それがどうしようもなく悲しいのに、その悲しみに耐えていられるのは、間違いなく目の前にいる悟のおかげだ。だからといって、心はまだ順応できていない。
愛情を求める獣族である彼は、言葉だけではなく肉体的な愛情表現を求めている。彼と同居をはじめたその日にキスをされた憂太は、悟から度々おねだりをされていた。
それをやんわり断り続けている内に、強引なところもあるが心優しい獣人である悟は、少しだけ譲歩をしてくれた。一つ、必ず同じベッドで眠ること。一つ、抱きしめ合うことは拒まないこと。一つ、頬へのキスは許容すること。
この三つを守るなら、しばらくは今のままでも許してあげる。そう言われたのは、一緒に住み始めて一週間が過ぎた頃だ。きっと獣人にとってはかなりの譲歩なのだろう。
「憂太」
「え? なに?」
「なに? じゃないよ。考え事は後にして、ちゃんと食べな」
「あ。ああ、ごめん」
そう言われて、すっかり朝食の手が止まっていたことに気づいた。
今日の朝食は、焼きたてのトーストにとろりとした半熟のスクランブルエッグ。ケチャップやマスタードを好みでつけて食べるスタイルだ。それにミニトマトとリンゴも用意されている。
まるでホテルのようにおしゃれな朝食を用意してくれるのは悟だ。朝食だけではなく、仕事の日の弁当や、休日の昼食。そして、夕食も。悟と暮らし始めてからは、すべての食事が悟の手作りになった。
そのおかげもあって、元々細い上に里香が亡くなってからさらに痩せた身体は、随分と健康的な体型に戻ってきたと思う。
「食べたら支度するんでしょ。しっかり食べないと、また具合悪くなるよ」
「……うん。ありがとう」
悟が居ても、心身共に全てが回復したわけではない。ふとした瞬間に里香が居ないことを実感して表情が抜け落ちることや、病院で交わした最後の会話を夢で見て、泣きながら目覚める朝もあった。
そんな姿を知っているからこそ、悟は憂太の食事と睡眠には気をつかってくれているのだ。
「食べないなら食べさせてあげようか?」
「じ、自分で食べます」
大きく口を開けてトーストにかぶりつくと、悟は大きな耳を震わせて笑った。
黒いスーツに黒のネクタイ。それに合わせてくれたのか、悟も黒いボトムとハイネックを着てくれた。目元にはいつもの黒いアイマスク。顔の半分は隠れているのに、それでも雰囲気から感じ取れるかっこよさやスタイルの良さが狡いな、と思う。
途中に寄った花屋で買った水色とピンクの小さな花束を持って、憂太は目的の場所を訪れた。訪れた場所は霊園。四十九日を迎えた今日は、里香の樹木葬の日でもあった。
樹木葬を選んだのは里香の希望だ。
――お墓なんて、いらない。それより、桜の木になりたい。春には花びらになって、何度でも憂太に会いに行くよ
それは、テレビ番組で樹木葬や海洋散骨を希望する人が増えている、というニュースを見た時に、里香が何気なく言った言葉だ。憂太も里香も施設育ちだったので、そもそも墓なんてものに縁も興味もなかった。だから、墓に入るより木や海の一部になりたいね、なんてそんなことを笑って話したのだ。憂太や里香にとって、一生側に居るからこそできる、ずっとずっと未来の話。そう思っていたのに――。
そんな日が、こんなに早く来るなんて、夢にも思っていなかった。
それでも、里香との会話を覚えていたからこそ、憂太は樹木葬を選んだのだ。
事前に郵送していたお骨は、土に埋めるためにさらに細かく粉骨され、小さな木綿袋に包まれていた。片手に納まるサイズになってしまった里香を受け取り、最期のお別れだと、深く掘られた穴の前に立つ。
穴の中には色とりどりの花が敷き詰められており、悲しいお別れを彩っていた。色、というのは大事なのだと、最近思うようになった。世界が色を失くす、なんて表現があるが、本当に絶望したとき、色を感じる余裕もないのだと知った。それでも、冷たく二度と目を開かない愛しい人の身体が、色鮮やかな花々に包まれている姿に救いを感じるのは、少しでも故人が寂しくないと感じられるからなのかもしれない。
残された自分はもちろん悲しい。でも、空に逝ってしまった彼女が一人だと思うと、もっと悲しい。
木綿袋に入ったお骨と、鮮やかな花々。それを目の前にしても最後の一歩を踏み出せずにいると、一緒に持っていた花束を抜き取られた。
「……悟?」
「憂太が選んだ花と一緒がいいだろう」
そう言うと、ずっと隣に居てくれた悟が花束の周りに巻かれていたセロファンをとって、ピンクと水色の花を穴の中に並べてくれた。その中心に置けるように、悟がそっと花の膨らみを手で押さえる。
つん、と鼻の奥が痛んだ。滲みそうになる涙をぐっと堪えて、憂太は手の中の袋をそっと撫でる。
「……ありがとう。またね、里香ちゃん」
そう呟いてから、憂太は花の中心に木綿袋を置いた。
自分が終わると、すぐ次の人の順番になる。「おいで」と悟に手を引かれ、列からそっと離れた。
見上げれば、まだ蕾もついていない桜の木が大きく枝を広げていた。そんな木を見つめながら、憂太は左手の指輪を撫でる。
「桜が咲く頃に、会いに来るよ」
花びらになって会いに来てくれるのを待つのではなく、自分から会いに来る。そんな想いを込めて桜の木を見つめていると、ふと悟から肩を抱かれた。
「……悟?」
「前から思ってたけど、憂太が僕から触れられるのを拒むのは、里香のことがあるから?」
ぴくり、と肩が跳ねた。そんな僅かな動揺を見逃すような人ではない。
「……ごめん」
「ま、やっと四十九日でしょ。しょうがないとは思うけどね」
分かっていてくれたからこそ、これまでいろいろと譲歩をしてくれていたのだろう。でもそれは、愛情を求める獣人にとってはかなり無理をしている譲歩だということは、なんとなく分かっていた。
「悟のこと、大切に思っているよ。本当に」
悟に出会えなければ、こんな風に穏やかな気持ちで里香とのお別れを迎えることはできなかっただろう。こんな風に、誰かが隣にいる状態で今日を迎えるなんて、想像もしていなかった。
だからこそ、パートナー契約を結んでいながら、悟の望みに応えられないことを申し訳なくも思っている。
「ただ、あの、僕、キスとか、それ以外のことも、全部里香ちゃんとしか経験が無くて。……それに、里香ちゃんが居なくなったばかりだから。そんなの、里香ちゃんを忘れるみたいで……」
でもそれは全て言い訳だと分かっている。パートナー失格だよね、と俯くと肩を抱く手にさらに力を込められた。
「忘れるなんてあり得ないでしょ」
「……え?」
「だって、僕は里香を好きな憂太とパートナー契約を結んだんだからね」
はじめから里香も込みで憂太とパートナーになったのだと、悟は笑う。
「里香のこと、忘れるなんてできないでしょ? 別に僕も忘れてほしいなんて思ってないよ。ただ憂太の愛情を、僕と里香の二人分にしてくれればいいだけ」
強く、風が吹いた。
そんな風から守るように、悟のしっぽが脚に絡む。これから先、一生一人で生きるのだと思っていた。里香以外の誰かがいる生き方なんて知らなかった。
彼女が搬送された病院で、最期に交わした言葉が頭の中に蘇る。
――幸せに、なってね。あんまり早く、こっちにきちゃ、ダメだよ?
そうやって、最期に里香は、笑ってくれたんだ。
そんな彼女が、ずっと一人で生きていくことなんて、きっと望まない。望むはず、ないんだ。
都合のいい考えかも知れない。でも、悟との出会いは、自分が一人にならないようにと里香が導いてくれたのだと、そんな風に思っても許されるだろうか。
まだ蕾もない桜の木を見つめながら、いくつも頬に雫が伝う。それを拭うこともせずに、憂太はゆっくりと口を開いた。
「一緒に帰ろう、悟。早く、君にキスがしたい」
早く君に、愛を返したい。
そう伝えると、大きな腕に抱き上げられた。