秘密私には、誰にも知られるわけにはいかない秘密がある。
私が皇極観で修行が出来たのは、太子殿下の配慮があったためだ。
そうでもなければ罪人の子供が弟子になどなれるわけもなく、その点に関して私は殿下に感謝している。
側付として副将として、殿下のため国のためにあることは決して苦ではなかった。
だが私の中にはいつでも後ろめたさがあり、それは殿下からあいつを紹介された時、特に強く自身をなじった。
ある日、殿下のために良い茶葉を手配し町の店までそれを受け取りに行った帰り、宮殿の門の前で私を呼び止める男がいた。
男は良い身なりをしているが顔は厭らしく歪んでいた。
「慕情、ああ慕情ではないか!」
「…っ」
やけに馴れ馴れしいその男を、私はよく覚えていた。
もう二度と会いたくないと思っていた、それは私の"秘密"だった。
早くこの場を去らなければと、男を無視して行こうとしたが男は私の衣を鷲掴みにして捕まえ引き寄せる。
「やめろ、離せ!」
「相変わらず美しい…何故お前が宮殿に?」
「お前に関係ないだろう!」
衛兵や殿下に見つかったらお仕舞いだ。
こんな男をなぎ払うことなど容易いが、だが殿下に仕える身として国民を傷付けるわけにもいかない。
何とか振り払おうとする私に、けれど男はその醜い顔を近づけ、ぽつりと呟いた。
「お前のような罪人の子がこんな所でやっていけるものか…私の所に戻っておいで」
「…っ!」
ああ嫌だ、何故私はあの時あんな血迷ったことをしてしまったのか。
たった一度の過ちでも、こうして自身を追い込むことになると分かっていたのに。
今更後悔しても遅い、それでもあの時、自身と母を守るにはああするしかなかったのだ。
「何をしている」
「…っ」
不意に硬質な声が聞こえた。
振り返るとそこには殿下の護衛であるあいつ、風信が不機嫌な表情でこちらを見ていた。
風信に一睨みされた男は慌てて去って行き、私もその場を離れた。
風信は特に何か言うことはなかったが、あれ以来何かにつけて説教がましくぐだぐだと言われるようになり、私たちの関係は酷く悪くなったのだった。
それが飛昇前のことだ。
私は今こうして西南を守る武神という立場にあり、もはや人であった時の過ちなど気にする必要はない。
それでも、あいつが東南を守護する武神として飛昇したばかりに、ああそうだ、すべてはあいつの所為なのだ。
加えて言えば殿下が三度目の飛昇で私の前に現れなければ、私がまた過去の過ちに囚われることなどなかった。
幸いにも風信、南陽将軍は普段下界にいるので直接顔を合わせることはほとんどない。
なのに、だ!
「…何故?」
「何だ?」
今、私の寝室で呑気に茶を飲んでいる男は、私の呟きに首を傾げている。
誰もが寝静まった深夜だ。
そんな時間に犬猿の仲であるはずの私の部屋を訪ねてきたその男は東南の武神、南陽将軍、こと風信だ。
お前は下界にいるんじゃなかったのか!?
「何故お前が玄真殿に来ているのかと聞いているんだ!」
「おい、深夜だぞ、大きな声を出すな」
「~っ!」
だったら!今すぐここを出ていけ!と言おうとした私を風信は片手を挙げて制した。
「お前に聞きたいことがあるだけだ」
「だったら茶など飲まずにさっさと聞け!」
寝台にどすんと腰かけて言えば、風信はどこか気遣わしげに呟いた。
「…昔、まだ仙楽国で過ごしていた頃のことを覚えているか?」
「…それが何だ」
嫌な予感がした。
大方殿下の三度目の飛昇で色々と過去のことを思い出し、ついでにあの時のことも思い出したのだろう。
そういえばあれは何だったのかと、武神なら武神らしく過去のことに囚われずさっさと忘れてしまえば良いものを。
「お前に絡んでいた民がいただろう?」
「…」
私には、誰にも知られるわけにはいかない秘密がある。
もしもこいつに知られたら、私はこいつを殺して自身も命を絶ってやる。
だが、それでは心中のようで体が悪い、それならどうするか。
ああ、こいつにだけは知られたくない。
「…そんな男のことなど知らない」
「私は男ではなく民と言った、覚えているじゃないか」
「…っ、それが何なんだ!」
何故そうも気にする、お前は私を嫌っているだろう。
ああ、嫌っているから弱味を握りたいのか、それならお望み通り教えてやる。
「おい…」
「あいつは、あの男は私の客だった!」
お前のような恵まれた者には分からないだろう、貧民に生まれ罪人の子になった人間の末路など。
それでも私はマシな方だった、太子殿下に仕えることが出来たのだから。
「生きるために一度だけ体を売った、あの男はその時の相手だ…」
体に、湿った太い指が這いずり回った。
興奮して荒い呼吸は動物のようで恐ろしかった。
痛みばかりが繰り返され、血と精液と汗の臭いに何度も吐きそうになった。
「殿下も知らない…知っていたら側付になどしなかっただろうな」
俯くと長い髪が肩から落ちた。
寝室は静寂に包まれ、風信は驚愕しているようだった。
知りたがったのはお前だ、勝手に蔑むなり笑うなりすればいい。
そう思っていると、風信は不意に立ち上がり寝台に近付いてきた。
座ったまま俯いていると、目の前で膝が折られ右手にそっと風信の手が重ねられた。
「なんっ…」
「すまない、知っていた」
「…は?」
顔を上げると、私の前で跪いた風信と目が合う。
奴の目は蔑みも嘲笑うこともしていない、ただ真っ直ぐ私を見つめていた。
「あの後、あの男を付けて問いただした…答えを聞いて私はあの男を…」
「…っ、まさか、手打にしたんじゃないだろうな」
「いや…二度とお前に近付かぬよう少し凝らしめただけだ」
少し、がどの程度なのか、想像するのも恐ろしいが、まさか殺してはいないだろう。
だが、こいつがそこまでする必要はあったのか?
私を毛嫌いしているくせに。
「何故、そんなことを…」
「…お前を瀆す者は許せない」
「…っ」
一瞬それだけで誰かを殺せそうな殺意がその目に灯る。
だがすぐにいつもの仏頂面に戻り、立ち上がった風信は私の隣に腰を下ろした。
「殿下がまた飛昇して、あの時のことを思い出した、お前はもう忘れてしまっていたかもしれないが、私はどうしても忘れられなかった」
そこで言葉を切った風信は、また私を真っ直ぐ見つめ。
「お前を、一目見て美しいと思ったからな」
「お…おま、おまえ!」
知らない、見たこともない笑みを浮かべる。
嫌っていたのだろう、昔から顔を会わせれば言い争いになっていた。
お前は、私のことなど眼中にないのだろうと、見下しているのだろうと。
「年季が入った想いだからな、覚悟しておけ」
「はぁ!?何を言っている!」
すっきりしたような表情で、言われた言葉には艶めいた色。
そんなわけがない、この唐変木が私を想っているなんて!
そう思うのに、伸ばされた手を叩き落とすことが出来ないことを、私は分かっているのだ。
終わり。