肉の器 レムナンの会話の切り出し方が下手くそなのはいつものことだが、今夜の話題は殊更突飛というほかなかった。
「肉体があることを煩わしく感じたことってありますか?」
素肌にタオルケットを巻きつけ、うとうとと微睡みかけていたラキオは、大きな瞳を覆い隠すように長く生え揃った睫毛をぱち、ぱちとゆっくり上下させた。重い目蓋を気怠げに持ち上げてラキオは隣に目を向けたが、その視線は彼のそれと交錯することはなかった。レムナンの視線は何もない天井へと注がれていた。
人の眠気を奪っておきながら自分の方を見向きもしないことにラキオは思わずムッとする。と同時に裸の足が行儀悪く相手のふくらはぎの辺りをごく軽い力で蹴った。「痛いなぁ」と全く痛くなさそうな声が小さく笑う。それでようやく紫の瞳が自身の姿を映したのを確認して、ラキオは悪びれるでもなくフンと小さく鼻を鳴らした。
布ごとラキオが足を振り上げたおかげで、ふたりの身体を覆っていた大きめのタオルケットの端は捲れあがり、そこから四本の足が大きくはみ出している。グリーゼの空調設備は優秀だ。室温はいつだって適温に保たれている。だから、本当はこんな薄布一枚あってもなくてもラキオの気にするところではないのだが、気にしいのレムナンはそういうわけにもいかない。案の定、彼はのそりと身体を起こすと律儀に乱れたタオルケットを元へと戻した。
一度身体を起こしたついでとばかりに体勢を変えて、彼はラキオの隣で再び横になる。仰向けにしていた身体を左向きにころりと転がしたので、今度こそふたりの視線はカチリと合った。
「君は将来、電脳化でも検討してるのかい?」
「違いますよ……大体、個人的にしたいと思ってできるものでもないでしょう、アレは」
「たしかに一般人にとってはなかなか手の届かない代物だろうね。僕は条件を満たしているけど」
ラキオの言葉を聞いたレムナンは驚いた様子で目を見開いて、それから恐る恐るといったふうに尋ねた。
「……しませんよね?」
「僕ほど優秀な頭脳は永久保管した方が後世の為だとは思うよ」
「ラキオさ……」
「しないよ。誰に何の目的で悪用されるとも分からないリスクが伴う技術に多額の資金をつぎ込むくらいなら、自分の時間も財産ももっと他のことに使いたい」
ラキオの至極冷静な判断を聞いてレムナンはほっと胸を撫で下ろした。知性第一主義なように見えて——いや凡そはその認識で間違いないのだろうが——これで案外、好奇心や遊び心も持ち合わせているものだから、またこの人はとんでもない気まぐれを起こすのではないかと、レムナンは今でもラキオとのやりとりの中で時折気を揉んでいる。
「なっさけない顔。眉が滑り台になってるよ」
目の前の人から眉と眉の間をぐいぐいと人差し指で突かれて、レムナンはますます眉の角度を下げた。
「何するんですか……」
「君が僕の睡眠を邪魔してまで要領を得ないこと言うからだろ。肉体があることを煩わしく感じたことはあるか、だっけ? ないわけじゃないけど、だからといってなくなってほしいとまで思ったことはないな」
レムナンが最初に投げた質問にあっさりと答えると、ラキオは彼の顔に触れさせていた手をスッと引っ込めて、その手で頬杖をついた。枕に預けていた頬が、つるりとした右手の甲の上へと移動する。眠る体勢から話を聞く姿勢へと移ったラキオの様子を見て、レムナンはモゾモゾとシーツの上で自身も気持ち姿勢を正した。
「君は? 君自身なにかしら思うところがあったからこの話題を僕に振ったんだろ」
相変わらず、ラキオは会話をする時相手の目をまっすぐ見る。後ろ暗いことがないゆえの強い眼差し。出会ってすぐの頃はその凜とした視線を正面から受け止めることが少し怖かった。だが、この国で苦楽を共にしているうちに、いつの間にかその瞳が持つ澄んだ青はレムナンにとって、自分の心を最も落ち着かせてくれる色となっていた。
「……昔は、何度も、肉体なんてなければいいのに……って思いましたよ。身体がなければ、きっと痛みも苦しみも感じなくて済むのになって。現実逃避によく自分の身体が溶けてなくなる想像を、したりなんかして」
「ふぅん……」
「でも、今は自分の身体があってよかったなって思います」
「どうして?」
「足があるからラキオさんといろんなところに行けるし、手があるから貴方に触れられるし……口があるとおいしいごはんが食べられます」
そこまで聞いてラキオは呆れたように笑った。
「結局君は食い気が一番じゃないか。イートフェチの権化め」
「べつにそれが一番だなんて言ってないでしょう。僕だって口は食事よりもラキオさんと話すために使ってることのほうが多いですよ」
「それも疑わしいものだけどねぇ。君、最近間食の回数が増えてない? 上に乗られると前より重たく感じるンだけど」
「……まぁ、それは気をつけます、けど」
指摘内容が図星だったのか気まずげに視線を逸らしたレムナンの分かりやすさにラキオは再び目を細めた。
「君が縦に伸びようが横に広がろうが知ったことじゃないけど、精々僕が潰れない程度にとどめておいてよね」
戯れのように頬杖をついているのと反対の指先がレムナンの頬をつまむ。そのままむにむにと頬肉を伸ばされて、レムナンは食生活を見直そうと心の内で決意した。
「僕も、自分の身体を使って君と遊ぶのはなかなか悪くないと思ってるよ」
「え?」
「はじめは気の遠くなるほどの時間と手間をかけてまで、僕の身体を拓こうとする君の気持ちがまるで理解できなかったけどねぇ」
「う……」
誇張なしに最後のステップに至るまでものすごく時間がかかった初めての夜のことを話題に出されて、レムナンはたじろいだ。
「自分から手放すのは別として、僕は一度得たものを誰かから取り上げられるのは嫌いなンだよ」
「え?」
「よかったね、レムナン。これから先もその口に食事と会話以外の使い道があって」
にんまりと口元に弧を描きながら、先程まで頬を摘んでいた指先がレムナンの唇にトントンと触れた。
「……お互いさまということでいいですよね」
「ん?」
「肉体の存在意義の一部に相手への接触が含まれている、ってことです」
「言葉にすると仰々しいな」
先程のお返しとでも言わんばかりに今度は紫の瞳がまっすぐラキオの姿を捉える。言外に欲求を示す視線を数秒の間受け止めて、ラキオは観念したように黙って目蓋を下ろした。それを肯定と受け取った彼の顔がゆっくりと距離を詰めていく。相手の吐息を口の表面に感じるほど近づいたところで、ラキオはさっきの続きをぽつりと述べた。
「まぁ、いいンじゃないの。こんなちっぽけなことが生きる理由の一つになるなら」
穏やかな夜の元でふたつの肉の器がやわらかく重なった。