(治角名)だから言っただろう? 眼のふちを真っ赤にして人の膝を枕にしてすよすよと寝息を立てる男――それも自分より背が高いし筋肉もしっかりついたプロバレーボーラー、見まごう事なき男である――に古森は大きなため息をついた。
「俺にすればいいじゃんって言いましたよ。でもさそれって」
なんというか「そういうカードもあるんだって使ってもいいよ」っていう意味であって、決してほんとうにこの男とどうこうなりたいわけではなかった。はずだ。
うん。たぶん。
「お前また手を出したのかよ」と従兄弟が顔をしかめそうだけど、いつも言うけど「また」ってなんだよ。
今までチームメイトはもちろん、ファンにも手を出したことないんだけど。
「お前は人たらしなんだよ」と鷲尾には言われたことがある。あれも酒の席だった。
どうやら鷲尾の近くにもそういう人間がいるらしく、器用でひとあたりがよくて、誰とでも懇意になれるうえに、相手をちゃんと見てるから相手の一番欲しい言葉を口にして相手をその気にさせてしまう
けれど本人は別に相手のことをそういう意味で好きなわけでも、どうこうなりたいわけでもなくて、ただその人が欲しいだろう言葉がわかるから口にしただけで、むしろどうでもいいのだから性質が悪いのだと、あの言葉少なな男がワンブレスで口にしたところを見ると、まあその相手に思うところはあるのだろう。
どうやら俺もそういう人間なのだと言いたいらしい。
まあ言いたいことはわからないでもない。
自分がどこかそういうところが希薄な人間であることは自覚しているからこそ、無意識のうちに「人の欲するもの」を察して手渡すようになっているのかなとは思う。
そういうところが従兄弟にも鷲尾にも「たちが悪い」と言われる所以なのかもしれないとは思わないでもない。
従兄弟の佐久早聖臣に「おまえ何やってるんだ」と最初に言われたのは高校に入ったころだったか。
「なにが?」
「お前の女から距離をおけと言われた」
「お前に?すごいなその子」
「お前の彼女だろう?」
「誰が?」
名前を言われてもとっさに思い出せず首を傾げる俺に「はあ?」とあきれた顔をすると、面倒くさそうに同じクラスのテニス部でといくつかの情報を与えてくれた。
あの子か。そんな名前だったんだと笑うと聖臣は盛大にため息をついて「俺を巻き込むな」と吐き捨てた。
巻き込むつもりはないんだけど、どうやらそのあともそういうことは続き、お前またか!と何度も怒られたけど、いつもその相手の名前すらぼんやりとしか覚えてない俺に「最低だな」と言いながらもため息ひとつつく聖臣がこのまえ「いい加減にしないと厄介なことになるぞ」と言っていたのはこういうことなのかな。
猫みたいに膝に頭をのせてくるんと丸まった男、角名倫太郎を見ながらそう思った。
角名は生きることすら面倒くさいみたいな顔をしながらも、ことバレーに関しては真摯で思いのほか好戦的、それでいてコートの中を冷静に見る視野の広さももっているためリベロとしては信頼できるブロッカーのひとりだ。関西にいただけあってノリもいいし、付き合いもそう悪いわけではなくチームメイトとしても信頼している。
が、ことそれ以外のこと、とりわけ恋愛に関してこの男は驚くほどポンコツだった。
しっとりとした髪はプロ入りとともに短くして爽やかさも加えたもののどこか艶めいて見えるし、すっと細い瞳は光によって金色にもピスタチオみたいな緑にも見える不思議な色で、目力があるわけではないのに、じっと見られると落ち着かなくなる。
ぱっとみたところ地味に見えるのにパーツパーツの美しさによるものか、色気というか、艶みたいなものが人を誘う。
どうやらその色気が女はもちろん男も誘うらしく、飲みに行って目を離すと知らない男に肩を抱かれんばかりに口説かれていることもままある。
まあはっきり言ってもてる。
けれどこの男は高校時代からつきあっている男、そう高校時代の同級生でチームメイトである宮治しか見ていない。
好きでしかたないし、相手だってぽつりぽつりと聞かされる限りでは怖いくらいの執着で角名を大事にしているのに「あいつは俺のことなんて好きじゃない」「もうだめだ」「俺とじゃ幸せになれない」なんてことを思い詰めては別れを切り出すらしい。
チームに入ってすぐのころがまたその時期だったらしく、まあ遠距離になって不安が募るタイミングだから仕方ない気もしないでもないが、年齢が近い鷲尾と三人で部屋飲みしたときに「恋人とかいるの」ってそこに爆弾が埋まっているなんて想像もせずにつついたところ一気に噴き出したってわけ。
「めんどくせえ」って顔をした俺と、「わからないでもない」って顔をした鷲尾で慰めたり励ましたりしたその数日後、もう二度と会えないんだって言っていたはずの宮治が角名の部屋から出てきて言葉を失った。
おにぎり専門店をあの年で経営している宮は試合会場にも出張販売をしていて、その夜試合会場でも顔を合わせることになった。
「どうなってるの」と聞く俺に「あーもうしゃべったんかいな。別れたあって言いよっても気にせんといて。別れることないから」とさらりと答える。
「なに?そういうプレイ?」
「俺は望んでないけどな。まあ落ち着いたらまた戻るし」
こいつすごいなって思ったのと、角名まじで面倒くさいやつだなっていうこと、あとレンアイってなんかすごいなってその時は思った。
「あとそんなに飲ませんとってな。強そうに見えてすぐ酔いよるから」
こんなに大事に思われていてまだ不安ってどうなんだ?
そんなになるほど人を好きになるってどんなんだろうねって聖臣に言ったら「お前にも人の心が芽生えたか」って失礼な言葉が返ってきた。
そんなわけで角名はその後も宮と別れては復縁し、酔って泣いていたかと思うと耳の後ろや首にべとりと痕や歯型をつけて練習にあらわれるを繰り返していた。
そんな不安定な精神状態でもコートに入るとそれをみじんも見せないあたりがプロで、そういう男だからこそ何度も同じ話を聞きながらもまた一緒に飲んでしまうわけでなんだけど。
それを繰り返すうちに、面倒くさいながちょっとだけ可愛いなと思えてきたのは愛というよりはなんというかペットに関する情みたいなものだと思う。
拗ねる横顔を見ながら綺麗な男だなとも思うし、つんと突き出された唇に触れたらやわらかいのかなとぼんやりと思っていたからか「もう俺にすれば?」って言ったのはなんというか角名がその言葉を「欲しい」ように見えたから。
あと「そういうカードもあるんだよ」って教えてやりたかった。
なんでもわかってますって顔したあの宮治にも、そんな可能性もあるんだって知らしめたかったのかもしれない。
「え?」
一瞬真顔になったあとふにゃんと笑うと「そうだなあそれもいいか。つきあっちゃう?」って言う顔が妙に切なげで、色っぽくて思わず頬に手を伸ばしていた。
「お前とちゅーできるかなあ」って小首を傾げる顔、酒に濡れた赤い唇が誘うようにわずかに開く。
頭のなかでは何やってんだよって言葉が回るけれど、磁力のようなものに引き寄せられるように顔が近づいていく。
酒の匂いがまじる息が頬にかかり、熱を持つ首から耳へと指を滑らせる。
「角名」
呼びなれた名前がまるで別の言葉のように思えた。
そう開いた唇に触れたのは角名の濡れたそれではなく黒い髪。
強いはずの体幹はどこへやら、緩んだ角名の身体がずるずると床へと倒れていく。
支えることも忘れてぼんやりと見ていた俺の隣に崩れた身体が「むう」と不満そうな声とともにわずかに動くと、持ち上げられた頭がぽすんと膝へとのせられた。
「やば」
もうちょっとでキスするとこだった。
すうすうと寝息を立てる男の唇は変わらず半開きで、けれどさきほどまでの磁力はもう失われていた。
いやほんと「俺にすれば」って言ったのは俺だけど。
それはさあなんというか、本気でお前とどうこうなるつもりはなかったわけで。
たぶん。
「やばかった」
「せやな」
居酒屋の喧騒にまぎれることなく耳元で響く柔らかい関西弁に、まじでチビりそうになった。
「古森クンにはいつもえらい世話かけとるみたいで」
もうまじで怖い。
銃口つきつけられてるってこんな感じ?
宮治にしらしめたい?誰そんなこと思ったの。
こいつはちゃんとわかってる。
「や、まったく、世話なんて、して、ないよ」
「さよか」
全然納得していないよね。
「すーな」
ふにゃって声を漏らした角名が「おさむ?」と手を伸ばす。
「帰るで」
「うん」
ふわんと笑った顔はさっきまでと全然違ってなんというか、もう誰も横から手を出すことはもちろん、俺にしろだなんてほんと何を言ってんだかって話だよ。
「あ、支払いはしとくんから」
それで見逃してくれとばかりに言うと「一回だけやで」とくぎを刺された。
はい、俺もまだバレーやめたくないし。
聖臣の「だから言っただろう」って言う苦々しい声が聞こえた気がした。