傷落ちの雄花~①~◇◇◇二人が出会ったのは…奇跡か、はたまた運命か◇◇◇
「筆が、なかなか進まなくてな…。」
「先生、お言葉ですが、あの…本当に《筆を進める》という意志はお有りなんですよね?」
「う~ん、君が女性であればな…」
「はい?」
おそらく大学生であろう、『先生』と呼ばれている人物より二、三年下と見えるこの生真面目さが顔に出ている男は、前に編集を担当していた井田の息子である。何やら唐突に「日本以外の広い世界を知りたい!」と言い出し「次から仕事は俺の子に頼むことにする、よろしくな、先生!」と言われたのはつい先日。当の青木は井田の事を相変わらず自由奔放だなとも思ったが、新たな出会いを楽しみにもしていた。なのに…てっきり年頃のおなごが来ると思いきや、玄関前には学生服に身を纏った、背の高い男…。
最初は当然に井田の子供だとは思わず、訪問を突っ返した。
「弟子の志望か?諦めろ。俺は指導なんぞに向いてはいない。」
「いえ、違います。」
「ん?じゃあ俺の作品が好きで好きで、はるばる会いにまで来てくれたのか?」
「それも違います。」
「ははっ、そこまではっきりと言われるのはけっこう堪えるな。それではお前は何故此処にいる?」
「今日からは父の代わりに、俺が先生の編集のお仕事を承ります」
「…ああ!井田が言っていた子どもとは君のことだったのか、…ふぅ、せめて先に男か女かは聞いておくべきだったな」
あからさまに残念な顔をして、青木は頭をボリボリ掻いた。
そして、冒頭の台詞である。
「まぁいい、お前、名はなんと言う?」
「井田…井田浩介と申します。青木先生、以後お見知り置きを」
「浩介、わざわざ来てもらってすまないが、筆の進みが最近良くなくてな…今日のところは引き取ってくれないか?」
「あの、失礼ですが、〆切から既に日が経っていることの自覚はありますよね、先生?」
「あー…、代わりに来る編集の者が女性だったら、執筆に新たな力が入るような気がしたんだけどなぁ…」
「本日が《待ち》の限界です。上の方々も相当苛ついてます。いい加減、新章の序盤辺りまでは完成させていただけないと、読者も離れていってしまいますよ。…とても良い作品なのに…」
「っ!!そうか?お前は俺の作品、良いと思ってくれているのか?」
浩介はいきなり抱き付かれた。青木も体付きは華奢だが背丈はある方で、唐突な重量に多少よろけた。
「ちょ!ちょっと!!先生!?」
「ああ、悪い。作品が誉められるのは自身が誉められるより嬉しさが込み上げてしてしまって…よし、書く!書けるぞ!!お前はそこで茶でも飲んで静かに待ってろ」
読めない先生だ。さっきまで机に向かおうとする素振りしなかったのに、今では一心不乱に筆を進めている。この、先ほどとは打って変わって仕事に熱心に向かう姿が、浩介にはとても魅力的に映った。
「ほら、出来たぞ!早速読んでくれ!!」
「え?もうですか?」
「本気を出した俺を見くびるでない」
ははっと笑って、バサリとけっこうな厚みを渡してきた。
「あれ?予定より枚数ありませんか?」
「〆切過ぎた分のお詫びだよ」
短時間でここまで…やっぱり青木先生は才能の塊だ。
浩介が父から継いだ編集の仕事は素人でも多少の学があれば難も無い、誤字脱字の目通しと文の前後に矛盾は無いかを、上に持っていく前に粗方確認する作業であった。…読み返したがひとつも無い。文章構成も完璧…だと思う。結局正式に載せる文に仕上げるのは本誌の長だが、ほぼ直す箇所など無いと思えた。
翌日載った文集誌には、先日浩介が読んだ文と一字一句違わないものが載っていた。「…すごい!」浩介は、ますます青木先生に興味を惹かれた。
先生の家に何度か通うようになるうちに、自然と世間話もするようになった。
「お前、学生なんだろ?こんな編集のお遣いなんかしていて、勉強はきちんと出来ているのか?」
「はい、その辺は心配無いです。待っている間に本を読み込むことも出来ますし」
「要領がいいって奴だな。羨ましいよ」
「でも、先生の才を一気に発揮する力も、俺は凄いと思いますよ」
打算なんて一切無く真っ直ぐな目で、嘘偽り無くハキハキと物事を言ってくれる人物は、青木にとって初めてだった。素直に凄く嬉しかった。
年が近いこともあり、色事の話しも時にはした。
「ほう、まだ浩介にはおなごとの経験は無いのか?」
「からかわないで下さい。男女交流なんて勉強の妨げだと思っています。逢瀬に使う時間があるならその分、参考書を開いていたい。だいたい、人を好きになるという感情すら、俺にはまだ経験がありませんし…」
「と言うことは、今までに恋い焦がれた人物も居ないのか?」
「この話はもういいでしょう先生、口よりも手を動かしてください」
「ははっ、急かし方は父親そっくりだな」
軽快な口調とは裏腹に、また筆が遅くなっているのを、青木も浩介も感じ取っていた。
翌週胸騒ぎがした浩介は、予定より早めに青木家へ向かった。到着し、扉を叩く。いつもであれば、のそのそと五分ほどかけ、眠そうな目で青木が迎える。それが恒例なのに、今日は十分経とうが一向に来る気配が無い。眠っていて気付いていないのかと、今度は先ほどより少々強めに扉を叩き、先生の名前を呼ぶ。
「青木先生ー!いらっしゃいますか?」
試しに戸口に手を掛けると、抵抗無く開いた。不用心だなと思いつつも、「上がりますよ」と一声掛け、いつもの執筆部屋に向かう。
もう日も落ちている時間なのに、明かりも付いていない。暗闇の中、電灯の紐を探すうちに、足裏にヒヤリとした感覚が当たった。
水…酒?いや、なにか独特な匂いが部屋を漂っている。墨を溢したまま、寝てしまったのだろうか?書き上がった原稿が潰れてなければ良いが…。ようやっと紐が手に当たり、引いた。
下に目線を戻した浩介は驚愕した。
「これ…墨じゃない。先生!先生?!」
畳を汚していたのは見慣れた真っ黒な墨汁ではなく、真っ赤な鮮血だった…。
三十分程経ったであろうか、
「う…うう…」
「先生、気付きましたか?」
浩介は先生を寝かせていた布団に駆け寄った。
「傷は浅かったので、俺が応急手当しておきました」
「お前が…?」
「一応これでも、医学を学んでますので」
「そうか、、俺はまた…死ねなかったんだな」
「失礼かとも思ったのですが、他にも傷が無いか調べさせてもらいました。腕の傷…一、二本という数ではありませんね。それに横っ腹にも…切腹を試みたこともあるんですか?」
「また未遂の回数が増えてしまっただけか。情けないところを見せたな。すまない」
「どうしてこんな事を…先生、自分で自分を傷付けるなんて、絶対に駄目なことです」
「医学学生ならなおさら、自傷や自殺騒ぎで医療に迷惑をかけるなって事だろ?でも血でも流さなきゃやってられないって事もあるんだよ」
「先生…!」
「うわっ!ど、どうした浩介?」
「身近な人が傷付くのは、どんな理由があったって嫌です。」
思い切り抱き付いてきた勢いとは裏腹に、小刻みに震えている浩介の身体…
「もしかして、泣いているのか?」
「あのな浩介、もし医者になったらとんでもない人数を相手に治療するんだ…。一人ひとりにこんなに感情的になっていたら浩介の身が…」
「…違います。先生だから…」
「え?それってどういう…」
浩介は何かに気付いたようにバッと体を離し、粗く目元を拭ったかと思うと
「今日はこれで失礼します!!」
と足早に去っていった。
浩介の態度を疑問に思いつつも、青木は寝床にまた身を横たえた。ふと手に固い感触が当たる。探って取ってみると、白く四角い紙を拾った。きっと、浩介が介抱したときに袂から落としたのだろう。原稿用紙より厚めだろうか…裏返して見た青木は驚いた。
「これ、って…俺?」
丁寧に描かれた自分が居たのである。
「誠か…浩介」