Shall we dance?~いつでもいつまでも~とある栄えた街の、とある家に、その少年は住んでいました。
幼い時に両親は亡くなってしまい、もう物心付いた時から、母の妹である叔母の家にお世話になっていました。
気軽に話しかけることなど許されず、呼び方も「お母様」ではないとゲンコツで脳天を殴られてしまいます。更に「お母様」の実の子である姉妹たちからも「お姉様」と呼ばないと酷い仕打ちをされる日々を送っていました。
もう少年にとってはこれが当たり前の日常、実の両親ではないのに引き取ってくれたのだからこういう生活が当たり前なのだと思っていました。
一緒に食卓を囲むことさえ許されず、部屋の隅に置かれた小さなサイドテーブルで一人で黙々と食べます。食事は雇いのシェフが居るので内容には問題ありません。でも、料理後の片付けは全部この少年の仕事、意地の悪い雇い主には意地の悪い下が就くものです。
名前も読んでもらえず、呼びつけの際には『おい、灰かぶり』と呼ばれていました。煙突の煤の掃除は欠かせないので、服も靴もすぐに汚れてしまいます。服や靴は姉たちからのお下がりをもらえますが、汚れる度に貰えるという訳ではありません。当然お姉様たちから貰えた時には真っ白だった服や靴は、すぐに煤で真っ黒けになってしまっていました。お姉様たちが少しでも汚した時にはすぐに街一番のクリーニング店に持っていくお母様ですが、少年の私物と化した途端、出費を渋って真っ黒になるまで放っておくようになるのです。
唯一不潔にはならぬよう、一番最後の夜遅くにですが、お風呂は許されていました。自室も与えられず、屋根裏という狭苦しい所に押し込められてはいるものの、貰われっ子の自分がご飯を食べさせてもらい、風呂にも入れて雨風を凌げるだけで十分だと少年は思っていました。
ある日、少年は街の中心にある市場まで、荷物持ちとして同行させられました。人の多い場所、お姉様とすれ違い様にお婆さんがぶつかり、お婆さんはよろけて荷物を落としてしまいました。何事も無かったようにスタスタと歩いていくお母様とお姉様たち…少年は放ってはおけずにお婆さんを手伝いました。
「大丈夫ですか?」
「あらあらご親切に。ありがとうねぇ」
「いえいえ」
お婆さんを助けた後に前方を見ると、もうお母様とお姉様たちとは凄く距離が離れてしまっていました。やっとのことで少年が追い付くと、お母様には振り返って凄い形相で睨まれ
「何ノロノロ歩いてるの!本当に手間が掛かる子だわ!」
と叱られてしまいました。少年は何も言い返せずに、黙って後ろをとぼとぼと歩きました。
家に着くと少年は荷物を置いて、仕事のひとつである郵便受けの確認に行きました。その日は封筒が3通入っておりました。少年は文字も教えてもらえていなかったので、一先ずお母様に全部を渡します。
手紙を渡して様子を見ていると、今回はお母様とお姉様たちにそれぞれ一通ずつのようでした。封蝋をペリリと開けると、皆が歓喜の声を上げます。
「舞踏会の招待状よ!」
「ドレスを新調しなくちゃ!」
「どんな殿方とお会い出来るのかしら?楽しみだわー!」
舞踏会…自分には一生縁の無い世界、少年はウキウキしているお母様とお姉様たちを羨ましく思いました。
舞踏会当日、一張羅を身に纏うお母様とお姉様たちを送り出し、少年はいつものように家の片付けと掃除を始めます。すると珍しく、下に馬車の止まる音が聞こえました。次いで扉がノックされ、少年は扉を開けました。目の前には、ひとりのお婆さんが立っていました。
「やっぱりあなただわ。やっと見付けた。ご家族の人は?」
「舞踏会へ出掛けました」
「あなたは舞踏会へは行かないの?」
「へっ?!」
あまりの唐突な質問に少年は驚きましたが、お婆さんがずっと立ち話も辛いだろうと、家に上がってもらいました。紅茶を淹れると丁寧にお辞儀をしてから口に運んでくれます。それだけの事でも少年は感激して瞳が潤みました。
一息つくと、大きめの手提げ袋からお婆さんは何やら取り出しました。
「これね、あなたに舞踏会へ着て行ってほしくて作ったの。この前は助けてもらって本当にありがとうね」
「ああ!あの時の!」
市場でお姉様とぶつかり荷物を落としたところを助けた、あの日のお婆さんだったのです。
お婆さんは、切ってもらえずにただただ伸びた長い髪から、すっかり少年を女の子だと思い込んでいて、手作りドレスとヒールの付いた靴を持ってきてくれたのでした。
「靴はずっと前、孫に送るつもりだったんだけど、流行り病で亡くなってしまってね…。穿かれずに永遠に倉庫に眠っているよりはこの靴も喜ぶだろうと思って…男の子と気付かなかったのは本当に失礼したわ。何と詫びれば良いか…」
「詫びなんて必要無いです!俺のためにこんなに素敵なドレスと靴…」
とても無下には出来ないし、何より舞踏会というものにも行ってみたいと思っていた少年は、勇気を振り絞って言いました。
「そのドレスと靴で、俺、行きます!!」
「でも、男の子にその靴のサイズは流石に…」
「大丈夫です、俺、こう見えて足だけはかなり小さくて」
少年の言葉の通り、足は難無く靴に入りました。
「あら本当、ピッタリだわ」
お姉様たちからのお下がりの靴を穿き続けていたために、少年の足の成長はかなり早めで終わってしまっていました。更に、ヒールで歩く事にも慣れていたので不都合もありませんでした。
「あ、でも主席するには招待状が要るんですよね…?」
「それならこれを持っていくと良いわ」
お婆さんの孫宛に招待状が届いていたのです。
まだ上の方まで報告が伝わっていなかったのでしょう。
「ポケットに入れていたから折り目が入っちゃってるけど問題無いわ。入り口で確認したらすぐに門番が捨ててしまうものね。中流階級の子の顔なんていちいち覚えている王族なんて居ないから、安心してこれを見せると良いわ」
お婆さんは続けて懐かしそうに言いました。
「人の髪を梳かすのも久しぶりね…」
ボサボサの髪は椿油で艶を入れ、不揃いな毛先はサイドを編み込み、後ろで合わせてなんとか誤魔化します。
準備が整うと、お婆さんは乗ってきた馬車に同乗させてくれました。
「もう舞踏会が始まる時間まで間もないわ。急いでもらえる?」
「かしこまりました」
返事と共に勢いよく馬が走り出します。急いでくれたためか、ものの数分で到着して屋敷の門の前で降ろしてくれました。
「上手くやるのよ。あと、あの約束は絶対に守ってね!」
「はい、必ず!!」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
招待状を見せるときにはここ一番の緊張が走りましたが、いとも簡単に通されたので、少年は逆にびっくりしてしまいました。
中に入ると部屋は大きなシャンデリアで眩しく照らされ、テーブルには出来立てで湯気が上っている美味しそうな料理が幾つも並んでいました。どれもこれも食べてみたくて目移りします。ですが、
「どうしよう、作法が分からない。」
ハンバーグだってスプーンを突き立てて左右に動かして無理やり切り分ける方法しか知らない少年にとって、ステーキを切り分けるなんて困難を極めます。
とても残念ですが少年は、唯一作法の分かるパンとスープでやり過ごす事にしました。
遠くにお母様とお姉様たちの姿がチラリと見えましたが、男性に印象付ける事に夢中でこちらには気付きもしません。
すれ違う人との挨拶をぎこちない笑顔でなんとか躱す少年…男性と思われぬように声も少し変えていますが、不自然ではないかと不安で心此処に在らずです。
すぐに手持ち無沙汰になってしまい、お腹はもうスープでほぼ満たされていたのですが、仕方なくもう一度スープを持ってきます。無理やり口に注ぎながら時を過ごすしかありませんでした。
楽しみにはしていたものの、あまりの場違いに
『もう帰りたい…。いつになったら帰って不自然ではないのか』
その思いばかりが頭を巡ります。ひとりきりでなんとかスープを口に運んでいるところ、隣に誰かが座りました。
「見ない顔ですね。初めまして。コウスケと言います」
『やばい、隣に座られるとは…!早く話を切り上げて席を立とう』
冷や汗がドッと出て、背中が冷たく感じました。
「肉料理はあまり好みではないのですか?」
『滅茶苦茶食べたいに決まっている…!』
「家族があまり好きではなくて、食卓に滅多に出てこないんです。」
少年はとても本当のことなど言えずに、作り話でなんとか取り繕います。
「なるほど、だから先ほどからパンとスープを…どうりで細いはすだ。」
骨格から男性と分かってしまうのではないかと、このコウスケと名乗る男の一言一言にヒヤヒヤするばかりです。
「でも舞踏会で出てくる肉はとびきりの一級品、食べておかないと損ですよ」
コウスケと名乗った男は器用に自分の皿から肉を切り分けて二切れを小皿に乗せると、スープ皿の端にそっと置いてくれました。
『この状態なら、食べられる!』
「で、では一口…」
少年は、フォークが刺さったのかも分からないほどに柔らかな肉の感触にまずびっくりしました。そして、口に含むと何とも言えぬ幸福感に包まれます。出来るだけ長く堪能したくてゆっくり咀嚼をすると、その度に美味しい肉汁が口の中を満たします。正に至福そのもの。
「美味しそうに食べますね」
「な、なんでお…いや、私なんかに声を掛けて」
肉の美味しさに緊張までとろけて、つい『俺』と言ってしまうところでした。
ちょっと慌てて二切れ目を口に運びます。
「なんか、放っておけなくて…」
「?」
思いもよらない言葉に思わず顔を見上げます。ちょうどその時、音楽隊の弾いている曲調が変わりました。
「一緒に踊りませんか?」
「私、このような場所も初めてで…踊りなんて全く知らないんです。見ているだけで」
「心配要りませんよ」
少々強引に手を引かれ、テーブル席から移動させられます。
『本当に分からないのにっ!!』
ダンスエリアに入るとコウスケはいきなり手首を引いていた手を腰に移し、抱き寄せるままに顔を少年の肩に置きました。
『ひえええっっ!!』
上手く声も出ずに怯えていると
「そこで右足を一歩引いて」
と耳元で囁かれます。頭が働かなくなってしまった少年は、とりあえずコウスケの言葉のままに動きました。
「次は左に2歩移動」
「右に一歩戻って、2秒待ったら右向きにターン」
『あれ?俺、上手く踊れてる?』
指示通りに動いていると、周りで踊っている人とぶつかることも、コウスケの足を蹴ってしまうこともありません。ただ問題がひとつ…
『耳元に息が当たる感触がこそばゆい…』
ちょっとだけ顔に熱が集まりました。コウスケはそれを素早く察知して
「少々疲れましたか?食事の席に戻りましょう」
と声を掛け、今度は優しく食事の席まで手を引いてくれました。
「やれば出来るじゃないですか」
不意の笑顔に少年の胸は高鳴ります。
そんな折りにまた曲調が変わり、それを合図に食事の皿やトレーが奥にどんどん片付けられ、代わりにフルーツやデザートが沢山出てきました。
「何か取ってきましょうか?」
「あ、ああ、は、はい!ではフルーツを何種か…」
顔の熱はなかなか下がらず、やたらと声が上ずってしまいます。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
目の前には綺麗に盛られた色とりどりのフルーツ。コウスケは何を持ってきたのだろうと隣を見ました。少年は、あまりの事にギョッとします…。
コウスケはそんな表情に気付きもせず、皿に持ってきたものをフォークで切り分け、あまりに普通に食べ始めたので少年は更に驚きました。
『色や形がそれを模してるだけで、全く素材は別物だったりするのかな?』
少年は思い切って質問をしました。
「こっ…コウスケさん、今お食べになっているのは何ですか?」
「チョコレートケーキですよ、あなたも食べます?もう一皿持ってきましょうか?」
答えを聞いた途端に少年は青ざめて、あんぐり口が開いたまま表情が固まってしまいました。
「?どうかしましたか?」
「コウスケさんってもしかして…女性なのですか?」
「??????」
今度はコウスケの時が止まってしまいます。
「だっ、だって、『男性にはデザートは毒物で、食べると内臓が腐ってしまう』って、ずっとお母様から教えられてきたんです。パティシエは特別な鍛練を幼い頃から身に入れているので毒味くらいは問題無い。って…」
「なんですか?その突拍子も無い話。俺はれっきとした男ですし、デザートで内臓が腐るなんて…だってほら、他の参加者の皆さんも問題無く食べているでしょう?」
改めて見てみると、本当に皆、美味しそうにどんどん口に運んでいます。何の不安を浮かべることも無く…。
「先ほどスープをけっこう飲んでらしたので、ケーキ一切れは多いですかね?」
先ほどの肉のように、自分の分を切り分けて一口大にしたものを小皿に乗せてくれました。
三つの意味で、少年の喉が鳴ります。チョコレートケーキへの興味と、やはり拭えはしない不安と、そして、今口にしなければ男性で潜入している事が分かってしまうのではという恐怖と…。
結果、恐怖が一番勝り、意を決してチョコレートケーキを口に入れました。
初めて口にしたデザート、チョコレートケーキ。甘くて後味が少しほろ苦くて、飲み込むと同時にとてつもなく良い香りが鼻を抜ける…あまりの甘美さに少年は暫く惚けてしまいました。
「付いてますよ」
口の端を、くすくす笑ってナプキンで拭き取られました。そんな親切をされたことなど無いのでどういう行動を起こすのが正解なのか分からず、少年はただただ顔が動かせずにいます。
コウスケも目を逸らさず
「珍しい…今まで見たことの無い不思議な瞳の色をしている。綺麗です」
と続けました。
『ドキリ。』
大きく鳴った心臓の音がコウスケに聞こえてしまうのではないかと思ったほどでした。
ちょうどその時、無情にも12時を知らせる鐘が鳴り響きます。
「え?もうこんな時間?!」
少年は急いで立ち上がりました。
お婆さんとの約束、というか、この街全体に古くから言い伝えられている伝承。
「偽った身で夜を越すと、悪魔に見付かって心臓を取られてしまうよ」
少年は急いで階段を駆け下りました。突然の事にコウスケは慌てて追いかけます。
「どうしたんですか?待ってください!」
「ごめんなさい、もう、私はこの場に居られないんです!」
「待って!せめてお名前だけでも…」
「………………」
答えられない切なさに泣きそうになりながらも急いで階段を下りますが、石段や木製の階段とは違って布の敷かれた柔らかさのある階段は慣れておらず、どうしても足がもつれてしまいます。
なんとか転ばずに持ち越しましたが、片方の靴が途中で脱げてしまいました。でも、振り返っている余裕などありません。
『コウスケさん、お婆さん、ごめんなさい!』
家に着いて自室である屋根裏に上がると、お母様とお姉様たちに見付からぬよう、素早くドレスと靴をクローゼットの奥底に仕舞い、いつもの薄汚れたお下がりに着替えます。
「靴、揃えて大事にしておきたかったな…」
少年はぽつりと呟きました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後、お茶会に出掛けていたお母様がお土産にもらったチョコレートを、勿論お姉様たちだけが食卓を囲って食べていました。
「男って可哀想よねー、こんなに美味しいものを食べられないだなんて」
『俺はもう、その美味しさは知ってるよ』
口には絶対に出せないけれど、少年の心の靄はあの日から少しだけ晴れる事が多くなるようになりました。
お姉様たちの食後の片付けの時に、皿の端に付いていたチョコレートの欠片を指で取って口に運びます。あの時に戻ったように、全身が感動で震えました。
「もう一度会いたいな…コウスケさん」
その夜は屋根裏で久々にドレスを出し、コウスケの事を思い出してとても幸せな気持ちで眠りに付きました。
翌朝少年は、騒がしさに目を覚ましました。小窓から外を見てみると
「え?コウスケさん?!」
まさかの奇跡に階段を自然と駆け下りましたが、一抹の不安が過ります。
『そうだ、コウスケさんは俺のこと、女性だと…』
とても会える身ではないと思い直して振り返り屋根裏へと戻ろうとすると、お付きの一人に足音で気付かれてしまいました。
「もう一人、中に居るんだな」
こうなっては仕方がありません。恐る恐るですが、少年はコウスケの目の前にもう一度立ちました。靴を届けようと、コウスケが描いた肖像画で街中を何日も掛けて捜索していたとの事でした。
少年はコウスケに両肩をがっしりと捕まれ、鼻と鼻が当たりそうな距離まで詰め寄られます。
「ち、近っっっ!!」
「この瞳の大きさ、そして何よりも色、間違い無い」
お母様とお姉様たちは当然の如く罵倒しました。
「この灰かぶり!舞踏会に行って男性をたぶらかすなんて、とんだ恥知らずだわ!」
「ち、違う!俺はただ舞踏会に行ってみたくて…」
「『俺』?それと、声もあの日と違うな」
『しまった…!』
少年は、一人称も声を変えることも、すっかり頭から抜けていたのです。
男性という事まで発覚してしまった少年は、青ざめてガタガタと震えました。
「騙して…いたのか?」
無言で使用人に手を力いっぱいに引っ張られ、強引に馬車に乗せられそうになります。
「ごめんなさい!本当に悪気は無くて!!」
処罰を恐れ必死に抵抗しますが、お母様もお姉様も別に困った様子も無く、逆に嬉々とした表情で『灰かぶり』に手を振っています。
『そうだよな、自分じゃなくても雇えばいくらでも代わりは居る。それに、身分を偽って舞踏会へ行ったのは事実だ』
少年は全てを諦め、一気に無抵抗になりました。やっと痛い程に捕まれていた手もほどかれます。
コウスケの屋敷に到着すると、少々玄関で待つようにと言われました。
言い付け通りに待っていると、コウスケが真新しい服と靴を用意してきました。
『どうせすぐに処刑されるのに…あ、死装束くらいは綺麗にって事か』
大人しく着替え、コウスケの後に続いて屋敷の中へと入りました。
「今日はハヤトは居るか?」
コウスケは使用人の一人に尋ねました。
「はい、コウスケ様のお部屋にお呼びしますか?」
「いや、ほぼハヤトの部屋と化しているあの部屋で良い。準備をして待機していてほしいと伝えてくれ」
「かしこまりました」
『俺の処刑部屋かな…』
通された部屋で無言で過ごしていると
「準備が出来たようです」
と、先ほどの使用人がコウスケを呼びに来ました。
「分かった」
屋敷の廊下の一番奥の、少々こじんまりとした部屋に少年は通されました。
「はい、じゃあこの椅子に座って」
今から処刑をする人の雰囲気ではない、とても明るい対応に少年は驚きました。
『処刑慣れ(?)すると、簡単作業みたいな感じにでもなっちゃうのかな…?』
ハヤトが持ってきたケープで首を巻かれ、最初は絞め殺されるのかと思いましたが、どうやらそうではないようです。
一旦少年の側から離れ、ハヤトは引き出しを開けて大きなハサミを取り出しました。
「動くなよ」
先ほどとは違う真剣な口調に、下手に動くと急所を外すという意味なのだと少年は悟りました。ケープと下に敷かれてる使い捨ての布は、きっと血の処理用…。ゴクリと唾を飲み込み、覚悟を決めます。
ぎゅっと目を瞑り堪えていると、ジャキンと大きな音が鳴りました。でも、不思議なことに少年は傷ひとつ付いていません。
驚いて身動き出来ずにいる少年をさし置いて、ハヤトは慣れた手付きで少年の髪を短く整えていきます。粗方切り揃えると小さめのハサミに変え、更に細かく手を入れます。
くるりと椅子を回転させられ、入り口近くで待機していたコウスケと向かい合わせにさせられました。
「このような感じで如何でしょう?コウスケ様」
「相変わらず手際が良いな。ちょうど良い長さじゃないか?」
納得してもらえたと分かると素早くケープを外して
「ご要望があればまたお申し付けください」
と、また明るい口調に戻ってハヤトは言いました。
「毛先がバラバラだったし、キューティクルまで剥がれまくりだ。ろくに櫛も通してもらえなかったんだろうな」
「…………?」
状況が飲み込めず、少年は先ほどから黙りこくったままでした。
「何か変な勘違いをしているようだが、お前に酷いことをしようなんて考えは持っていない。それを分かった上で、あの夜のこと、イチから話してもらっても良いか?」
少年は『話をかいつまむ』などの芸当を持っていないので、本当にイチから、事の成り行きを話しました。当然話は長くなりましたが、コウスケは真剣に最初から最後まで聞いてくれました。
「辛かったな…」
「いえ、そんな、貰われっ子なのに贅沢をしようとしただなんて、自分でも本当に恥ずかしくて…」
「お前は、お前が思っているよりよほど酷い環境で育っていた。だからあの一夜くらいでは、全く贅沢には当たらないよ」
コウスケは少年の細い手を、キュッと握りしめました。
「本当に細いな…。まずは栄養のあるものを三食きちんと食べて…」
「え?!」
「ん?何か変なこと、言ったか?」
「あ、あの…男は一日一食の生き物として育てられてきました。お腹は減りましたが「意地汚い」と怒られるので、自分が可笑しいのだと。あまりにお腹が減ったときは調味料とかで誤魔化して、てっきりそういうものだと…」
『ここまでだったとは…』
想像を超えた酷さにコウスケは頭を抱えました。
まずは使用人に戸籍を調べるよう言いました。少年の言う「お母様」は赤の他人ではなかったために難航はせず、すぐに少年の名は『ソウタ』だということが判明しました。
ソウタは一般教養さえまともに受けて来なかったので、コウスケが教育係となって読み書きからフォークとナイフの使い方まで、あらゆる事を丁寧に教えてくれました。
石鹸を薄めに薄めた泡立たないシャンプーからは比べ物にならない良いシャンプーで洗髪をして、更にきちんとした食事で栄養も行き渡り、髪質も少しずつですが良くなってきました。
自分でもふわふわしていてさわり心地も良いのでついつい手が髪に伸びてしまいます。でもコウスケに撫でられると更に心地好いのを、ソウタは不思議に感じていました。
様々な物事を覚える途中で答えを間違えた時には、殴られると身構えるのがもうソウタの癖になっていました。でもそんな時にコウスケは「怯えなくても大丈夫だから」と優しく髪を撫で、キュッと軽く抱き締めてくれます。
回を重ねるうちにだんだんと心臓の音が大きくなるのがコウスケに気付かれてしまうのでは…と心配になる一方で、すぐに離されるのが惜しいとソウタは思うようになっていました。
勉強の合間には、カードゲームやチェスなども教えてもらい、二人で遊びました。
そんな折でした。二人でチェスで勝負をしていたのですが、一向にソウタは勝てません。考えてみれば当たり前、ソウタは覚えたてなのですから、幼い頃から嗜んでいるコウスケに真っ向から勝てるわけはないのです。コウスケもそれを分かっているはずなのに甘さを出さないことに、とうとう堪忍袋の尾が切れてしまいました。
「また俺の勝ちだな」
「…そうやって、いつもいつも勝って、優越感に浸ってるんでしょ?!俺のこと見下して、そんなに楽しいんですか!!」
駒を床に投げ付けて、ソウタは隣の空き部屋に籠ってしまいました。
そんな事になってもう三日、使用人の中でソウタの唯一の話し相手となったハヤトに教育係を代わってもらっています。
お互いにもう顔が見たくて仕方無い二人なのに、どちらも想像以上に頑固です。一向に仲直りの兆しが見えません。コウスケが仲直りへの道をあぐねいていたちょうどその時、救いの神が現れました。
「コウスケ様、お客様です」
「シュン、久しぶりじゃないか!」
「親父の仕事の同行で、ちょうど近所通ってさ、遊びに来たんだ」
「ちょうど良かった。シュン、話があるんだ」
シュンは、幼い頃からのコウスケの親友でした。コウスケの数少ない、本音を話せる貴重な人物です。
コウスケはシュンに、事の顛末を話しました。
「ソウタが圧倒的に不利なのに、俺は意地になってしまって…」
「んー、それってさぁ、俺がマイに思っている感情と同じじゃないか?」
「?どういう事だ?」
「俺もお前も、社交場に出ることが多いからか、基本的に表情が固まってるじゃん。だから逆に、ころころ変わる相手の表情を見てるとこっちまで楽しくなる。特に好きな相手なら表情を全部見たい。でも一番幸せな感情になるのは相手の笑顔を見ているとき…そうじゃないか?コウスケ」
「好きな…相手」
「うん、好きな相手」
コウスケの心に、一筋のはっきりとした光が差しました。
「シュン、ありがとう」
「コウスケの相談にだったらいつだって乗るよ」
「本当にありがとう…。マイは元気か?懐かしい。幼い頃はよく三人で遊んだな」
春にはシュンとマイの婚約パーティーが決まっていました。
思い出話も一息ついた頃、コンコンとドアが叩かれました。
「コウスケ様、シュン様のお父様がそろそろ時間だと…」
「分かった」
「また近くを通った時には是非寄ってくれ」
「コウスケもたまには俺の家、来いよ」
「分かった」
「じゃあな」
シュンのお陰で自分の気持ちに気付けたコウスケは、意を決してソウタが籠っている部屋の扉を叩きました。
「ソウタ…とりあえず中に入れてくれないか?きちんと話したい」
「…………………………どうぞ」
長い沈黙のあと、やっとで返事が来ました。ガチャリと扉を開けて中に入ると、まるで体当たりでもするかの勢いで、ソウタはコウスケに飛び付きました。
「コウスケさん、ずっと…ずっと待ってました」
どうやらソウタの方も、もう限界だったようです。
「会いたかったし、話したかったし、何よりこうやって抱き締められたかったです!意地張ってて…ごめんなさい」
ソウタの大きな瞳からは、涙がとめどなく溢れてコウスケの服を濡らします。コウスケは大きな手でソウタの頬を拭うと、優しく口付けをしました。
あまりの事に驚いてソウタは涙が止まり、コウスケをただただ見詰めるばかり。
「ソウタ、俺はお前のことが好きだ。正式に付き合いを申し込みたい…ダメか?」
コウスケの申し出に、ソウタは顔を真っ赤に染めて言いました。
「コウスケさんと会えなかったこの数日、寂しすぎてウサギの話のように死んでしまうのではと本気で思いました。もう俺は、コウスケさん無しでは生きていけません。お、俺もコウスケさんのこと…す…好きです」
恥ずかしさのあまり、コウスケの胸に再び顔をうずめます。
コウスケは優しくソウタの頭を撫でながら言いました。
「付き合う上で、さしあたってお願いがあるんだが…」
「コウスケさんのお願いでしたら何なりと」
「ソウタとは対等な関係で居たいから、二人で居るときには敬語は取り払って欲しいんだ」
「努力します…あ、いや、努力し…する!」
あまりの不慣れさに、コウスケはクスクスと笑いました。
「あ、あと…」
ソウタはまだ熱の下がらない顔を上げて、
「キ、キスしてもらえたのが信じられなくて…もう一回、…して」
無邪気なおねだりに、コウスケはますますソウタの虜になりました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから二人の勉強会は、甘い一時を交えるものとなりました。
しかしコウスケは上流階級の身の上、来訪者が絶えることはありません。本日もコンコンと部屋の扉がノックされます。心なしか、二人が付き合いを始めた日からは冷たい音色に感じました。
コウスケもソウタも、恐れを感じてすぐに体を離します。二人の甘い雰囲気も、この家ではすぐに打ち消されてしまうのです…。
しかしそれも已む無し、使用人から両親に二人の関係性が伝わってしまっては、処罰は免れないでしょう。
しかし互いの思いは止まるところを知りません。いつまで隠し通せるやらは、時間の問題と思えました。
久々にトランプゲームをソウタと楽しみつつ、コウスケは自分の考えを述べました。
「ソウタは俺がこの家を出たいと言ったら、賛成してくれるか?」
「当たり前じゃない」
ソウタは即答しました。
「でも、家のこととかどうするんだ?親から継ぐ仕事だってあるんだろ?」
「実は俺、この家に…というか、一家にあまり存在を喜ばれてはいないんだ」
コウスケはほんの少し苦笑しながら言いました。
そういえば同じ家に住んでいるというのに、コウスケが両親と会話をするのを見たことがありません。
「俺には弟が居てな、弟の方が社交的だし両親にも周りからも可愛がられている。黙っていたって分かるんだ、両親は家のこと全部を弟に継がせたい…俺はお邪魔虫なんだよ。社交場でも弟の顔を広めるのに必死で、俺はだんだんと一人上手になってしまった」
そういえば、舞踏会の時にやけに囲まれてる人物が居たな、とソウタはあの舞踏会を思い出しました。逆にコウスケには軽く挨拶をした程度でそそくさと去っていく人ばかりで…だから自分に気さくに話し掛けてくれたのかもしれない。と、ソウタは思いました。
ある日、コウスケは朝早くにソウタを起こしに来ました。
「出掛けないか?ソウタを交えて話したい事があるんだ。」
勿論即答で馬車に同乗します。着いたのは、シュンの住んでいる屋敷でした。今の屋敷も相当の大きさですが、それ以上に大きい屋敷にソウタは暫く開いた口が塞がりませんでした。
「コウスケ様、お久しぶりでございます!」
自分の家より明らかに歓迎されている雰囲気に、ソウタはびっくりです。
使用人の一人が部屋まで案内してくれました。
「シュン様、お客様です」
「コウスケだろ?通して」
穏やかな声が室内から聞こえました。
「は、初めまして。ソ…ソウタと言います」
「コウスケが他の人を連れてくるなんて珍し…ああ!ソウタって君か」
シュンは何かを察したようで
「三人で話がしたい。ちょっと席を外してくれるかい?」
と、使用人に申し付けます。
しかしまた別の目線を感じたソウタ。明らかに後ろで物音がします。これだけの屋敷に住む人物…やはり見張りゼロという訳には流石にいかないのかと、ソウタは不安に身を固めました。
「背後に居ると気になるかい?おいで、シャロン」
「あ…猫」
ホッと胸を撫で下ろします。
毛足の長い、全体的に白くて足先と鼻先に黒模様が入っている、高貴さの漂う猫をシュンは膝に呼びました。ワインを入れたグラスをクルクルと回して、すぐには飲まずに、まずは香りを嗜んでいるようです。
「ところで、相談ってなんだい?」
「ソウタに問題や危険が生じる事無く、円滑に家を出たい、なんとか出来ないかと思って…」
「なんだそんな事か、お安いご用だよ」
あまりの即答にソウタは驚きますが、コウスケは答えが分かっていたように落ち着いた態度で安堵の表情を見せます。
「まるで物置きのように使われている家がちょうどあってさ、屋敷に比べたら本当に小さな家だけど、二人で暮らすなら十分だと思う。広すぎても掃除が大変だからね。そこに住むと良いよ」
「本当にありがとう、恩にきる」
「俺とコウスケの仲じゃないか。それに、もし文句のひとつで言われそうになったときには…」
ワインをコクリと一口運び、シュンは続けました。
「俺と親父が黙らせるから」
誰よりも柔和な表情でドスンと重い一言を放つシュンに、ソウタは違う意味でドキリとしました。とりあえず、この人物には逆らわない方が良さそうです。
「書類作りや手回しに三日くらい掛かると思う。その間に二人は引っ越しの準備でもしといて」
そして本当に三日後、シュンの使用人が二人を迎えに来ました。不安の拭いきれなかった揉め事や咎めは何一つ起こる気配すらありません。シュンのあまりの手際良さに、更にソウタは恐れを覚えました。
荷物という荷物も無いので引っ越し作業は二人でもすぐに終わりました。
ソウタは部屋の隅に置かれたままの箱が気になります。
「これはこのままで良いの?中身は?」
「開けてみて」
「この服と靴…どうしたの?!」
その箱にはなんと、あの舞踏会でソウタが着用していたドレスと靴が、もちろん左右揃って入っていたのです。
「少々強引だったがあの翌日に令状を書いて、使用人に捜索させて持ってきてもらっていたんだ」
「ソウタの家に置いたままでは、処分されかねなかったからな。即焼却の不安もあったが、間に合って良かった」
「もう、眺めることだって出来ないって思ってた…ありがとう。俺、本当にこんなに幸せになって…罰が当たらないかなぁ?」
両手で拭いきれないほどに涙を流して、まるで子供のように泣くソウタをコウスケは後ろからそっと抱きしめます。
「何を言ってるんだ、これからはもっともっと幸せになるんだろ?」
「うん…」
「これからはソウタを思い切り抱き締められるし、キスも出来る。そして…」
コウスケはソウタを振り向かせ、正面から更に強く抱き締めてキスをしました。
そして、耳、頬、首筋とキスを落として、ソウタのボタンにコウスケの指が掛かったちょうどその時…、時を見計らったようにコンコンっと玄関の扉を叩く音が鳴ったのです。
「どうぞ」
明らかに不機嫌な声でコウスケが応えます。シュンが様子を見に来てくれたのでした。
「ごめん、お邪魔だった?」
「何だよシュン」
家に居た時とは違ってあからさまにムスッとした表情を見せるコウスケを、ソウタは吹き出しそうになりながらも更に愛しく思いました。
「ひとつ、言い忘れてた事があってさ」
「何だよ?勿体付けずに早く言え」
「んー、コウスケは性格上気にしないと思うけど念のため…」
「?」
「この家さ、長年人が住まなかったから家が寂しがって『いろいろ』呼んじゃってるって噂あるけど…大丈夫?」
「いろいろ…って?」
ソウタの質問に答えるかのように、誰も居ないはずの二階から『パタタタタッ』と、まるで人が駆けるような物音が聞こえてきました。
━━━おしまい━━━