至極色の夜の話ビルの屋上に出ると冷たい風が体を刺し、もう少し厚着してくれば良かったな、と肩を竦ませた。
隣にやってきたKKが小さくくしゃみをして鼻をすする。彼も上着はあれど薄着で来た事を後悔しているのか腕をさすり白いため息を吐いた。
「そろそろか?」
「うん、18時くらいから始まるみたい」
スマホの画面をちらりと確認し、空を見上げる。残念なことに快晴とはいかずちらほらと雲が浮かんでおり、青黒色のキャンバスに灰色が浮かんでいる。
給水タンクの足元に座り、買っておいた缶コーヒーを開ける。ふわりと立ち昇る湯気が鼻を擽った。
「赤い月、か」
タンクの足組に背を預け、コーヒーを飲みながらKKがぽつりと呟く。
こんな風に月をのんびりと眺めるのは何時ぶりだろうか。あの夜の赤い月観測は急いでいて座ってゆっくり眺めることはしなかったから、小さい頃夏に麻里と夜空を星空観測したときぶりかもしれない。
缶から口を離して息を吐く。
いつの間にか月は少しずつ形を変えはじめていた。
「始まったね」
「これが赤くなるのか?」
「部分食っていうのが終わったら赤く見えるらしいよ」
「へえ、一応写真撮っておくか」
KKがスマホを空に向ける。そういえば、エドが皆既月食による霊的存在及び結界の変化について調べたいとかなんとか言って観測機をそこいら中に仕掛けていたのを思い出す。データはあればあるだけ有用らしい。
「霊的存在って月の満ち欠けや月食でそんなに変わる?」
「あ?そうだな…数値的なものはオレも知らないが、昔から新月は魑魅魍魎が跋扈するとか、満月は力を増すとか言うからな」
「うーん…あ、狼男みたいな?」
「そうだな」
狼男といえば確かにそういった伝承は世界各地に多い気がする。アジトにあった伝承伝説の本曰く、雪女や船幽霊は満月の頃に現れ、不知火や怪火は新月の頃に現れるとか。
本の内容を思い出していると、強いビル風が吹きつけ寒さで体を震わせた。
1週間ほど前の渋谷には魑魅魍魎が跋扈していたが、あの日は新月ではなかったななんて思考を飛ばす。コーヒーではどうにもならなかった芯まで冷えた体を、膝を抱えて丸くなることで暖を取る。
「暁人」
名前を呼ばれて顔を上げると、腕を引かれて抱き締められ気づいたらKKの上着の中に上半身が収まっていた。温かいが息がしづらく、上着の襟元から頭を出す。
「ぷは、びっくりした…」
「温かいだろ?」
「温かいけど」
目の前にある顔が悪戯っぽく笑い、ちゅ、と唇に熱を分ける。突然のことに頬が熱くなるのを感じ顔を反らし、くるりと振り返ってKKに背中を向けた。背後からくつくつと籠もった笑い声が聞え、それと同時に腹部に腕が回る。
「オマエ温かいな、熱でもあるんじゃねえか?」
「うるさい、誰のせいだと…!」
はは、と首元に顔を埋めながら笑うKKに食ってかかるも何処吹く風と簡単にいなされる。気が済むまで笑うとKKは顔を上げた。
「ああ、そろそろだな」
「ん、本当だ。もうほとんど無くなってる…薄っすら赤いね」
二人で無言で月が細く消えていくのを見つめる。
あの夜の様な焦燥感も恐怖心もない、言わばただの天体ショー。なのに何故か鼓動が忙しない。腹部に回る腕に添えた手に力が入る。
寒さとは違う震えに気づいたKKが抱き締める腕の力を強くした。
白く輝く月は消え、薄紅色の月が夜空を至極色に変える。
いつの間にか詰めていた息を溢した。
「思ったより赤くないな」
「…うん、」
「暁人、オレは今両手が塞がってるから代わりに写真撮ってくれ」
「…え、わかった。任せて」
月に向けてスマホを構える。手が少し震えているせいか画面の中の月の像がブレてフォーカスが合わない。
もう温かいのに手が震えるのは、恐怖か安堵か。別にトラウマなんて大袈裟なものじゃないはずなのだ、だって大切なものは取り戻したのだから。なのに何故、
思考の波にのまれかけた意識を呼び戻したのは痛みだった。
「痛ったい!」
スマホを落としかけ、慌てて掴むと首元に視線を向ける。首筋にくっきりと残る歯型にKKが唇を寄せた。
「考えすぎるな。今オマエを抱き締めてんのは誰だ」
「け、KK」
「麻里は今どうしてる」
「アジトで女子会…?」
「渋谷の街の人は皆生きてるだろ」
「…うん」
「もし何か起こったらまたオレが対処してやる。…なんだまだ不安か?」
「ううん」
両手を擦られ、握られる。手はもう震えてはいなかった。
そうか僕は不安だったのか。またあんなことが起こるんじゃないか、麻里がいなくなるんじゃないか、大切なものが奪われるんじゃないかって。
でももう大丈夫だ。もし何かが起こったとしても、一緒に戦ってくれる人がいる。
見上げた夜空に浮かぶ薄紅色の月はとても美しかった。
ところでKK、僕は噛んだことを許してない。
こんな見えるところにできた跡、どうすればいいんだ。外ならマフラーでどうにでもなるけど麻里には確実に見られてしまう。
肩口にある頭を掴む。反撃に擽られて身をよじると、足を滑らせ落ちそうになって慌てて態勢を戻した。それがなんだか可笑しくて、お互い顔を見合わせ笑う。
程なくして笑い止むと隣に座り直し、冷えきったコーヒーに口をつけた。少し汗ばんだ体にはその冷たさがちょうど良い。
月が元に戻るまであと少し、二人静かに眺めていた。