甘やかしには辛味を足して七月、それはある者にとっては書き入れ時、またある者にとってはただの平日、そして僕らの様な学生にとっては長い夏休みの始まりである。
休みに何しようかと楽しそうに予定を立てる友人たちを横目に僕は頭を抱えていた。
夏は夜に肝試しをする若者が増える季節ということもあってか、禁足地や事故物件が騒がしくなり毎夜KKと共にパトロールに精を出していたのだが、そんなこんなで忙しくしていたので、すっかり忘れていたのだ。
前期の試験やレポートは問題ないが、引き続き後期でも受講する選択科目の講義には宿題が存在することを…!
普通ならば夏休み中にやればいいんだから焦らなくても、なんて思うだろうがこれは資料集めが厄介で、どれも大学の図書館にしか無いようなものばかり。休みに入る前に資料の検討をつけてコピーしなくてはならないのである。ただでさえ難しい科目で前期レポートもギリギリだったのだ、生半可なレポートは出せまい。夏休み中も図書館に来ることはできるが休みには遠出の依頼があるため資料を求めて毎回行くわけにはいかず、できるだけ必要な資料は今のうちにまとめておきたい。それにあわよくばKKとの時間ももっと確保できれば…大丈夫僕ならやれる。
友人たちと別れ、図書館の自動ドアをくぐる。効きすぎているエアコンの冷たい空気に汗ばむ体を冷やされ、暑さでぼんやりとしていた頭が冴えた。レポート作成は資料集めが重要、ある意味ここが正念場だ。
鞄を近くの机に置き、資料のある本棚を睨みつける。必要そうなものを片っ端から集めて選別、コピーしなければ。帰ってからもまとめ作業は時間がかかるだろう、今夜は長くなりそうだ。
――――――
夜でも暑い気温に辟易しながら煙を燻らせる。
食後の一服を終えて部屋に戻り、冷蔵庫から缶ビールを取り出して廊下に出る。時折聞こえてくる暁人の唸り声を聞きながら自身の学生時代をしみじみ思い出した。
宿題を後回しにしがちだったオレは、休み最終日に纏めて終わらせようなどと無謀な事をして毎回泣きを見ていた。今の暁人のように唸りながらひたすら手を動かす地獄の時間。懐かしいものだ。
まぁ、暁人の場合は早めに終わらせておこうという真面目故の唸りだが。
夕飯の後すぐに部屋に籠もると宣言した暁人は、夏休みの間に舞い込む遠方の依頼が泊りがけになることを考えて早々に終わらせてしまいたいのだと意気込んでいたが、籠もって十分もたたないうちにまとまらない、難しい、と唸り始めたのには思わず苦笑いを溢した。大学のレポートなんぞ得てしてそういうものだ。頑張れ若人。
懐古の情と暁人の苦悶の声を酒の肴にビールを呷る。
さてと。リビングに戻るとソファーに身を沈め、積読の山に手を伸ばす。夜も更けていつもならば見回りに出ている時間だが今日は休養日だ。緊急の連絡が無い事を確認し、いつか読もうと買ってそれきりになっていた本の表紙を捲る。マイナーな雑誌で連載している著者の河童新説、どこまで河童について理解しているのか見極めてやろうと鼻で笑い、文字の海へ意識を落とした。
ガチャと扉の開く音が聞こえ視線を上げる。
時計を確認すると、長針が二回りと半ばほど。集中していたからか思っていたより時間が経っていた。この本は、河童については異議を唱えたいが読み物としては面白い。悪くないな、と残りのあとがきまで読みきって視線を上げる。
ふらりと危うい足取りでトイレから部屋に戻る暁人を見送り本を閉じた。
閉じていく扉の方からグゥ〜とどこか気の抜ける音が聞こえてくる。夕飯はしっかり食べたはずたがどうやらアイツは空腹のようだ。
「何か作ってやるか」
ぽつりと呟いて台所へ向かい、冷蔵庫の中を眺めながらすぐに作れそうなレシピを思い出す。そういえば昨日暁人が作った焼売の残りを冷凍したんだったか。焼売丼…は流石に重いな、程々に腹にたまるスープでも作ってやろう。
まずは片手鍋に水、鶏ガラスープの素を入れて火にかける。
沸騰するまでの間、冷凍庫から焼売を五つほど取り出し、ついでにバラして冷凍していたえのきとほうれん草も出しておく。
野菜室に半分だけ残っていた長ネギは縦に切りそれをザクザクと斜め切り、歯ごたえがあるとアイツも喜ぶだろうから生姜はチューブじゃなくて細切りに。
下拵えをしているとふつふつと気泡が立ち鍋が沸騰を知らせた。すかさず凍ったままの焼売とえのきとほうれん草、長ネギと生姜を投入し煮立たせる。
火が通ったら塩コショウで味を整え味見。濃くなってしまった気がするのでもうとろみをつけて少し煮たら卵でとじてしまおうか。そうすれば、アイツの好きな少し濃い目位のちょうど良い塩梅になるだろう。火を止め、水溶き片栗粉でとろみを加えてもう一度弱火で火をつけた。冷蔵庫から出した卵を手早く菜箸で解きほぐし注ぎ入れる。ふわりと固まっていく卵を軽くかき混ぜ崩し、また火を消してあとは予熱。仕上げにごま油を一回しすればありあわせ焼売のスープの完成だ。
器によそうと、ふわりと香るごま油の匂いが広がり空腹ではないのに腹が減る錯覚を覚える。自分も少しくらい、と誘惑に駆られるが下手に間食すると健康に良くないと暁人に心配されるのでグッと堪え、伸ばしかけた手を下ろした。こんなことでアイツを悲しませるのは本意ではない。次の健康診断が終わるまで夜食は無しだ。
鍋から立ち上る誘惑の香りから顔を反らし、盆に器とレンゲとお茶をセットし部屋の扉をノックした。
――――――
軽いノックの音に返事をすると、ふわりと美味しそうな匂いが扉から漂ってきた。
先程からグゥグゥと泣きわめいていた腹が一段と騒がしくなる。顔を上げると湯気立つ器の乗った盆を手にしたKKが机を顎で指した。パソコンと本やプリントを除けて場所を空けると、目の前に器に注がれた黄色と緑色の鮮やかなスープが置かれる。
「け、KKなんで…」
「オマエ腹の音廊下まで響いてたぞ」
「夕飯しっかり食べたはずなんだけどなぁ…恥ずかしい」
まさか聞かれていたとは思わず、羞恥で頬が熱くなる。夕飯にがっつりしたメニューをKKより多く食べていたから余計に。
いいから食え、と渡されたレンゲを受け取り手を合わせる。
「いただきます」
「おう、召し上がれ」
後ろで肩越しに覗き込んでくるKKの存在が気になるが無視してレンゲでスープを混ぜる。ふわと浮かぶ卵と、ネギとほうれん草がくるくる混ざり、ごま油の香りが立つ。下に沈んだ塊を掬うとそこには見覚えのある焼売が。昨日作った焼売の残りをスープにアレンジするとは驚きだ。水餃子みたいな感覚だろうか。レンゲで焼売を掬い上げで一口で頬張る。
「……!」
「お、どうだ?結構いけるだろ」
コクコクと頷いてくったりと煮込まれたほうれん草、長ネギ、えのきの食感を楽しむ。時折あるシャクっとして辛いのは生姜か。とろみのあるスープはいつもお馴染みの中華風で生姜も合わさり少し辛味がある。夜中に食事を求める胃に対して重すぎず軽すぎずな優しいスープだ。いくらでも食べられてしまえそう。
「…KKって天才だったりする?」
「は、今更気づいたのかよ」
「ちょっと味濃いめ!すっごくすごい!焼売おいしい!」
したり顔をするKKを尊敬の眼差しで見つめていると、僕を見下ろし訝しげに眉を顰め額に手を置かれる。不思議に思って首を傾げるとKKは熱は無いな、と呟いて腕を組む。
「暁人、課題どこまでまとめたんだ」
「え、資料はまとめ終わって三分の一くらい書いたかな」
「十分だな、語彙力が低下してきてるから今日はもうこれ食って休んだらどうだ」
「でもまだ終わってないし」
「十冊以上のコピーした資料の束、全部まとめられたんだから今日はもういいだろ、初日だぞ?それにそもそも今日は資料まとめるだけって言ってただろうが」
「…そうだけど、」
まとめ終わり一旦不要となった資料と本の山をチラリと横目で見やる。
確かに今日はまとめたら終わるつもりだったのだが、筆が乗った事もあって書ききってしまおうと思ったのだ。このレポートを終わらせて、夏休み中に時間が空けばKKとデートする時間にもっと充てられるのでは、なんて思いついてしまったのも要因のひとつで。けれどもう日付は変わってだいぶ経ち、未だかつて無いハイペースなレポート作成に脳内でぐるぐると文字が回っている。眠気と疲労で同じ行を二度も読んでしまうなんて一度じゃない。KKの言うとおり今日はもう止めた方がいいのかもしれない。欲張りは良くないか、小さくため息を吐く。
とろりとくたくたの長ネギとシャキシャキの生姜を噛み締めた。
するとKKが僕の髪をくしゃりと撫でる。
「急がなくても夏休みはまだ始まったばかりじゃねえか、何焦ってんだ?」
「夏休みは依頼と巡回、泊まりの仕事、あと僕の用事とかで予定が詰まってるし、だから、その…」
「あ?」
「デートの時間!もっと作れると思ったんだよ!KKの休みに合わせて」
勢いで言い切ると熱くなる頬を隠すために焼売を頬張る。荒めのひき肉でボリュームのある焼売は我ながら大成功だな、と小っ恥ずかしさを誤魔化すように現実逃避をしていると、髪を撫でていた手の動きが少しずつ大きくなっていく。グラグラと頭が揺れてスープを溢しかけ、急いで机に置いた。
「ちょ、ちょっと零れるってば」
「…オマエなぁ……、ハァー…………」
「なんだよ」
唇を尖らせ、撫で続ける腕を捕まえKKを見上げる。片手で顔を覆ったKKが深くため息をついて何かを呟くと、顔から手を離し後ろから僕の顎を掴み上げた。顔に影が落ち、突然のことに文句を言おうと開いた口に噛みつかれる。
ちゅ、と音をたてて吸い付かれ、惜しむようにがぶがぶと下唇を喰んでから離れていくそれを目で追った。
「暁人、これ食ったらとっとと寝ろ。それで明日一日使ってこれ終わらせろ。睡眠不足は非効率だ。今日の作業量を見る限り集中すればオマエならできんだろ」
「えっ明日の仕事は?」
「オマエ休みな」
「そんな!ついでに修行もつけてくれるって」
「そんなんは何時でもやってやるよ、兎に角明日は宿題終わらせろ、いいな?」
聞き分けのない子供を相手にするようにKKが背を叩きながら言い聞かせてくる。仕事はもともとKKだけで熟してきたものだから何も問題はないが、ついでに戦い方を見直してもらえる約束をしていたから、突然言いつけられた休みに戸惑う。訝しげに思って彼を見上げるとニヤと口角を上げる。
「明日のうちにオレが週末に入ってた依頼も片付けてくる。そうすりゃあオレもオマエも完全自由に過ごせる二日間ができるわけだが」
「それかなりハードじゃない?」
「まあな、でもそんなこと言ったらオマエもだろ。で、だ。泊まりでデートしたくねえか」
「!」
滅多にない、仕事とは無関係の泊まりだ。否と言うわけもなく、する!したい!と何度も頷く。頬が緩むのを抑えきれずへら、と笑みを溢す。
そうと決まれば早く寝るためにスープを食べてしまわないと。冷めてしまってもしっかりと味の濃いスープを一滴残らず平らげる。
「美味しかった、ごちそうさまでした!」
「おう、お粗末さん」
手を合わせてそう告げるとKKは優しげに微笑んだ。
エアコンの風が食熱を冷ます。
食器を洗う為に立ち上がろうとする肩を押され、椅子に戻される。
洗い物も引き受けてくれるらしい。
「あとやっといてやるから寝る仕度しろよ」
再び落とされた熱が唇を食み、そして最後に鼻先に少し触れ離れる。優しく甘く感じられる視線に、これは甘やかされてるなぁと満更でもない気持ちになりながらまだ熱の残る唇に触れた。
食器を持って部屋を出ていく彼の背中を見送り、机を整え洗面所に向かう。ついデートに意識が向きそうになるが、まずは明日を乗り越えなくてはならない。何が何でも明日中に文句なしのレポートを書き上げるのだ。僕はそう意気込んで、なんでだか甘さの残る口の中に歯ブラシを含ませた。
「それにしても、生姜少し入れすぎたか」
「ううん、これくらい辛い方が僕にはちょうどいいよ」