羅針かつて、変化とは私の周囲を彩るものにすぎなかった。
雨の日も雪の日も、誰が生まれた日も死んだ日も、鉱物の私にとっては変わらない。この世で最も硬く変質しにくいといわれるオリハルコンの身には、噴火や落雷さえ些事にすぎない。
まして生身の生物など、あっという間に死に墓も朽ちて忘れられていく存在だろう。私だけは何があっても変わらない、変わることはないとそう思ってきた。
それが、あの日――
バーンパレスで起きた一連の出来事を境に、我々の立場はまるで変わってしまった。かつて、再び魔王を名乗り地上の全てを取り戻すがよいと揚言した大魔王とは袂をわかち、寄る辺のない身として潜伏に甘んじている。
しゃら、しゃらら。
雲ひとつない夜空の下、凪いだ海から来る潮風がかすかに私の髪を鳴らしている。
静かな夜空に、散らしたような星々。
その美しいカンバスの中央に、あの禍々しい居城がなければ、どんなによかっただろう。
目を細めてにらみつけていると、聞き慣れた足音が近づいてきた。
しゃらん。
「アルビナス、交代だ」
「ハドラー様は?」
「まだお休みだ、静かに戻れ」
ヒムとのこの会話も、何回目になるだろう?
私たちは眠りも食事も必要としないが、ハドラー様は違う。来たる日にそなえて身を潜め、回復しないとわかりながらも体を休める主君のために、私たちは交代でお世話をしながらバーンパレスの状況を確認するようにしていた。
太陽が登る頃と、真上に来る頃と、月が傾き始める頃。
3人交代のシンプルな取り決めで、私はいつも月が傾いてからの持ち回りだった。
すでに爆撃で滅びた地の、端にわずか残った森林の滝のほとり。ブロックのおかげで逃げおおせた私たちは、いくらかの協議の末にこの場所を選んで駐留するに至った。だがそれも長い話ではない。
――私たちの主は、死へ向かっている。
非情な大魔王のせいで、ただでさえ短くなってしまったそのか細い命を、戦いの場で華々しく散らせようとしている。それがいつかはわからないが、この地上が消滅するまでの数日より早いことは間違いないだろう。
「失礼します」
洞穴に踏み入れた私は、念のため小さくひと声告げ、主のそばへ寄り添った。が、返事はなく静かな寝息だけが聞こえる。
明かりはなく、ただ雨露をしのぐための場所の一端。私たちが集めた藁を寝床に、主は眠っていた。ただ闇に包まれていて、その顔は見えない。
この洞穴を隠れ家にしてからというものの、この暗闇にただ座している間は色々な事を考えてしまう。
ケープに付けた腕章にふと触れて、かつての喪った仲間たちを思い出した。
「ブロック、フェンブレン……」
片や個人的報復のための離反、もう片方は主君のための挺身の果てという差はあれど、二人とも自分の意思でなすべきことをなした。親衛騎団を統括するこの私がどう判断を改めたとしても、あの二人の死は避けられなかっただろう。
死とは、生物の変化で最たるものだ。
誰にも等しく訪れ、避ける事はできず、そして死んだものは二度と戻ってこない。
それが自然なことなのだと理解していても、私にはどうしても受け入れられなかった。
主たるハドラー様はもとより、生き残ったシグマもヒムも、自分たちが死に向かう事に何も疑問を持っていない。それはきっと、自分の中で最も大事にするものが決まっているからだろう。
離反したフェンブレンでさえ、野心という自分の心に素直に従ったまでであり、私には彼を責める資格などないような気がした。
クイーンの駒は、ほぼ全ての駒と同じように動くことができる。ゆえに最強の駒と言われがちだが、裏を返せば他の駒で代替がきく、自己たりうるものがない無個性の駒だ。
(死ねたら楽だ)
ブロックの代わりに私が砕けていたら、どんなに楽だったろう。
「……禁呪で作られた魂は、心の投影」
いつか、どこかで聞いた言葉を誰にともなくつぶやく。
私は、目の前にいる主のどこに似たのだろう?
高慢に振る舞うのは、自信がないから。
自信がないのは、何も成し遂げられないから。
何も成せないのは、未熟だから。ここにいる誰よりも、一番。
だから、この方を救いたい。
誰よりも生きていてほしい人が救えなければ、私自身が救われないから。
ここまでこの方の存命を考えるようになった始まりは、その失調を初めて見たときだった。
倒れて砕ける酒器の音、あの方の吐いた血の色、震える背中のひとつひとつまでが鮮明に思い出せる。
ヒムが主のために涙を流した時、私は涙が出てこなかった。感傷を共にできるほど気持ちを同じにはできず、ただ目の前の現実に心が追いつかなかったから。
ここに潜伏してからずっと、乾いた布を絞るように同じ事ばかり考えてしまう。
生きるつもりのない相手に、生きてほしい。
前提から無理なことが分かっている問いに、答えなどあるわけがない。
答えなどないとわかっていながら、考えることをやめられない。
なぜなら――
「アルビナス」
思考を中断され、呼ばれた主の方へ意識を戻した。
いつから起きていらしたのかと目をこらしたが、洞穴の暗がりに埋もれて表情を確かめることができない。わずかに差す月明かりの中、なにもない宙に主の荒れた腕が伸ばされる。
「私は、ここにいます」
延べられた手に応えるべく、腕を出して主の手をそっと握った。しかし返事はなく、力を失くした手を受け取ったまま、私は自分の膝の上で主の手に手を重ねていた。
今のは、いわゆる寝言というものだろう。
私たちは眠ることがない。だから夢がどういうものかわからないが、その内容の良し悪しで寝覚めの気分が左右される、きっと心の麻酔のような何か。
せめて、安らかなものであってほしいと思う。
「ずっと……ここにいます」
このまま永遠に朝が来なければいいと、祈りを込めるように語りかける。
――祈り?
何を頼ることもできないこの世界の、どこの誰に?
そんなこと、生まれて二十日足らずの私には分かるはずもなかった。
◇
それは、いつも俺の夢に出てくるイメージだった。
鋭い剣のように切り立った山の穂先はすでに近く、手を伸ばせば届きそうなほどに見える。
澄みきった空の中央を、切り裂くような白の頂。
焦がれる思いで見上げると、その頂からこぼれた陽の光が目を刺し、思わず顔をしかめた。
何者かに導かれるように、俺は黙々と歩を進める。
ただ、その頂を目指すために。
登った先に何があるのかは分からない。
だが、俺はそこへ行かなければいけない。
ふいに横殴りの風に襲われ、俺は反射的にマントを盾にした。後ずさり、風を受けるマントの先に視線を流してみると、その生地の影に見慣れた姿があった。連なる銀の束が、積雪の反射を受けてきらめきながら風に揺れている。
「アルビナス」
呼びかけたが返事はなく、うつむいていてその表情は読めない。
いつもなら俺が呼ぶ前にそばへ馳せ寄るものを、かぶりを振って、ただ後ずさる姿は別人のように思えた。
「行かないでください」
か細い、泣いているかのような声。
「あと少しで頂上だ」
「ここにいてください」
「なぜ止める」
一歩、また一歩と後ずさるアルビナスを追い手を差し伸べるが、歩くごとに遠ざかっていく。
「私は、あなたに――」
ケープから銀色の手が伸びて俺の手を握るかというところで、崖を踏み外したその姿が眼前から消えた。
声にならない叫びと共に、気が付けば暗い岩肌を見上げていた。親衛騎団がかき集めてきた藁の寝床は、俺の寝汗でじっとりと湿っていた。汗で濡れた不快感と、胸の奥で渦巻く激痛が、これこそまぎれもない現実なのだと教えてくれる。
「お目覚めですか」
声のする方へと、俺の腕をつたい視線をたどった先で、アルビナスが俺の手を握っていた。夢の中とは違った落ち着いた表情、いつもの同じ顔がそこにある。
ひと息ついて、痛みが表情に出ないように顔を覆う。
「俺は、寝ながら何か言っていたか」
「私の名を呼んでいました。それでせめてと思い、お手を――」
銀の指が、握ったままの俺の手をどうしたものかと手のひらの上で所在なくしている。うなされていたのだろうが、あえて話すような内容でもない。手を引き取り、寝ている間の状況を確認したが、バーンパレスも勇者たちも状況に変化はなく、報告といえば今日もまた町がひとつ焼きつくされたということのみだった。
まだ外は暗く、腹も空かず、状況はまったく好転していない。目が覚めたら皆と手合わせでもしようと思ったが、日が昇るまでまだ時間がありそうだった。
「それから、北西の岬でこれを見つけました」
アルビナスが見せてきたその植物は、鎮痛薬として有名な薬草だった。かつて戦争があった時代、痛みを和らげるために人間たちも重宝したと聞いたことがある。
「要らぬといっただろう」
「ですが」
「くどいぞ」
黒のコアの爆発に巻き込まれてから、俺の体調は急激に悪化した。それもそのはず、爆発から身を守るために、ふたつある心臓のうちのひとつを切り捨てたのだから命があっただけでも儲けものだろう。
それ以来、俺の胸は常に焼けた針で刺されているような痛みが続いている。毎晩うなされ、血を吐き続ける俺を見て考えあぐねたのか、ヒムやシグマも交えて痛みを和らげるすべがないかと話しているところを、不要だからやめろと釘を刺したのはつい昨日のことだった。
この激痛は、俺が引き受けるべきものだ。これまで深く考えずにあの大魔王に従ってきた自分への戒めとして、せめてこの痛みは甘んじて受け続けたいと思っていた。かつて若かった頃、歯ごたえのない相手とばかり戦ってきて退屈していたあの時期を思えば、これくらいの痛み、無いよりもあった方がましだった。
どれだけ己に倦んでも、痛みだけは飽きることができないだろうから。
「俺が要らぬというものを、探したりするな」
「ブロックが教えてくれたんです」
「なに?」
「最初は食糧を探していました。そしたら岸に光るものを見つけて……」
アルビナスは近くにあった何かを取り出し見せてきた。その手と同じ銀色に輝く、無骨なかけらがひとつ、手のひらの中で揺れてからんと音を立てた。
「欠けた彼の、おそらく脛の部分でしょう。これが流れ着いたすぐそばに薬草が生えていました」
「……」
あの逃走からずっと、ブロックの事は一日とて忘れたことはない。あいつの最期を思うたびに、ひとつの疑問が常につきまとう。
――あいつは、俺のどこに似たのだろう?
前の俺なら、自分のために部下を盾にすることはあっても、自分を誰かのために捧げるなど思いもしなかっただろう。かつて忠誠を誓った大魔王に対してさえ、俺が同じことをするとはとても思えない。
「わかった、その分だけでも使ってみろ」
「はい」
言われて薬の用意をする姿を見て、もうひとり似ていない者がいたことを思い出した。
昨日、俺が口をはさむまでの間、俺の鎮痛について提案が一番多かったのもこのアルビナスだった。最近のこいつはひとりで考え込むことが増え、統括する者としての提言よりも、俺の身を案じることばかり口にする。
その気遣いはありがたいと思う。だが――
「ハドラー様は、なぜ、おひとりなのですか」
「なに?」
「私やヒム、シグマのように殖えないのですか」
薬の用意をしつつ、こちらを見ずに語ってはいるが、その表情はいつも通りの生真面目そのものだった。アルビナスは親衛騎団の中でも頭の回る方だが、まだ生まれて二十日にもならないその知識は、時折こうして偏りがみられた。
「俺とお前たちは生まれ方が違う」
「どうすれば殖えるのですか」
「……雄と雌のつがいでそれぞれ子の素を分け合う、生き物はそうやって殖える」
「変わっていますね」
それが普通だと、つい笑いそうになった。
「できました」
「ああ」
細かくすり潰した薬草をよこされるまま飲み下して、半刻ほど過ぎただろうか。ゆっくり息を吐き、気を落ち着かせていると、明らかに痛みが引いていくのがよく分かった。
痛みに耐えて荒れていた脈がおさまり、常に浮いていた冷や汗もなくなっていた。やはり、人間の歴史でたびたび重宝されてきたというだけの事はある。
「それで――何の話だったか」
勇者たちに動きがないなら、体がなまらぬように昼は少しでも手合わせをしておきたい。ブロックに免じて痛みに耐える事がなくなったのなら、せめて少しでも眠っておこうと、藁の中に体を埋めた。
見張りが必要なのはわかるが、ただ黙っていられるのも落ち着かない。水を向けるように視線を投げかけると、アルビナスは迷った風に目を泳がせながら言葉を続けた。
「ハドラー様は、なぜ御子をもうけなかったのですか」
「……俺には、情愛など性に合わん」
「愛、ですか」
「雄と雌がつがいになる時に必要になるものだ」
滑稽だと思った。
愛など、俺のような悪魔よりも教会や神々の得意分野だろう。
俺が今まで命を奪うことにためらいが無かったのは、徳心より悪徳の方が世に強く根ざすと思っていたからだ。そんな俺が、よく知りもせぬ愛について女と語っている。
俺はただ、頂上を目指していたいだけだ。死の際に立って今さら何かにほだされようなどと、甘えでしかない。
……きっと、あの夢のせいだ。
いつもの雪山で、他人に会うなど初めてだった。
禁呪法で生まれた魂は、創造主の心を映しだす。俺の写し身に引き留められるなど、心のどこかに生まれた弱みが生んだ願望にすぎない。
もっと痛みが欲しいと思った。
「俺は今まで戦うために生きてきた、そんな者に誰かを愛する資格などない」
からん。
アルビナスの手のひらで、かつてブロックだった破片が音を立てる。
「……それなら、私もハドラー様と同じですね」
夢の中と同じ、うつむいて表情の読めないアルビナスがそこにいた。
薬の副作用か、ふいに眠気が襲ってきた。藁の温かさと痛みの和らいだ安心感で、つい思考が甘くなる。
「アルビナス、昔の俺からは、お前は生まれなかっただろう」
思った言葉がそのまま口をついて出る。
今の俺に一番似たのはヒムだが、アルビナスはその逆だ。映りの悪い鏡とも違う、ブロックとも別の何かがあると感じたが、その正体はわからない。
子は親に似るというが、子にしかない領分というものもまたあるだろう。それが俺に為せなかったものなら、代わりに果たせばよい。
甘い方へと心が流れているのを感じたが、それも構わない。どうせ後は眠るだけ、夢の中くらい欲に流されてもいいだろう。また雪山でアルビナスに会うことがあったら、今度は落ちないように手を引いてやってもいいと、心からそう思った。
「俺はやりたいように生きた。お前もそうしろ」
――あくまで、俺への忠義に背かぬ範囲で。
改めて言うまでもない部分は、あえて言葉にもしなかった。
「……どうか、よい夢を。おやすみなさいませ」
眠りに落ちる前に聞いたその声は、これまでになく優しげに耳に残った。
最後まで、視線は合わなかった。