薄紅「足の爪に爪紅を?」
商品を本部に運び入れた後の仕事の合間、少し雑談している際に提案してみることにした。
案の定、勧めてみれば彼女は怪訝そうな表情を見せた。
「靴を人前で脱ぐ機会はないが」
「見えない部位でも華やかになっていると気分が上がるらしいですよ」
シマボシの返答は全て予測した通りだったため、言葉を返すのにほとんど苦労はない。少し迷うような素振りを見せたことに売り込みの成功を予感して、ウォロは僅かに安堵した。
村外れで露店を開くと人の少ない時間帯を見計らって、彼女はよくウォロを訪ねる。口紅などを並べておくといくつもの商品を時間をかけて吟味しているこの人が、案外女性らしい趣味をしていることには最近気がついたばかりだった。
試しにこの前、指の爪先に爪紅を塗ることを提案したら、派手な色でなければ、とすぐに承諾されたことを覚えている。その時は一週間ほどで色を落としてしまっていたが、気に入ったらしく彼女がよく爪先を眺めていたのだと調査隊員の少女やラベン博士から聞いた。
「足の爪紅はペディキュアと言うのですが、ジブン、あまり塗ったことがなくて…練習も兼ねてお安くしますよ、お願いします」
少し冗談めかして伝えると、シマボシは少し考え込む素振りを見せた。優しい性分だから、こちらからの頼み、ということされ断りづらくなったことは明らかだった。当然、だからといって妥協するつもりはない。
「分かった」
「ありがとうございます! では、今日の夕刻ごろにお部屋に伺います。何種類か色を用意していくのでその時にお選びください」
夕刻、部屋を訪ねると既に隊服を着替えたシマボシがウォロを出迎えた。一応、誤解を防ぐため僅かに戸を開けたまま土間に鞄を下ろし、中から爪紅の容器を取り出して早速板の間に並べていく。
「この前指の爪に塗らせていただいたのがこちらです」
薄紅色の小瓶を手に乗せて紹介するように見せると、シマボシはそれを遠慮がちに受け取って、窓からの光に空かすように中を眺めた。
「その色、気に入っていただけたとお聞きしたのですが」
「ああ、目に入っても気が散るほど派手ではなくて、綺麗だった」
「では似たようなこちらの色はどうでしょうか」
そう言って、ウォロはもう一つ瓶を床から拾い上げた。今、彼女が手に持っているものより少しばかり色が鮮やかに発色している爪紅をシマボシに差し出し、交換する。
「綺麗だが、少し派手ではないか? この前と同じ色でも……」
「足先は目線から離れていますし、少し派手なものもお似合いになると思いますよ。この前と同じものですと、上から見た時の色の変化がほとんど分からないかもしれません」
「そうか。だったらこの色で頼む」
「了解です!」
にこやかに答え、土間に膝をついて、もう片方の膝を立てる。
「靴下や足袋は……履いてませんね。ではこちらに足を乗せてください」
大腿をぽんと叩くと、おずおずと足の指先が乗せられた。
「足は清めたつもりなのだが、汚かったら申し訳ない」
「大丈夫ですよ」
傍に置いた鞄の中から筆を取り出し、横向きに口に咥える。シマボシが差し出した先ほどの瓶を受け取り、蓋を開けて板の間に置く。筆をもう一度手に取って、先を鮮やかな薄紅の中に浸けた。
「足、動かさないでくださいね」
左手で足の甲を押さえ筆を右の親指の爪に乗せると、彼女が息を詰めて筋肉が強張ったのが手に伝わった。
一つ一つ、はみ出すことのないように丁寧に色をつける。ウォロの見立て通り、赤みの強い薄紅色は彼女の日に焼けない白い肌によく映えた。
右足を塗り終えて、今度は左足に移る。色がついたままの右足が所在なげに緊張して浮いていることに気づいて、慌てて彼女の足元に布を敷いた。
「この上に足乗せておいてください。乾くまでどこも触らないように」
「分かった」
左足も、同じように左手で固定する。足の内側から足首にかけてを固定するために手のひらで覆った。足首に僅かに触れる指先からは皮膚の下のしなやかな筋肉が感じられる。最近は外で調査をすることはほとんどなくなったらしいが、それでもかつて、つまりは現場に出ていた頃や剣の使い手だったという過去の名残をとどめているように思えた。
「そういえばシマボシさん」
筆を走らせている爪先から視線を外さずに声をかける。
「今の時期、コトブキムラでいつものような格好をしているのは少々暑くはありませんか?」
そういえば、この人の脚が人前で普段出ているところを一度も見たことがない。隊服を着ている時はもちろん、村で私服姿らしき彼女を見かける時も同じだった。
「まだ肌寒いだろう。……それに、あまり肌を出す格好は好んでいなくて」
「せっかく爪先を塗ったのですし、サンダル…あ、草履のような履物のことなんですけど、そういうものを履いてもお似合いになると思いますよ」
そんな話をしているうちに、小指までを塗り終えた。塗り終わっても、ウォロは足から左手を離すことを忘れていた。
「その履物は、足の甲は出るのか」
「出ますよ。もちろん、覆われている形のものもあるにはありますが」
「どうして」
シマボシの声の調子が少し震えた。ウォロは顔を上げる。
「どうして、って……」
「傷があるから、脚を出すのは」
「……爪紅を塗ることを許可してくださったので、気にしていないのかと」
無意識に、指が彼女の足の上を滑った。ウォロは視線を落とす。手に触れた引きつれたような太い傷に気がついていないわけがない。古傷のようなそれは、足の甲から下腿まで続いていた。
「痛むのでしたら薬などをお持ちしますが」
「いや……それを見て何も言わなかった人は初めてだから、少し驚いた」
昔のものとはいえ傷は深いようで、医師でもない自分がここまでの裂傷を見たのは生まれて初めてだった。
「それはジブンには関係ないことですから。それよりサンダルに関してなんですけど、勿論足を出すのが嫌ならば無理強いはしませんが……躊躇う理由が怪我だけなら、ジブンは気になさらなくても良いと思いますよ」
治療を求められてもいないのにわざわざ、女性の体についた傷だのを最初から指摘するほど配慮を持たない人間であるつもりはない。変なところで敵は作りたくないし、商売にも不利だ。
「シマボシさんがしたい格好をすることが一番大切ですから」
適当な売り文句を口にしたにすぎない。
「……そうか、ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい」
意外な言葉に、つい顔を上げた。
「どうしましたか?」
感謝されるようなことを言った覚えはない。
「何でもない。それより、爪紅の値段を教えてくれ」
シマボシが膝に乗ったままの足を動かしたため、右足と同じ布の上に乗せるように促す。鞄から算盤を取り出している間、シマボシは背後に置いてあった財布を探っていた。
値段を勘定しつつ、ウォロは先ほどの彼女の言葉を反芻していた。そういえば、シマボシが自分に対して感情を発露するようなことを言ったことが、今までにあっただろうか。初めてだったように思える。彼女が『嬉しい』と口にした時の表情には、いつもと変わりはなかったが。