唄「……顔色が悪い。大丈夫か」
「そうでしょうか」
荷物を運び込んで一通りの手続きを終えたあと、シマボシにふと、顔をじっと見つめられた。と思えば、突然こんなことを問われてしまい、咄嗟に肯定も否定もできなかった。頭の回転が、ここ最近は己にしてはかなり鈍っているような気がしていた。目の前に薄ぼんやりと何かの膜があるような感覚だった。今思い返せば、体の疲れにさえ気づけていなかったのかもしれない。
「確かに、あまり休めてはいないので。でもこちら忙しくしているのは仕事以外の要件ですし、気になさらないでください」
と言ったとき、自分の脚から力がふっと抜けて、体がぐらりと傾いたのが分かった。シマボシが驚いたように目を見開いて立ち上がり、椅子ががたりと音を立てた。そこまでは覚えていた。
次に目を開けて、紺色の布張りの床が目の前にあって驚いた。何枚かの座布団が縦に並べられていて、その上に体を横たえていることを少しの間を空けて理解する。上半身を起こすと、体に掛かっていた毛布がずり落ちた。
歌が聞こえる。柔らかい響きのそれは、聞いていると眠気が再び呼び起されそうだった。もう一度この座布団の上に身を横たえたい気持ちをこらえて、辺りを見回す。調査隊室の隅に自分が居ることが分かった。
夢さえ見ずに深く眠ったのは久しぶりだった。ウォロが目を覚ましたことにさえ気づいていないのか、意識を手放す直前まで向かい合っていた女が机の上の紙束をまとめながら、小さい声で何かを口ずさんでいる。軽い調子の、言うならば幼子をあやす子守歌のような歌だ。
シマボシがふと顔を上げた。ウォロと目が合い、表情を変えぬままの彼女の顔が少し赤くなった。
「な、なんでキミがそこに」
「ここに寝かされていたようなのですが、アナタがしてくれたのではないのですか?」
ウォロが起き上がると、シマボシははっとして目を大きく開いた。
「すまない、キミをそこで休ませていたことを忘れていた」
「結構長く休んでしまったみたいですね、申し訳ないです」
「商会の方を呼ぼうかとも思ったのだが、あまりにも疲れていた様子だったのと、ただ眠っているようにしか見えなかったから……」
言い訳のように続けながら、シマボシは机の横にある鞄を手に取った。
「私はもう帰るつもりなのだが、気分はどうだ。もしまだ体調が優れなければ医療隊の隊員を……」
「いえ、大丈夫です、ありがとうございます」
少し眠ることができたからか、完全に回復したとまでは言えないが体はかなり楽になった。
それより、とウォロは続けた。
「アナタって歌を歌うような方ではないと思っていたので、驚きました」
シマボシは気まずそうに目を逸らした。
「……聞かれていたか。誰もいなくて気が緩むと口ずさんでしまうことが時々あって……起こしてしまっただろうか」
「いえ、丁度目覚めたときに気づいたので、むしろ聞いているうちに眠気を誘われそうでした。もしかして、子守歌か何かだったのですか?」
ウォロが尋ねると、彼女は頷いた。
「私が幼い頃、よく歌ってもらっていた。妹の子守りをしているときに歌ったこともある」
「ヒスイ地方に伝わるものとはずいぶんと歌詞も旋律も異なるようで、とても興味深かったです。よろしければ歌詞を教えていただけませんか?」
帳面と鉛筆を取り出しながら尋ねると、困惑した様子を見せつつもシマボシは頷いた。
「わ、分かった。頭から歌詞を言っていけば……」
「歌っていただきたいのですが」
子守唄などの唱歌の歌詞の中には文化、それに時々、伝説や神話を根底に敷くものもある。だが、音階には特に興味はない。にもかかわらず、もう一度、今度はしっかりと覚醒した状態で彼女の歌声を聴いてみたくて、思わずそう求めてしまった。
「歌詞を知りたいだけなら、歌う必要は……」
「お願いします」
「……承知した」
シマボシは躊躇いがちに頷いて、口を開く。低く、それでいて女性らしさのある声が耳に心地よく響いた。歌詞を書き記すことより聴くことに集中してしまったせいか、それほど複雑でも速くもない曲なのに、一部の歌詞を聴き取りそびれた。
「私が知る限りでは、これで全部だ。二番以降があるのかは知らない」
一度歌を聴き、その後写しそびれた部分の歌詞を彼女に尋ねる。それも済んでから、シマボシはそう言って締めくくった。
「ありがとうございます」
「その……人前でこの歌を歌うのはかなり久しかったから、少し照れ臭いな」
シマボシはそう呟いて、ウォロと目を合わせた。
「歌詞は、キミの好奇心を満たすに足りたか」
「歌詞に関しては正直、少しだけ期待外れでしたね。あまりにも日常的すぎて」
「子守唄だ。キミの好きそうな主題が含まれていたとは思えないな」
「古くから伝わる唱歌なんかには、根底にそういうのがあったりするんですよ。ホウエン地方の文化歴史にはそこそこ通じているのでもし何かがあれば分かりました」
それにしても、とウォロは続けた。
「ジブンがここで寝ているときにアナタの歌声が聞こえてきて嬉しかったんです」
「眠りを妨げたかと思っていたのだが」
「そんなことはありません、子守歌を歌っていただけているようで心地が良かったですよ」
ウォロ自身、あまり幼い頃のことは覚えていないが、子守歌を歌われた記憶はない。
「最近寝不足気味だったのですが、今日は良く眠れそうです」
「そうか。良かった」
シマボシの返答には特に感情はこもっていない。いつも心に有る事無い事を口にしているから、きっとこの言葉も世辞か何かだと思われているのだろう。本心だと伝えたところで信じてもらえないのは確かだから、わざわざ否定する気にもならない。
「では、ジブンはお先に失礼します。休ませていただいたお礼はまたの機会に」
そう伝えて部屋を後にした。
本部の正面扉を開ければ、既に日は落ちてしまっていて辺りは薄暗くなっていた。やはり思った通り、かなりの長い時間をあの部屋で過ごしていたようだ。
あの人は良い声をしている。彼女とは今まで何度も言葉を交わしたことがあるが、それを意識したのは初めてだった。聴いていると心が安らぐ。厳しい人だと言いつつも彼女を慕っている、一部のギンガ団団員の気持ちが少しだけ、理解できた気がした。
未来など、これからどうなるかは分からない。だがもしいつか彼女が誰かの母親になることがあれば、あの歌を子に歌うのだろうか。シマボシの表情が変化したところなど一度も見たことはない。それなのに、歌を歌いながら子を腕の中に抱く彼女は間違いなく微笑みを浮かべているに違いないと思った。