現実は厳しい。三ツ谷は求人掲載誌を見ながら、ひとり唸っていた。高校生でも可能なアルバイトはどれも最低賃金ギリギリで、これでは高校を卒業するまでに目標金額は貯まりそうにない。
真夏の太陽に晒されたうなじから、汗が伝い落ちる。その間にも、ぐるぐると脳内を数字が回っていく。あれやこれやと考え出したらキリがない。三ツ谷自身の専門学校に関する諸々の費用はもちろん、妹ルナとマナの学費、さらには少しでも家にお金を入れて母親を楽させたい気持ちもある。
とにもかくにも、三ツ谷には今お金が必要だった。
パッポー、パッポー。目の前の信号が青になり、人並みが縦横無尽に泳いでいく。周りよりワンテンポ遅れて歩き出した三ツ谷は、しかし交差点の真ん中で足を止めた。目の前に広がる光景はまるでモーセの海割り、ならぬ灰谷蘭の人割り。
「うげ」
「人の顔見て失礼だなァ、三ツ谷」
「人違いっす」
くるり、三ツ谷は踵を返す。関わりたくない。 明らかに血まみれの、そのくせ平然と笑っている男と誰が関わりたいというのか。否、それ以前の話だ。背後からコンクリートブロックで殴ってくる男と、一体全体、誰が関わりたいというのか。
斜めにかけたショルダーバッグの紐をぎゅっと両手で握り締め、一瞬、足元に視線を落とす。お気に入りの青いスニーカー。靴紐はしっかりと結ばれている。
顔を上げたと同時、スターターピストルの音が、どこかで聞こえたような気がした。流れるは天国と地獄。何故か足は自然に急く。『三ツ谷選手、速いです』のアナウンスに勝利を確信し、目の前に少し土汚れのついたゴールテープが見え――
「な〜んで逃げンの?」
「ぐぇ」
背後から灰谷にショルダーバックを引っ張られ、三ツ谷の胸元に紐が食い込む。通行人に迷惑をかけないようにとはいえ、それなりにスピードは出ていたはず。交差点から現在地までの距離、凡そ二百メートル。ひしゃげたガードレール越しにバイクが横を駆け抜けて行った。
「・・・・・・ンだよ」
「あー、血ぃついちゃったワ」
その執念に逃走を諦めた三ツ谷の背中を、灰谷が指さした。よりによって今日の服装は白いパーカー「はあ? ふざけんなよ」がっくし肩を落とす。
「つかオマエと話すことなんかねぇし。離せよ」
三ツ谷はばっと勢いよく手を振り払いながらも、簡単には解けないだろうと思っていたのに――
「お、おい」
ふらりと大きく身体を傾けた灰谷は、そのままガードレールに倒れ込んだ。さすがの三ツ谷も慌てる。そんな致命傷を与えたつもりはなかったのだがと思い、よくよく見るとなんだかその顔は青白い。端正な形も相まって、まるで蝋人形のようだ。
「もしかして・・・・・・ソレ、返り血じゃねぇのかよ」
はは、っと音にならない吐息を灰谷は零して、「せいか〜い」と生気のない顔で笑った。いやいや笑っている場合か、とりあえず救急車か。もう数字なんて、イチイチキュー以外は吹っ飛んでいった。
「あ、待って三ツ谷」
「ンだよ!」
「救急車はいらねーよ」
「はあ? 死にてぇのか!」
元ヤン仕込みの怒号に、うっせーと灰谷は顔を顰めた。ざわざわと近くの公園の木々も風に揺れ、まるで批難されているような気がしてくる。三ツ谷もまた、顔を顰めた。
「落ち着けって、蘭ちゃんが心配なのはわかるけど」
「テメェ放置して帰んぞ」
灰谷の赤く彩られた指先がすっとさしたのは、三ツ谷の左腕に挟んでいた求人掲載誌。先程まで読んでいたものだ。これがどうした、と目線で問えば、返ってきたのは童話の不思議猫のような満面な笑み。
「三ツ谷、仕事探してンの?」
「そうだけど」三ツ谷は訝しげに頷く。
「じゃ、ウチで働け」
そう言い切った灰谷の語尾に、三ツ谷は見えないはずのハートマークを見た。
「はあ!?」
いつも冷静な三ツ谷の仮面がハラハラと剥がれていく。言いたいことが多すぎて喉元で渋滞して、ひとつたりとも口から出てきてやくれない。
たった数ヶ月前、背後からコンクリートブロックで殴ったことを忘れたのか。ああ、そうだ。三ツ谷は思い出した。こういうことは、やられた方は覚えていて、やった方は忘れてしまうのがセオリーだ。
「灰谷、テメェ」
「月三十。料理、洗濯、掃除。毎週末。どう?」
「・・・・・・は?」
ツキ、サンジュウ。もはや後半の灰谷の言葉は、三ツ谷の耳に入ってきていない。早くもそれだけあれば、と冷静さを取り戻した頭が数字を並べていく。
「アレ。足りねぇ? まあ、でも・・・・・・そっからは三ツ谷次第かな」
灰谷の含みをたっぷりと持たせた声音と笑み。それに違和感を覚えて視線を上にあげた三ツ谷をふっと影が覆う。途端に届く猛烈な血の香り。
「は、いたに」
灰谷の藤色の瞳がゆっくりと細まって、そうして、ぽてっと三ツ谷の肩に重みが掛かった。どきりと心臓が跳ねる。
「お、オイッ!?」
「うっせぇってば」
すらりと伸びた灰谷の人差し指が、三ツ谷の唇の前にしーっと立てられる。そのまま桃色を上書きするように、指は下唇をなぞり、その血で赤く染めていく。
「ここ、どこだと思ってんの?」
灰谷の息が首筋を擽る。三ツ谷はぐっと口を噤んだ。
「六本木。オレの庭だけど」
言い終わると同時に、派手なエンジン音が聞こえた。灰谷は突然三ツ谷から離れると、なんてことないように軽い身のこなしでガードレールを乗り越えた。
「オマエッ、怪我は?!」
「こんなんかすり傷に決まってンだろ〜」
こんなん、がどの程度なのか知る由もない。だからこそバイクで迎えにやって来た弟のその後ろに乗り込む姿に、三ツ谷は思わず声をかけた。
「ちゃんと手当しろよ!」
「心配ならちゃんと来いよ〜」
灰谷の言葉に、三ツ谷は目を瞬いた。
「今週末。場所はポッケん中。見てみろ〜」
バッとポケットに手を突っ込んだ三ツ谷を置いて、灰谷はひらりと手を振って去っていく。走り去るバイクから風が靡いて、髪をかき乱す。ふわりと甘いバニラの香りがした気がした。
「ったく」
知らぬ誰かの名刺の裏。そこには走り書きで六本木のとあるマンションの住所が記されていた。正気か、なんて。灰谷にも自身にも、三ツ谷は問いかけてみたくなったけど。
「・・・・・・金のため」
手段を選んでいる場合ではないのだ。