名も無い凡才の話 ●
風早閃がキックボクシングを引退した。
アマチュア界隈、そして彼のプロ入りに期待を高めていたプロ界隈も、突然の引退に動揺したものの――心臓の難しい病気が原因と知ると、惜しみながらも誰も責めることはせず、彼の回復と人生を心から祈った。かの天才は、多くの人間から愛されていた。注目されていた。間違いなく、スターだった。
しかし――世界の片隅に、苛立ちと共に壁を殴った少年が居た。
閃より一つ年上の彼は、閃と同じ階級で、閃が高校生になるまでは彼こそが天才だと持て囃されていた。
しかし。彼の天下は閃によってアッサリと終わりを告げる。
――初めて相対したあの日、少年は、本物の天才を見た。そして自分が天才ではないことを、脳を揺らされたどろどろの視界で天井を見上げながら、思い知った。
遠い光。決して手の届かない瞬き。その輝きで周囲を魅了し、誰も彼もの目を奪う。彗星のように、走っても走っても追いつけやしない――名前の通りだ、『閃』――あれこそが『本物』なのだと、少年は理解してしまった。
その日から、あんなに楽しかった競技が、自分の努力が、今までが、人生が、夢が、将来が、全て、無意味に感じるようになった。
何をしても自分には上がいる。何をやっても天才には敵わない。何をやっても……どう足掻いても……一番でこそ意味を帯びる世界なのに……なら、もう、努力なんて、無駄じゃないか……。
……プロ入りを期待されていた少年は、ほどなくキックボクシングを引退した。プロになったところで、スターを引き立たせる為の凡庸な選手で終わる未来しか見えなかった。
階級を変える選択肢もあった。だが結局、勝てないから逃げたという現実に、圧倒的な天才の輝きで浮き立つ自分の凡才さに、少年のプライドは耐えられなかった。
だったら……普通の……夢も栄光を全部諦めて……堅実な人生を歩む方が、真っ当だと思った。
特別になれないのなら、普通に……普通の……普通として生きていくのが、相応なのだ……。
――そう、思っていたのに。
プロ入りするなら行くことはなかった、適当な大学への受験勉強を惰性でしていた只中に、閃の引退を聞いて。
狂いそうになった。
なんで引退するんだよ。引退するんなら、最初からキックボクシングなんかすんじゃねぇよ。アイツさえいなければ、俺は、俺は、興味もない学校へ進む為のやり甲斐のない受験勉強なんかしなくて済んだ、本当にやりたかったことをできていた、ずっと一番で居られた、栄光と将来を約束されていた、アイツがいなければ、アイツさえいなければ――今になって居なくなるなんて、どうして、俺の競技人生も俺の引退もなんだったんだ? 俺は、なんだったんだ?
少年は駆け出していた。そうして我武者羅に、気付けば、閃の通う高校の門の前に居た。敷地内に乗り込んで、キックボクシング部を訪ねて、「風早閃はどこにいる」と聞いていた。
……心の片隅では、かの天才が今もリングでスパーリングしているのではないかと、期待していた。そうであって欲しいと、望んでいた。自分の諦めが無意味ではなかったと、信じたかった。
「風早先輩は……部活を引退されて……」
困惑気味の部員がおずおずと答える。その言葉が、少年を空想から現実に突き落とす。
「それで今は、どこにいる」
震える唇で凄むように尋ねる。部員は目を泳がせつつ、「ゴールデンダイナーってお店でバイトしてるとかなんとか……」と小声で答えた。
●
雑踏を駆ける。
鬼気迫る形相で走る少年を、町行く人はスマホからチラリと顔を上げて一瞥したが、5分後には忘れているだろう。
ゴールデンダイナー。
看板が見えて、そして――そこへ向かおうとしている『彼』の、背中が見えて。
「――おい! 風早!」
少年は叫んでいた。
もう一人の少年が振り返った。
「風早、おまえッ……なんで、ッ」
引退したんだよ。息を荒げ詰まらせ歩み寄る少年は、そう続けようとした。しかし。
「すみません、どなたですか?」
不思議そうに、首を傾げて、真っ直ぐ見つめられて、告げられた、言葉。
少年の中で何かが、そして何もかもが、落っこちて、地面にぶつかって、カシャンと砕ける音がした。
――眼中にすらなかった。
記憶すらされていなかった。
天才からすれば、この少年は特別でもなんでもなかった、のだ。
「――〜〜〜〜ッッ」
狂乱して、もう声にもならなくて、踏み込んで、持てる技術を全て注ぎ込んで、少年は天才の顔へ拳を振り抜いていた。
拳は空を切った。
紙一重、否、最低限、労力など不要と言わんばかり、完全に見切られて、躱されて、天才の瞳孔が少年を完全に捉えて見据えていて。
(あ )
初めて相対したあの日もそうだった。躱されて、そして、天才の雷撃のような蹴りが顎を撃ち抜いて、気付けば、リングに仰向けになっていたんだ。少年は思い出していた。ドッ、とコンマの世界で心臓が跳ねる。あの時。あの時。あの時。まずい。カウンターが来る。ハイキック。こんな狭い間合いからでも来る。下がれ。ガード。間に合わない。避けきれない。倒される。まずい、まずいまずいまずいやばい嫌だ負けたくない負けたくない負けたくない怖い
「あの」
脳を揺らす蹴りが来ることはなく。
少年の手首をやんわり掴んで降ろさせた天才が、困ったような小声で告げる。
「危ないから……駄目ですよ」
見なかったことにするから諦めろ、と言外に含んで。そっと、天才は少年の手首を離した。
「いいパンチですね。ボクシングかな、これからも頑張って」
何事かとざわめく雑踏の中で、不思議とよく聞こえる小声でそう言って。
風早閃は踵を返した。見えなくなって、そこには項垂れる少年だけが残された。
それから彼がどう生きたのか、風早閃という人ならざる天才が認知することはなく、非日常と日常を生きる少年達の人生が交わることもまた、ないのだろう。
『了』