にちようびのあさ、ひとりがこわかったあのひのこと。ー夢を見た。
彼がまだ、自分の中に居て、自分と同じ景色を見ていた、あの日の夢を。
彼岸花の咲く川辺に、横たわる自分と。
それを見下ろしている、彼が居て。
まるであの日の再来のような光景に、身動きが取れないまま、
暁人はただ自分を見下ろす彼を見つめ返した。
物言わぬままの彼がそっと、胸に手を当てて。ーそのまま、深く。手刀が抉るように、暁人の胸を、貫いた。
ばちん、と目の前が赤く染まる。
痛みよりも何よりも、視界から彼が消えてしまうことを恐れて、暁人は喉が潰れそうになるのも構わず、彼の名を呼ぼうと口を開いた。
喉からはひゅうひゅうと息が鳴るばかりで、もはや言葉にはならなかったけれど、
彼は確かに、その”言葉”を聞いたようだった。
『最期に名前を呼ぶなんざ、呪いみたいなモンなんだぞ?だが良いー暁人、オレたちはきっとまたいつかどこかで出会う。だからそれまでー』
最後の呟きは、聞き取れなかった。赤く染まっていた視界が徐々に暗闇へと転じていく。暗い海のような空間に、飲み込まれていく。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
一気に覚醒した意識はそれでも現実と幻想の狭間をさまよっているようで、ちかちかと、眩暈がする。思わず胸を抑える。確かに、生きている。心臓の音がうるさく響いた。それでもぎしぎしと痛みを訴える身体が、暁人の心をこれ以上なく暗く重い気分にさせる。
のそり、緩慢な動きでベッドから抜け出す。ぺたり、と裸足で踏むフローリングが冷たい。
カーテンを開けば、大粒の雨が窓を叩いていて、暁人ははあ、とため息とともにまたカーテンを閉じる。
時計を見ればまだ夜明けからそこまで経っていないくらいの時間だったし、今日は日曜だ。予定はない。
二度寝をしてもよかったのだけれど、きっと嫌な夢をみたのはこの雨音のせいだ。寝直してもまた悪夢を見るような気がする。
もうこのまま起きてしまおう。
そっとドアを開き、未だ暗いリビングの電気を点ける。
しん、と静まり返ったこの部屋のなかで、ひとりきりになる。
あの世界でさえもこんなふうにひとりになったことはなかった。だって傍には必ず彼がいたから。
もう物言わぬ右手をそっと見つめて、暁人はあの日、最後に贈った言葉の事を思い出す。
「・・・おやすみ、か」
夢の中のKKも、同じことを言ったような気がした。おやすみと。
そうだとしたら、結局あの人は本当に、なんて一方的な愛を自分に託したのだろう、と思う。
こんな日は殊更にゆっくりと丁寧に、豆から挽いたコーヒーを淹れよう。暁人はかぽん、と買い置きの置いてある棚からまだ開けていなかったコーヒー豆を取り出す。
昔はわざわざこうしてコーヒーを淹れることなどなかったけれど、こぽぽ、と液体が落ちるときの音が、彼がまだここにいたときの心音を思い出すようで、心地よくて、最近はたまにこうしてたっぷりと時間をかけてコーヒーを淹れることにしている。
ぼんやりとそれでももう慣れた手つきで豆を挽く、その合間。暁人はふわふわとまたあの日からの世界の続きの事を思い返す。
砕け散った想いを拾い集めて、せわしなく変わる世界の中で流されるように生きて。
それでもそう生きると決めたから、自分はここにいる。
挽いた豆をメーカーにセットして、こぽ、と落ちてゆくコーヒーを見つめる。
暗いくらい夜の色にも似たその液体に、もう恐怖を感じる必要はないけれど、
時々やっぱりどうしようもなく、不安になる日もあって。
だからコーヒーを飲むのは大抵朝だ。夜はあの日を思い出してしまうから。
「でもなんだかんだ言って、きっと僕の方があんたの事を欲していたんだろうな」
言葉にすると少しだけ気恥ずかしい。そうだ、きっと自分のほうがKKに依存していた。あの日は絶対に言ってやらなかったことだけど。
そしてさっきの夢のように、自分が最期に呼ぶ名前が彼を示すものならば、また出逢えるのだろうと。逢える確証があるのなら、それに賭けたい、と。
そう信じて、自分はあの日、世界を繋ぐ門を潜り、帰ってきたのだ。
ーぽちゃん。
最後の一滴がしたたり落ちて、暁人は閉じていた瞳を開く。
フィルターを外し、マグカップに注げば、朝用にと軽めに挽いたやわらかな香りが鼻孔をくすぐって、少しだけ穏やかな目覚めへと向かわせてくれるスイッチになる。
いつもは入れないのだけれど、今日は一杯の蜂蜜と、ほんの少しのミルクを足して。
こんな朝は少しだけ、自分を甘やかしたっていいだろ。
気づけば少しづつ空が白んで、光が漏れてくる。
暁人は部屋の灯りを消して、カーテンを開いた。
雨は変わらず降っている。けれど、僅かに聞こえる鳥の囀りやバイクの音が、
ここは確かに「生きている街」なのだと教えてくれる。
世界は確かに救われたのだろう。
けれど戻ってこなかったものもたくさんある。
だからといって、いまここにいることが虚しいだなんて思わない。
『正義感と使命感で胸がいっぱいになるだろーそれでこそ生きてる甲斐があるってもんだ』
魂だけの存在になってもなお、生き甲斐を求めて走った彼。ひとつの身体を共有して、空を、大地を駆け巡った。
あんな経験はきっともう二度とできない。
だからこそ、諦めたくはなかった。
あの日のことを、過去の事として忘れていくだけなど、到底出来そうになかった。
それでも。
「・・・きっと、世界が何も変わらなくても。僕たちは同じ選択をしたんだろうね」
カップの中のコーヒーを飲み切って、底に残ったはちみつをスプーンで掬う。
ほろ苦さの残るやさしい甘みは、どこかKKの煙草の匂いのするキスの味がするような気がして、
暁人はふふ、と笑った。
雨はまだ止みそうにない。もし雨が止んだら、今日は少しだけ遠出をしようか。
それとも一日中、部屋で過ごそうか。
そんなことを思いながら窓の外を見つめていると、ちいさくガチャ、と扉が開く音がして、暁人はあれ、と思う。
確かにいつもは自分のほうがねぼすけだけれど、昨日はずいぶんと遅く帰ってきたはずだったから。
「あれ、起きちゃった?・・・さっきまではよく寝てたみたいだったから、ごめん、うるさくして」
声を掛ければいんやいい、とまだ掠れた低い声が届いて。
「今日はどうせ休みだろ、・・・コーヒー、オレにも淹れてくれ」
「はいはい」
ああ、ただ一人寝が寂しかっただけなのだと気づき、暁人はまた笑う。
キッチンに向かえば、コップに水を汲んで飲み干すKKと目が合った。寝ぐせのついた髪に、伸びっぱなしの髭。
素の表情の彼が自分を見つめ、笑う。
「暁人。これからは起きたら、寝室のドア、開けといてくれよ」
コーヒーの匂いで目が覚める朝ってのも、悪くねえからな。
その言葉に、わかった、と頷けば、そっと腰を引き寄せられる。
どちらからともなく、触れ合う唇。
欲しいものが同じであることの幸せを嚙みしめて、暁人はまた、笑う。
すべて、失ったと思っていた。でも、世界はたったひとつだけ、僕の心からの願いを叶えてくれた。
「言霊は呪いみてえなモンだ、って言ったろ?オマエが最後に『おやすみ』って言ってくれたからな・・・
確かに疲れちまったとは言ったがよ。もう会わねえとは言わなかったぜ、オレは」
どこまでも勝手な言い草で、そんな風に笑った彼を、どうして拒否なんてできるだろう。
「・・・おはよう、KK」
「ああ、おはようさん、暁人」
もう、朝が来るのは怖くない。それが今この瞬間だけに許された夢だとしても、きっと僕はこの幸せな時間を永久に、忘れないだろうから。
今はたしかに、僕たちはここに、互いにたったひとつの魂を抱いてー
そう、僕らの夜明けは今ここからまたはじまる。
一杯のコーヒーと、はちみつみたいに甘いキスから。