あまやかし⑦【幕間三】
今だから言えるけれど。
ライデンだって別に、第一印象は良くなかった。
東部戦線の“死神”に従う人狼。配属された戦隊に死を振り撒いて渡り歩く疫病神の傍らで唯一生き残り続けている“号持ち”。
戦友の血を啜って生きるのは号持ちの宿命だけれど、“ヴェアヴォルフ”なんて極めつけだ。いっそ露骨。
生きのびるために自分以外の全てを喰らう餓狼――なんて。噂の真偽はともかく。狼を想起させるような、野性味の強い容貌をした少年であることは確かだった。
あとすごく戦隊長に甘い。
単身で突っ込んで敵陣を掻き回すとかいう自殺志願で度々指揮を放棄する戦隊長から当前のように指揮系統を引き継ぐし。
鉄面皮で感情の起伏が薄い戦隊長に代わるかのように戦隊員に目を向けて戦隊内の雰囲気を調節しているし。
洗濯物をさっさと出せと怒鳴る声が隊舎に響くし、眠いんだったら部屋で寝ろと傍目にはいつもと変わらぬように見える戦隊長を担いでいくし。
甲斐甲斐しいというか。なんというか。明らかに副長の仕事でもなんでもないことを進んで行なって、何かにつけて戦隊長の世話を焼いているから。戦隊員としても生温い目を向けざるを得ないというか。
でも。
だからといって。
「……」
早朝に副長の部屋から出てくる戦隊長、なんて代物には遭遇したくなかった。
「うげっ」
心底嫌そうな声を上げてしまった自分は悪くない、と。セオは思う。
まだ陽も昇りきらぬ時間帯。薄闇に包まれた廊下に佇むのはセオと同い年の少女――の姿をした“死神”。
今すぐ〈ジャガーノート〉に乗り込んだっておかしくない野戦服を着込んでいるけれど。出てきた場所が場所だ。首元にきっちりと巻かれたスカーフすら、むしろ邪推の材料になり得るというか。
頬を引き攣らせているセオに対し、“死神”――シンは背後の扉を静かに閉める。外から掛ける鍵などという御大層なものは『家畜小屋』には存在しない。
白い貌がセオへと向けられる。戦場だろうと隊舎だろうと無表情を貫く鉄面皮は、こんな場面ですら変化がないらしい。
頬でも染めてくれればまだ人間味があるのに、と。まったき現実逃避で思うセオの方が、よほど落ち着いていなかったのだろう。
みしぃ、と。
セオの足元で床が軋む。夜明け前の静寂に満ちた廊下に響く音。プレハブ隊舎にありがちな現象で、しかして過敏になった神経は慣れているはずの音ですら大げさに受け止めてしまう。
思わず跳び上がりかけた、寸前で。足音もなく近づいてきていたシンの掌がセオの手首を掴む。
死を引き連れる“死神”に相応しい、白く、冷たい掌。
「驚かせるつもりはなかった」
「っ、いや、その、」
羞恥だとかばつの悪さだとか。どころか一切の感情が浮かんでいない血赤の双眸に、セオの方が戸惑ってしまう。
かさついて、罅割れた唇が小さく動く。
「出来れば静かにして欲しい。……まだ、他の奴らは眠っているから」
言いながら。小柄なセオより少し高い目線から紅い瞳が見つめてくる。
「……」
するりと。掴まれた手首をシンの指先が這う。親指の付け根を軽く押された。脈拍を測る仕草。――状況が状況だ。セオの心臓は常より速く動いている。
元凶たるシンは片目を僅かに細めて、廊下の先へと足を向けた。
……セオの手首を掴んだまま。
「ぇっ。なに、なに……!?」
「来い」
ぐいぐいと腕を引っ張られる。
セオとて歴戦のプロセッサーだ。足を縺れさせるような無様は晒さない。平衡感覚を含めた秀でた運動神経の持ち合わせがなければエイティシックスは生き残れない。
それでも死ぬときは死ぬが。
「……」
シンに腕を引かれる格好で、セオはプロセッサーたちの部屋がある二階から降りる。暗い食堂を抜けて、厨房を通り、通用口から外へと出た。
外も暗いことに変わりはない。まだ明けきっていない空。星天の名残り。昨夜はよく晴れていた。憎たらしいくらいの満天の星々を、睨みつけるほど虚しいこともないけれど。
風が吹く。そよぐ草木。朝露が散る。夜明け特有の清浄な空気の、冷たさ。人間など必要はない、と。言外に告げられているかのような気すらする、完璧にうつくしい世界。
染まりつつある東の空が眩しくて、セオは瞼を細めた。
「ねぇ。なんなのさ、戦隊長」
手首は既に離されて。セオを外にまで引っ張ってきたシンは、通用口の近くに纏められている焚き木を拾い上げている。
「まだ厨房で火を使えないからな」
粗末な厨房でもコンロくらいはあるとはいえ、灯火管制による電力制限と同じく使える時間帯が決まっている。
問いの答えとは言えぬ返事にセオは眉根を寄せたが、腕と膝と踵とで焚き木を適当な大きさに叩き割っていくシンの姿に何かを言う気力も失くす。普通に怖い。細い木の枝とはいえ、華奢な少女の身でばきぼきと折り砕かれていく光景はちょっと引く。
どうせ何かすることもない。大人しく眺めているセオの目の前でシンは淡々と動く。
木の枝を組み上げ、焚き木置き場に転がされていた折れ曲がった金属棒を五徳の代わりに地面へと突き立て、野戦服の懐から取り出したマッチを擦る。
ぼぅ、と。
灯る炎。
憎たらしいほど美しい薄明に比して貧相で、それ故に、完璧に調和が取れていた世界を白々しく変え果てる。
「火なんて熾してどうするの」
「寒いだろ」
シンは焚き火を指す。当たれ、とでも言いたいのか。断る理由もないからセオは火へと近づく。空気を炙る熱は当たり前に温かい。着火剤代わりの松ぼっくりがぱちんと弾ける。
一旦厨房へと引っ込んだシンはケトルとマグカップを手にして戻ってきた。ケトルを火に置いて。二つあるマグカップの片方を押し付けられる。
「温かいものを腹に入れるとよく眠れる」
シンの瞳がセオを映す。
血のような紅い瞳には、隈でも浮かせた少年が映り込んでいるのだろうか。
「……戦隊長。色々分かりづらいって言われない?」
「面と向かって言ってきた奴はそういないな」
マグカップを受け取りながら唇を尖らせるセオに対し、シンの方は相変わらずの無表情。
「お前は今朝の食事当番ではなかっただろ。少しの寝坊ぐらい大目に見てもらえる」
レギオンの襲撃もなさそうだ、と。シンは続ける。セオは内心で安堵を覚えた。
『亡霊憑き』だなんて噂は半信半疑だったけれど、知覚同調を通じて聴いてしまえば信じるしかない。
シンの言うとおりなのだ。温かな飲み物より何よりも、安眠を齎し得る『死神のお告げ』。
「そうするよ」
セオが頷くと、シンは焚き火へと顔を向けた。ふつんと途切れた会話の糸。けれど先程までの居た堪れなさは随分と薄れている。
そのうちケトルが細い湯気を昇らせ始めて。鼻腔を擽る香りにセオは片目を細めた。
「……お湯じゃないんだ」
「飲用として扱える草木はどの隊舎の近くにも大抵自生している」
ふぅん、とセオは鼻を動かす。青っぽいような、すがすがしいような、匂い。
「なんのお茶?」
「さあ」
「え、ええー……」
分からないものを煮出しているのか。
困惑するセオに、シンは首を傾ける。
「元々、乾燥させたりと加工していたのはライデンだ」
だから大丈夫だと言いたいのか。凄い信頼だ。セオは随分長いこと味わってもいない砂糖菓子を食わされたような気分になる。
「惚気とかいいよ……副長の部屋から出てくる戦隊長ってだけでお腹いっぱいだから」
「惚気のつもりはないし、惚気が出てくるような関係でもないが」
「今更誤魔化さなくていいから。節度さえあればどうでもいいし」
「昨晩はしていない」
「その補足いるかなぁ……!」
セオはげんなりと呻く。
今までの戦隊でもそういう関係を持っているプロセッサーたちがいたことはあったし、別に珍しくもない。
少なくともシンとライデンは節度がある方だ。距離感が近いとはいえ、色めいた雰囲気を感じさせることはこれまでなかった。先程鉢合わせてしまったのは不幸な事故だ。とてもいやなじこ。
セオは息を吐く。
正直、セオには関係を持とうとする彼らの気持ちはよく分からない。
明日も同じように朝日を見れるかも分からぬ境遇であるからとか。多分、理由は色々とあるのだろうけれど。想像してみたとして――それでもやっぱり、分からない。
だって、近づきすぎたら亡くしたときが怖いのに。
……近づきもしなかったことを、後悔することも、あるけれど。
「……」
セオが最初に配属された戦隊の戦隊長と、同じように馬鹿みたいに強くて、けれど陽気とは真逆の性格をした少女が焚き火からケトルを引き上げる。
「注ぐぞ」
「……ありがと」
とぷとぷと注がれる薄緑色の液体。いっそう濃くなる緑の香り。……ふと。最初の戦隊の戦隊長も、わざわざ茶を煮出して飲んでいたなと思い出す。白系種の道楽だと、セオも含めた当時の戦隊員には陰で嗤われていたけれど。
人型の家畜であると定義されたプロセッサーに嗜好品の類いは支給されない。にも関わらず、各基地に併設された生産プラントが吐き出す合成食糧はプラスチック爆薬を思わせる食味で非常に不味い。放棄された市街地を探索すれば缶詰などが放置されていることは分かっているけれど、戦闘に次ぐ戦闘で休暇もないプロセッサーたちが日常的に食糧等の調達へと赴くことは難しい。
セオは立ち昇る湯気を息で吹き散らす。マグカップの中身は熱くて、まだ飲めない。
「戦隊長、わりと雑なのに食事とか気にするんだ」
「戦隊長がというより、気にしているのは副長だな」
様子見で口にした軽い毒舌は何でもないように流された。沸点が低いタイプではないらしい。
横目で観察するセオに対し、シンは淡々と言う。
「“人はパンのみにて生くるにあらず”」
「なにそれ?」
「世界的な大ベストセラーに記された言葉だ。気になるようなら渡す」
シンもマグカップに息を吹きかけながら、
「ライデンの奴はあれで案外真面目だ」
忘れたっていいような教えを忘れられていない、と。白い湯気を散らす吐息が笑みに似たかたちに揺れる。
また惚気だろうか。自覚がないならいっそ感心するが。半眼になるセオをよそにシンは続けた。
「だが馬鹿にも出来ない。……おれの経験則だが、合成食糧で胃袋を満たすことだけを考えるようになった戦隊は消耗が激しい」
戦隊員の精神的な余裕がなくなっていき、やがて致命的なミスへと繋がるのだという。
無言でマグカップの中身を見つめるセオをよそに、シンはお茶を口に含んだ。……鉄面皮に変化はない。
だからまあ。即座に吐き出したくなる味だとかではないのだろう。
判断して、セオもマグカップに口を付ける。
……セオにとっての最初の戦隊長も。精神的な余裕を得るために、あるいはまだ余裕があるのだと自らに言い聞かせるためにお茶など煮出していたのだろうか、と。
考えながらセオは温かな液体を口内へと滑り込ませて、
「……ねえ。これ、淹れ方とか合ってるの……?」
「さあ」
平然とマグカップの中身を飲み進めていくシンの姿に、とりあえず、この死神戦隊長にお茶とか淹れさせない方が良いんだなと学んだ。
* * *
「――旧“クレイモア”戦隊から“スピアヘッド”戦隊に配属された隊員が戦隊長に出来るだけ食事当番を回さない理由は、こんなところかな」
「甘やかしてる」
ハルトがしょっぱい顔をした。
確かにハルトの言うとおりだろう。だがしかし。今、ハルトが飲んでいるお茶――隊舎の裏で野生化していたハーブを洗ってお湯を注いだだけの代物ですら、シンが淹れると不味くなる。
ポットにお湯を注ぐという工程が面倒くさいのか。ハーブと水を同じ鍋に入れて、煮出すのを通り越して煮詰めていたりするので。シンは弱火と強火の違いを理解する気があんまりない。
「……甘やかしてる……」
「作れる人間がやればいいと思っちゃうんだよね、もう」
覚える気の薄い人間にわざわざ指導するほどの余裕はないわけだし。
セオは鍋をかき混ぜる。ふぅわりと昇る湯気。煮詰めた砂糖と木苺の甘酸っぱい香りが広がっていく。
当然、厨房に面した食堂にも香りは届いていて。椅子に腰掛けるハルトはそわそわと落ち着かない。
「味見する?」
「する!」
言うや否や。ハルトが小走りで厨房に入ってくる。セオは鍋の中からジャムを掬って、缶詰のクラッカーの上へと垂らしてやった。間違っても合成食糧などには併せない。アレはどう工夫しても不味い。不味すぎるから厨房内から撤去されている。
「いただきます!」
ハルトがジャム乗せクラッカーを口に頬張った。――カッ、と。緋鋼種の緋色の瞳が見開かれる。目は口ほどに物を言う。そんな言葉の体現。
「おいしい……!」
「もう一枚ぐらい食べる?」
「え! ……いやでもみんなの分が……」
「全然余裕だよ」
どのみち小分けにして保存しておいて、朝食などで出す予定だ。大鍋一杯のジャムと殺菌消毒済みの小瓶を指差して言ったセオに「毎朝……!?」とハルトの顔に衝撃が走った。
気持ちは分かる。哨戒任務の必要がない、“死神”指揮下の戦隊であるからこそ叶う食生活の充実ぶりだ。
「はー……ほんとに神さまだ……セオもありがと……」
「大げさ。というか、お礼を言うのは僕相手じゃないでしょ」
哨戒任務をせずに済むのはシンの異能の恩恵で、今回のジャムに利用した砂糖を都市の廃墟へと調達しに行ったのはライデンたちだ。
ちなみにセオにジャムの作り方や瓶の殺菌方法を教えてくれたのもライデン。頻と度の少ない食事当番時以外では厨房内へ立ち入らないシンは、ときたま気紛れに狩ってきた獲物を通用口に置いていく。
……血抜き等の最低限の処理は終えてあるけれど。結果として発生する、毛皮を剥がれた動物の死体が並ぶ不気味な光景。遭遇してしまった不幸な新入りが悲鳴を上げることもあるし、“クレイモア”戦隊に配属された当初のリトがちょっと泣いてた。
「あ、狩りなら出来ると思う」
ハルトは二枚目のクラッカーを受け取りながら、一瞬だけ、彼のパーソナルネームに相応しい猛禽の瞳をする。号持ちが集められた“スピアヘッド”の戦隊員が今更動物の死体やら解体程度で物怖じするわけがない。
「でも料理? とかほとんどやったことないからさ! セオは凄いよ!」
「砂糖と一緒に煮詰めただけだけどね」
料理の上手いライデンやアンジュのような腕前であるとはとても言えない。余計なことをしないから大きな失敗をしない。その程度。
「そうかな……凄いと思うけど……」
ハルトは指先についたジャムを舐め取る。お気に召してもらえたようで何よりだ。
丁度その瞬間。通用口の扉が開いて、
「――ハルトの言うとおりだぞ、セオ」
ぬ、と大きな陰が――ライデンが厨房に入ってくる。
「鍋ごと焦がしたくせして別に食えるからいいだろとかのたまう、反省の欠片もねぇバカ舌の持ち主よりお前はずっと優秀な生徒だ」
「僕、生徒扱いなの? 料理に関しては否定しないけどさ」
というか、いたのか。
多少驚きつつセオは鍋を一混ぜして、
「はい。ライデン先生も、味の確認お願い」
「おう」
茶番のやり取り。セオは先程ハルトにしたようにクラッカーにジャムを乗せてライデンへと渡す。無骨で太い掌。水で洗ったのか少し湿った指先がクラッカーを受け取って、
「ん。上出来」
「はいはいどーも。ゴシドウのタマモノだよ」
棒読みで茶番を続けながらも、セオは唇を尖らせる。
「どこから聞いてたのさ。盗み聞きとか趣味悪い」
「お前らが勝手に俺らの話題で話してただけだろうが」
俺ら。
ライデンの言葉にセオは首を伸ばす。よく見ればライデンの後ろ、通用口に背を向ける格好でしゃがみ込む人物がいた。短く揃えた夜黒種の黒髪と、首元に巻かれた空色のスカーフ。感情の映りづらい血赤の瞳が、けれど僅かに不服そうにライデンを見上げている。
しかし、ご不満げな死神戦隊長の眼光も意に介さず。ライデンは肩を竦めた。
「この馬鹿が雑に茶を淹れてやった、ってとこから聞こえてたな」
「最初からじゃん……」
シンの傍らには野菜が詰め込まれた籠が置かれている。家庭菜園の収穫物。どうやらシンとライデンは通用口の前で野菜の土を洗い落としていたらしい。
……まあ。『何故』、セオがシンと二人でお茶など啜る羽目になったのか。その直前の出来事は省いて説明したからいいけれど。
セオが渋面を浮かべた理由を知ってか知らずか。ライデンはクラッカーを一枚取り、軽く屈んで、
「ほれ」
「ん、」
ごく当然のように開いていた口に、何も乗せていないクラッカーが押し込まれる。
セオの隣でハルトが豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をした。気持ちは分かる。
「――そういう感じなの? あの二人」
ハルトがセオの袖を引く。
出逢ってまだ日が浅いが、騒がしく落ち着きのない性格をしているのだと知るには充分すぎて。女性隊員相手に頬を緩めていたりもするから軽薄なタイプかとも思っていたが、『そう』と見て取った相手を囃し立てにいかない程度の分別はあるらしい。
まあ。“死神”と“人狼”相手にそれをやれる猛者は中々いないけれど。
「付き合い長いから。あの二人」
鍋の火を止めて、セオは確かな事実のみを口にした。
件のシンとライデンは食堂の一角でお茶を飲みながら休憩中。同じテーブルを使ってこそいるが、意味なくべたべたしているわけでもなく。シンに至っては野戦服のポケットから取り出した文庫本を開いている。
「ライデンとしてはシンの手にはまだ泥がついてたから、とかだと思うよ」
「う、うーん……?」
「あと、シンは甘い物好きじゃないんだよね」
塩味がついているとはいえ、何も乗せていないクラッカーなど美味しいものではないと思うけれど。
味覚が鈍い、というか。食べ物の味に頓着しないという意味でのバカ舌。そのわりに甘い物が好きではないというのも奇妙な話だが。
「ふーん」
ハルトが片目を動かす。緋色の視線の先ではライデンが自分とシンのマグカップにお茶のお代わりを注いでいるところだった。自分のお代わりを注ぐついでか、シンのお代わりを注ぐついでなのか。どちらであっても大差はないけれど。
ライデンはシンの世話を焼くし、シンはライデンの世話焼きを受け入れている。
セオとてシンとライデンとはそれなりに長く付き合っているが、あの二人の関係性は未だによく分からない。
ただ長い――長い付き合いなのだ。
“死神”が所属した戦隊は従う人狼以外が全滅してきたという。……あくまで噂だ。事実すべてではないことはセオたちの存在が証明している。
それでも。
あの二人を除く戦隊員たちの全員が死んでいった時期があったこともまた、事実なのだろう。
戦隊の全滅など、実のところ激戦区では珍しい出来事ではない。特別強くて悪運に恵まれてしまった子供二人を取り残し、ばたばたと斃れていった戦隊員たちは数多くいたはずだ。
徐々に穴の増えていく戦列の中で。
徐々に広くなっていく隊舎の中で。
あの気の狂いそうになる――否。気を狂わせる欠落を幾度も幾度も経験して。最後には二人きり。いつもお互いだけが生き残る。
それがいかほど凄絶な経験であったのかは、セオには結局、想像するしか出来そうにないけれど。
「……」
無意識のうちにシンとライデンを見つめていたセオの視界に、にょきり、と。緋色が割り込んでくる。
ハルトだ。
「さびしい?」
「……は、?」
ハルトが口にした言葉の意味が分からずに、セオは瞬く。
さびしい。誰が。――僕が?
「なに、言ってんの、」
いやまあ――僕だって結構長く二人の近くで生き残ってきたんだけどとか。同じ前衛担当なんだからもう少しぐらい僕にも頼ってくれても良いのにとか。二人とも僕が同い年の男だってことを忘れている瞬間が結構あるよねだとか。言いたいことはあるけれど。
それを、さびしいとは、
「さびしいんだ」
ハルトの瞳がセオを射抜く。セオがシンとライデンの二人に抱く不満とも呼べない、もやもやとした気持ちを見透かされてしまった気がして。
けれど認めてやるのは癪すぎた。
「そんなわけないでしょ」
顔を背ける。
しかしハルトは身体ごと回り込んできた。つよい。
「俺はさびしい! 構って!」
「えっ、なんで」
わりと素で言葉が出た。
ハルトは、むぅ、と大袈裟に頬を膨らませて、
「急に目の前で前からの知り合い同士で小芝居が始まったら正直気まずい!」
「あっ。うん」
「仲良かったんじゃん、旧“クレイモア”戦隊!」
確かに雰囲気の悪い戦隊ではなかったけれど。「いいないいな」と羨んでくるハルトにセオは面食らう。
「俺らだってもう同じ戦隊の仲間だろ! 仲間外れはよくないと思う!」
ハルトの主張に、――堪えきれないと言わんばかりの吹き出す声が被さる。
セオはじとりと食堂の一角を睨む。
「……また盗み聞き? 趣味悪いなぁ」
「お前らの声がデカいんだよ」
声が大きいのは主にハルトだ。
くつくつと肩を揺らすライデンは、マグカップとポットを掴んで立ち上がる。
「ハルト。興味あんなら今日の夕食作んのを手伝ってくれるか?」
「うん! よろしくライデン先生!」
早速先程の茶番に乗るハルト。当番でもなかったのによくやるなぁ、と。呆れすら感じつつ、セオはジャムの瓶詰め作業に取り掛かったが、
「ねぇ、セオ! 今日はなに作るの?」
「えっ。いや僕は夕食の当番じゃ、」
「お。セオも手伝ってくれんのか。人手があるならちょっと凝ったモンも作れるな」
巻き込まれた。
セオは流し台で洗い物をしているライデンを見る。同い年のくせに、幾つか歳上に見える顔には確信犯の笑みが浮かんでいた。
ライデンの背中に向けて、ハルトが問う。
「凝ったものってどういうの?」
「この前の調達で保存状態のいい小麦粉が手に入ったんだよ。パスタを作る用のやつ」
「パスタ……!」
「ショートパスタなら人数分作る手間は掛かっても、手順さえ守れば失敗はそうそうしねぇから」
セオを置いてどんどん話が進んでいく。未だ本を読んでいるシンへと視線を向けたが、珍しく話を聞いていたのか「襲撃は無さそうだ」と予報が返ってきた。
「はー……楽しみだな、セオ!」
極めつけにきらきらとした緋色の瞳が向けられて。セオは仕方がないと息を吐いた。
まあ別に。手伝うのは構わない。パスタ美味しそうだし。……セオとハルトのやり取りに、口の端を持ち上げているライデンはどうかと思うが。仲良い奴が出来て良かったじゃねぇか、と。微笑ましげな眼差しはやめて欲しい。
世話好きなのは分かっているが。
多分、生来の。
「……」
さびしい、なんて。ハルトも随分なことを言ってくれたものだ。
シンもライデンも周囲に壁を作っているわけではない。ただ、周囲が推し量るしかない深淵があるだけだ。
今回も。シンは最後まで生きのびるだろう。死に囚われているくせして死に嫌われている“死神”の指先は、セオの名前も刻んで連れていってくれる。
そして多分。ライデンも長く生き残るだろう。生に対する執着心のケタが違う。ただ生きるために合成食糧で腹を満たす生活を受け入れなかったように。貪欲なまでの生への欲求の持ち主。
二人とも。最後の特別偵察任務の朝まで生き残るのかもしれなくて。
けれど出来れば。『二人きり』にはさせてあげたくない、と。セオは思う。
シンとライデンにとっての『二人きり』はトラウマの類いだろう。
今よりも幼く、周囲が死に続けていた時期の再来。死を命じられた行軍の果てだとしても、そんな終わり方はあんまりだ。
シンもライデンも強いけど。けれども『二人きり』だと、どこまででも沈み込んでいきそうなところがある二人だから。
出来ればダイヤやクジョーみたいな。騒がしくて賑やかで、周囲を明るくさせるような奴が傍にいて欲しい。
「セオ?」
緋色の瞳がきょとりと瞬く。
「……なんでもない」
セオの言葉は素っ気なさすぎるくらいに響いた。しかしハルトは気にした様子もなく朗らかに笑っている。
……誰かみたいに陽気で快活。
だから。
生き残るなら君みたいな、
「……凝ったものを作るなら早く作業を始めないとね」
よぎった想いは胸に納めて。セオは皮肉げに口角を伸ばした。
祈りの方法なんて知りもしない。
けれど。
きっと、祈りに似ていた。
* * *
分かってた。
人の祈りなんて、こんな世界が汲むわけもない。
* * *
空の青さにセオは瞼を細めた。
夏空。目の醒めるような蒼穹と、もくもくと昇る入道雲。青と白のコントラストによるくっきりとした眩さ。――生命の存在を強く感じさせる季節。いつだって何処でだって。夏の空は魔物のように美しい。
木陰でスケッチブックを開いていたセオは、校舎の売店で購入したオレンジジュースを口に含む。喉を滑り落ちていく、合成香料を纏った冷たさと甘み。
放課後の校内ではどこからか少年少女たちが談笑する声や、スポーツに興じる声が響いていてくる。――『学校』は戦場で育ったエイティシックスたちを連邦政府が想定する一般的な生活に慣らす訓練施設としての側面も大きい。遅れ気味の必要課程をさっさと修了させるための詰め込み教育が施されることもなく、充分すぎるほどのゆとりが設けられている。
今日は提出間近の課題の類いもないから。趣味のスケッチに勤しんでいたセオの耳朶が、ふいに、聞き馴染んだ声を捉えた。
「――先客がいたか」
「あれ、シン?」
セオが背中を預けた樹の後ろから、少女が現れた。
覗き込んでくる血赤の瞳を見上げて、にや、と。セオは口の端で意地の悪い笑みを向けてやった。
「レーナは仕事?」
「……。そうだが」
セオの表情の意図を察したか。シンは少しむすりと答えた。セオたちと同じように生徒扱いで学校に通っているレーナだが、彼女自身は既に必要な課程を修了している。突発的な仕事が舞い込めばそちらを優先せねばならないこともあるだろう。
とはいえレーナ自身も休暇中。故に、シンとレーナはほとんど毎日放課後デートをしているけれど。
にやにやと笑みを浮かべながら、セオは続けた。
「それで、どうしたのさ」
「この時間はこの木陰の中が一番涼しい」
「ああ。本を読みに来たの」
確かにこの木陰は涼しいし、居心地がいい。セオは荷物を軽く纏めて、隣にスペースを作ってやった。
「助かる」
「どーいたしまして」
並んで座る。シンは鞄から文庫本を取り出して、セオは再びスケッチブックへと向き合う。
静かだった。グランドの喧騒も、少し遠い。
セオは鉛筆を走らせながら、ちら、とシンの横顔を伺う。白い貌。けれども顔色が悪いとか、そういう印象は見受けられない。
「……この前。保健室に運ばれたって聞いたけれど」
「……」
無言。話したくないというよりは、何故そんなことを尋ねてくるのかと疑問に思ったかのような沈黙だった。セオは少し拍子抜けする。どうも本当に大したことがなかったらしい。
まあ、もしも深刻な理由であれば流石にセオたちにも情報の共有がされるし。そもそもの情報源はリトだし。
「……確かに。運ばれたことは運ばれたが」
「そこは事実なんだ。なんかライデンが保健室に顔出しに行こうとしたら追い返されたらしいけど」
何故かシデンとシャナに。ライデン自身は気にしていないかのように振る舞っていたつもりかもしれないが、男子寮の部屋で少なからず落ち込んでいたでかい図体の男は結構大分鬱陶しかった。
「まず、ライデンが来ていたこと自体がおれには初耳なんだが」
「情報共有って重要だと僕は思うよ」
「……」
再びの沈黙。
シンは少し悩むように眉根を寄せて、
「…………男子側が受けた保健体育のカリキュラムの内容をおれは知らないんだが、」
「あっ」
察した。
「おれが相手でよかったな。他の女性にその調子で詰問したら顰蹙を買うぞ」
「……気をつけるよ……」
「そうしておけ」
シンは本に視線を落としたまま肩を竦める。言葉通り、不快に思ってはいないらしい。こういう部分は変わっていないのだ。……少年プロセッサー側にデリカシーなど期待できる環境ではなかったことも影響しているのだろうけれど。それを踏まえてもシン自身がデリカシーのある方ではないけれど。
あと『理由』を知ったところで、それをライデンに伝えるのは同性であっても気まずい。
頭を抱えるセオに、シンはくつりと肩を揺らした。
「心配してくれたことには、礼を言う」
「――――」
かつては想像も出来なかった、屈託なく笑うシンの姿。
変わらない部分はあって。
それでも変わった部分はある。
笑みを包む長い黒髪。溶岩地帯で生身を晒したが故に傷んで少し切る羽目になっていた髪は、どこか軽やか。木漏れ日が艶めいた漆黒に紋様を描いている。
シンはあまり陽射しが似合うタイプではないけれど。……似合うとすれば月光、星明かり、と。何かの折にぼそりと呟いていたライデンはやっぱりキザだ。あと夜を連想させる単語を選ぶのはやめて欲しかった。
多分、無自覚で。
……そんな無自覚の発露ですら、もう、見聞きすることはないのだろう。
「……」
さびしい、と。
見透かすように。曖昧な感情に名をつけてみせた少年。陽気で快活だった少年。もう歳を取らない少年。
すべてを過去にするには。
セオにはまだ――さびしい。
「――――」
シンが本から顔を上げた。……変わったな、と。こちらを慮ったと分かるシンの仕草にこそ、セオは泣きたいような気持ちになる。雪が溶けるように。かつての鉄面皮は剥がれ去った。
元々、優しすぎるくらい優しいひとだ。一方で、周囲にそうとに悟らせることがとことん苦手な性質でもあって――否。少し付き合えば自ずと伝わってくる、その少しの時間もないまま、ばたばたと斃れていった戦隊員たちが多くいた。セオはたまたま生き残れた側に立てただけ。
血赤の瞳がセオを見つめる。……結局、セオの背丈は大して伸びなそうになくて。だからセオとシンとの目線の高さは大きく変わらないままなのだろう。
震えそうになる唇を、抑え込むように動かす。
「あのさ、」
ライデン自身は伝えてなんて欲しくないだろうけれど。
無味乾燥な報告に加工する過程で切り捨てられてしまった、戦友の感情について。
「……ライデン。結構動揺してたし、……心配してたよ。シンのこと」
攻城路の件もそうだが――溶岩地帯でシンを見つけるまでと、見つけた直後は、本当に。
当人は隠し通していたつもりなのかもしれないが。……あるいは、自覚そのものが薄いのか。
「あいつは他人の世話を焼いてばかりで、自分のことは後回しにしがちだからな」
セオの懸念をシンが言葉にする。セオが気づいたことをシンが察していないはずもない。
長い付き合いなのだから。
「……」
シンは僅かに瞼を伏せる。何かを思い出すように。血赤の瞳に浮かぶのは懐古。彼女の中では、すべて過去の出来事になってしまっているのだろうか。
「おれが神父様に育てられたという話は、以前にしたな」
唐突な話題の変更。しかしセオは頷く。血赤の眼差しは真剣そのもの。はぐらかしの類いではあるまい。
「うん。知ってるけど」
シンを育てた白系種の神父。シンは彼から生き残るためのあらゆる知識と技術を授けられたという。
「あいつは……ライデンは。おれの副長だから。おれが神父様から学んだことを伝えておいても良いだろうと思った」
戦術に体術にサバイバル技術。生き抜くために必要な、あらゆることを。
「いい生徒だった」
だろうな、とセオは思う。
備えた体格にせよ、匿われた中で与えられたという教育にせよ。ライデンは千人に一人も生き残れなかったエイティシックスの中でも上澄みだ。……ライデン自身はどうにも自覚が薄い節があるが。おそらく、上澄みどころか規格外のシンがずっと傍にいた影響。
「……けれど結局。あいつは最後まで副長だったな」
副長。
副長の役割は、戦隊長の代理。
「おれが不在であっても指揮を取れるだけの力量はあるくせに。……戦闘時に、おれの言葉に背いたことなんてなかったくせに」
置いて逃げろという命令には、従わなかった。
「あいつを、ああいう在り方にさせたのは。おれの責任だ」
そんなことを。
シンがのたまうものだから。
セオはもう、溜息すらも吐けなかった。
「シンって実際、馬鹿だよね」
「……」
シンの眉尻が下がる。八の字を描いた眉はいっそ愁傷。随分と素直な振る舞いに、まあ、僕が言えば受け入れもするか、と。少しの自嘲。
シンがいっとう我儘に振り回すのは、副長だけだ。
「置いて逃げろなんて命令を受け入れるような副長だったら、僕らは従ってないよ」
見くびらないで欲しい。
自らの上に誰を敷くかくらいの選択権は、八六区の戦場にもあったのだから。
「……そうか」
シンは呻くような息を漏らした。
シンの命令に従えなかった者が散っていった事実があるとして、それすらも、彼らの自由と選択の果てだ。
……特別偵察任務の、最初と最後の戦闘。シンと共に戦うことを選んだことも、勿論自分たちの総意で選択。
結果として、今、こうして穏やかに会話をしている時間を得ているわけだが。何を選べば生き残れたかどうかなんて、結果論でしか語れない。
「戦隊内の指揮系統でいえばおれは最上位だったんだがな」
「なにそれ。八六区での階級なんて、便宜上の区分でしかなかったでしょ」
セオたちの世代でも正規軍人の生き残りや軍学校出身のエイティシックス――から薫陶を受けた者はいて。例えば出撃前後にブリーフィングなどは軍隊じみたやり取りであっただろう。
けれども所詮は碌な訓練も施されぬまま戦場へと放り込まれた子供たちの真似事で、
「ごっこ遊び、だったな」
シンが呟く。シン自身の言葉というよりは、もういない誰かの言葉を口に出したかのような響きだった。
……それでも。“死神”なんて役割を自らに課したシンはとんでもないと、思うけれど。
「……」
シンの髪先が風に踊る。薄い肩。締め付けるように巻かれたネクタイ。シャツの襟元から伸びる細い首と、ぐるりと回る無惨な傷痕。
あの頃。僕らの死神でいてくれた少女には、重すぎるくらいの重たいものを背負わせていて。
あの日。赤を滴らせる緋色の髪の持ち主の『確認』をしたのは、いつものようにシンであったけれど。
あるいはセオがしておけば良かった、なんて。
「……僕だって拳銃の扱い方ぐらい、戦隊長から教わってたくせにね」
絡めた指先の温度を今でも忘れられないくらいなら、いっそ。なんて。
本当に。
今更もいいところだけれど、
「セオ」
名前を呼ばれた。
応えようとした。
背中に、衝撃。
「――――ぇ、」
零れた自分の声。軋む肩。鼻先に触れる吐息。目前に迫った血赤の瞳。頬を擽る漆黒の髪。
肩を掴まれて。
背後の幹へと押し付けられて。
セオを覗き込むシンの面差しは、夏の陽射しを忘れさせるような冷たさを帯びている。
「――おれが、それをさせたと思うか?」
冷たく凍るような夜の。
乾いた骨のような白皙。
「おれだって、おれがすべきと思っていたからそうしていたんだ」
見くびってくれるなよ、とシンは言った。
掴まれていた肩から手が離される。こめかみから垂れる汗が、暑さによるものであるわけがない。
けれどもセオは唇を曲げてやった。
「……シン。八六区での序列争いの癖、直ってないでしょ」
最終的に殴り合いで自分の意見を押し通す、獣の理屈。
「そうかもな」
シンは悪びれもせずに立ち上がる。
「だがお前とて今ならもう、本気を出せばおれの身体程度の重量は跳ね除けられるだろう」
「そういうこと言う? そもそもシンが本気だったら初撃で僕の意識を刈り取っているでしょ」
フェアじゃない、と。
セオの言葉にシンは少しわらった。
「優しいな、お前らは」
「……はいはいどーも」
なんて面倒くさい甘え方だ。セオはスケッチブックと画材を鞄の中に突っ込む。
もはやスケッチをする気分ではなくなってしまった。
「こういうのはレーナ相手にしなよ」
「怖がらせたくない」
「甘いなぁ!」
そして怖がらせかねない振る舞いであるという自覚はあるらしい。まあ確かに。セオの心臓とてまだ早鐘を打っているが。恐怖で。
自分に対しても他人に対しても雑なところがあるシンだが、レーナだけは例外というか――だからこそ分かりやすいのだが。
じとりと半眼で見つめたセオに対し、シンは瞬き、僅かに視線が揺れる。
「……分かった。詫びに……なんだ、なにか甘いものでも奢ってやる」
せびったつもりではないけれど。まあ折角だからとセオは頷いて、芝生から腰を上げた。
「寮の近くに良いアイスクリームの店がある」
「えー……シンのお薦め……?」
バカ舌かつ甘い物嫌いのお薦め。信用が出来なさすぎる。
正直な感情を眼差しに籠めるが、シンは続けた。
「美味しいと言っていたのはレーナだ」
「惚気?」
「そうだな」
しれっと肯定するシンは、一足先に木陰の外に出る。
細い背中にセオも続いて。空は相変わらずの快晴。うつくしい、夏の空。
「セオ」
「なに?」
「お前は大事にされていたと、おれは思う」
「――――」
セオは、足を止めてしまう。
ああ。本当に。
見ていないようで、意外と見ているのだ。
「おれたちのそれは、惚気が出てくるような関係ではなかった。子供同士が縋り合った。それだけだった」
シンも足を止めて。けれど、だから。シンとセオの距離は縮まらない。
夏空の下。陽光の似合わない少女が語る。
「少なくとも。おれが向こうを大事に出来ていたわけではなかったし、一方通行は、」
言い掛けた言葉が途中で途切れる。
音にならずに零れた空気が、どんな言葉を紡ごうとしたのかは分からない。
「……傷つけないようにされたし、傷つけないようにしたんだろ。なら、わざわざ傷を増やすような真似をしなくてもいいと。おれは思う」
……どうしたって。シンは『役目』を譲る気はなかったのだろう。
傷になろうと呪いになろうと。ぜんぶ。自らの裡へと刻み込み、連れていくと。シンは決めていたから。
「……」
今、自分自身がどんな表情を浮かべているのか分からない。
シンが振り返る。血赤の瞳。
「まあ、」
真っ直ぐにセオを見つめながら、シンは言う。
「結局、あいつはおれを傷つけられなかったがな」
……あいつになら傷つけられても良かった、と。
そう言っているようにも聞こえて。
「っ、」
ようやく、セオは足を動かした。
「馬鹿でしょ」
二人とも。
並ぶ。あの頃と大差ない視線の位置。血赤の瞳は硬く。多分もう、想うべき感情は過去のものになってしまったのだけれど。
「そうだな」
シンの唇だけが、弧を描く。
からりとした、わらいかた。
「笑い話にしていいぞ」
「冗談」
笑ってなんて、やるものか。