桜 その日はたまたまオフで、高専を離れちょっと街中へ繰り出していた。といっても特に目的があったわけではない。ただ桜が満開だと言うニュースを見て、たまには遠出するのもいいか思って都内一の花見スポットである公園に足を運んだだけだ。そして結論を言うと、それほど面白いことは何もなかった。満開の桜は確かに美しいと思った。しかし、ああまで人間が集まっているところに行くと、ただでさえ特別な目を持つ自分には見えなくてもいいものまで見えてしまう。
五条悟は今、そんな遠出から高専に戻るためにバスに乗っているところだった。山奥の辺鄙な場所にある呪術高専へ通じる路線バスはこの一本だけ。他には乗客もいない。周りに商業施設もレジャースポットも何もないこの場所をつまらなく思うこともあるにはあったが、人間が多すぎるよりはこの静かな環境が案外気に入っているのかもしれない。
目的のバス停につき、バスを降りる。高専まではまだあと15分ほど歩かなくてはならない。このあたりも一応ソメイヨシノが植えられていて、薄紅色の花が満開になっていた。青空に花の色がよく映えている。五条は立ち止まり、風に枝を揺らしている桜の木々を見上げた。何もあんな人混みの中に足を運ばなくても、桜ならここで見れば十分だったのだ。
ふと道路の反対側からよく知っている呪力を感じた。白い上衣に赤い袴の巫女装束を着たよく見知った女が高専の方向から反対側のバス停へ向かって歩いてくるのが見えた。
「…歌姫」
五条は思わず声に出す。思わぬところで思わぬ人物の姿を目にして、知らず気分が高揚する。いつもそうだ。赤い袴の女性、庵歌姫は、いつも五条の気分を高揚させる。五条は歌姫の側にいるのが好きだった。と言っても歌姫本人は信じないかもしれない。顔を合わせればいつも歌姫を怒らせるようなことしか言わないし、いくら注意されても3つ上の歌姫に向かって敬語も使わない。生意気な後輩だとしか思われていないだろう。でも歌姫のことを好きなのは本当だ。あの切長で意志の強い目で睨まれるのも、自分より20cm近く背が低いくせに細い腕を振り上げて怒ってくるのも、好きでたまらない。歌姫が可愛くて、いつでも側に行きたいと思っているこの感情がなんなのか、五条は自分でもよくわかっていなかった。
それでも歌姫の姿を目にした五条が、道路の反対側へ渡って行ったのは自然なことだった。
「歌姫」
バス停に立っている歌姫に声をかけた。なんだか少しぼーっとしていた様子の歌姫は、声をかけられて初めて五条の存在に気づいたようだった。
「…五条」
歌姫が口にしたのはそれだけだった。いつもと様子が違う。いつものような力強さが、瞳に宿っていない。五条は歌姫の頭から爪先まで、視線を一巡りさせた。すると、その白く細い右手首に、包帯が巻かれているのに気がついた。
「…怪我。まだ治ってねーの」
そう言われて歌姫は、左手で右手首を隠した。
「ここは、ちょっと傷が深かったからね。でも大丈夫、私は」
今この間の報告書を出してきたのと、歌姫はつぶやくように言った。風が吹いて、歌姫の周りに、はらはらと薄紅色の花びらが舞った。
ことの起こりは、約2週間前のことだった。歌姫と一緒に呪霊討伐の任務にあたっていた術師が一人、亡くなった。五条はその術師と面識はないに等しかったが、歌姫の一つ年下の男性で、度々任務に同行していたらしい。らしい、ということしか、五条は知らない。でもその時、歌姫も怪我を負っていて、高専に戻ってくるなり医務室に運ばれて、家入硝子の治療を受けたことは知っている。一報を聞いて、五条もすぐに医務室に駆けつけたからだ。そこで確かに術師が一人亡くなったことも聞いたが、正直顔もよく知らない術師の死を嘆くより、歌姫の怪我がそこまで重くなく、硝子の反転術式で問題なく治療できる程度だったことに安堵していた。
だが当事者の歌姫はもちろん、そうではなかった。なにしろその術師の男性が亡くなったのは、歌姫を庇って呪霊の攻撃を正面から受けたことが原因だったからだ。ひどく落ち込み、取り乱した様子だったのを五条も見ていた。
そして2週間経っても、歌姫はそのショックから抜け出せないでいるのだった。
「人って死ぬのよね、当たり前だけど」
歌姫は五条の方を向かずに、そう呟いた。
「人が死ぬ瞬間って、今までも見たことあったけど、それが親しい人だとこんなにも辛くて悲しいんだって初めて知ったわ」
「…そうだろうな」
五条が言えるのはそれだけだった。
「…でももう、死んだ奴に対してできることなんてねーだろ」
「わかってる、そんなこと」
歌姫の語気が少しだけ荒くなった。わかっているのだ。仲間が死ぬこと。人が死ぬこと。そんなことに対していちいち落ち込んでいたら、悲しんでいたら、呪術師という仕事はやっていけないのだと。わかっていても、歌姫はまだ、自分を責め続けているのだ。
「でも私のことを庇って死んだのよ」
歌姫は五条に向かって叫ぶように言った。その声には涙が混じっていた。
「私のことを庇ったの、あの人。自分のよく知っている人が、自分のために死ぬってことが、こんなに辛いなんて思ってなかった」
歌姫はなおも、叫ぶように続ける。
「今まで人が死ぬ瞬間なんてたくさん見てきたのに、そんなこともわかってなかったんだって、自分にも腹が立つし、何よりも」
ほとんど嗚咽に近いような声だった。
「私が弱いから、あの人を守れなかった」
「……歌姫」
「いつもあんたが言う通りだった。あんたの言うことは当たってた。私が、弱い、から、あの人は、死んだんだって…!」
歌姫の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
「…歌姫のせいじゃないだろ」
「…いいわよ、慰めて、くれなくって…!」
また風が吹いて、桜の花びらがはらはらと舞い落ちる。薄紅色の花びらが、歌姫の周りを彩った。そのさまだけを見れば、ひどく美しい光景だった。薄い紅の中にいる彼女は、いつもより一層儚く、頼りなさげに見えた。
五条の体が、すっと動いた。気がつくと、歌姫の身体を、自分の腕の中に閉じ込めていた。
歌姫は驚いて身じろぎするが、しっかりと強く抱きすくめられていて、逃れることができない。五条も逃すまいと腕に力をこめる。そうしないと、まるで桜の花がはらはらと散るみたいに、歌姫までどこかへ行ってしまいそうな気がしたのだ。
五条には、近しい人を亡くした歌姫の気持ちはわからない。想像することはできるが、きっと本当の意味で理解することはできない。死んだ奴のことをいつまでも考えていてもしょうがない、もういない奴に対してできることなんかない、そう思っているのも事実だ。でもこんなにも壊れそうな歌姫を目の前にして、五条はどうしても、歌姫をこうやって繋ぎとめなければと思ったのだ。
歌姫が無事でよかった。歌姫のせいじゃない。
そう伝えなければ、歌姫まで消えてしまいそうで怖かった。
「五条、離して」
「歌姫のせいじゃないよ」
「…そんな、こと」
「歌姫が無事でよかった」
「…う、ん」
ひっく、ひっくと、歌姫が嗚咽する声が聞こえたが、五条はそのまま、歌姫を抱きしめ続けた。
何分経っただろうか。歌姫の呼吸が落ち着き、五条も少し腕の力を緩めた。
「…五条。本当に離して」
歌姫の声色は、少しだけいつもの凜とした響きを取り戻していた。その声を聞いて五条は腕を緩め、歌姫の顔を覗き込む。泣いたばかりで切長の目の端は赤くなっていた。その瞳が五条の瞳を見つめ返している。
この瞳が失われませんように。その瞬間、五条は強くそう思った。そしてそのまま歌姫の顔に顔を近づけ、涙の痕が残る歌姫の頬にそっと口付ける。
歌姫は頬に五条の唇が触れた瞬間、びくりと身体を震わせた。
「…何、今の」
その問いには答えず、五条は今度はそっと指で歌姫の頬に触れた。
「歌姫」
そしていつもよりずっと優しく、歌姫の名前を呼ぶ。
「どこにも行かないでよ」
「…何それっ…」
「歌姫は、どこにも行かないで」
五条は優しく、でも真剣な声色で繰り返す。
「…そんなの、わかんない、けど」
歌姫は戸惑ったように、それに応える、
「…努力は、する」
そう言うのが精一杯だった。
やっと、バスがやって来た。歌姫は「じゃあ」と言ってバスに乗り込むと、窓の外の五条に向かって手を振った。五条も手を振り返して、歌姫を乗せていくバスを見送った。
バスが行ってしまってからも、五条は暫くそこに佇んでいた。風に吹かれてはらはらと花びらを散らす、桜の木を再び見上げる。この花はあと数日で終わりを迎える。その盛りは短いものだ。人間の命も同じ。少しの風で散ってしまう、桜の花のように儚い。その命を、自分の力で全て助けることなんて到底できやしない。
それでも愛しい人の命だけは、この手で守ることができるように。少しでも長く、側にいられますように。柄にもなく、そんなことを願わずにはいられなかった。